「王はこの扉の向こうだろうな」
「……どうするの?」
「ここまで来たのだから、当然、盗み聞きくらいはさせてもらわないとなぁ」

これからどんな面白くもおぞましい話を聞けるのやら、と口元に笑みを浮かべるギーヴに向かって、ミトも溜め息を吐いて少し微笑む。
同じパルス人どうしとはいえ、対立する陣営のど真ん中に飛び込んでしまっている状況であることは確かなのだが、ギーヴさえいてくれればなんとかなるだろうという気になってしまい、そんな自分がなんだか可笑しい。
「あそこから中が覗けそうだ」と謁見の間に接する窓枠の方へ歩いていく彼に大人しく従い、ミトも覚悟を決める。
もし何かあっても大丈夫。根拠もないのにそう思わせる。
彼のそういう性質に、何度も救われていたのを思い出したのだ。



***



「アンドラゴラス王!……と、ヒルメス」

広間からはやや死角になった場所から目を凝らすと、地下水道で見た巨体と、顔の右側に赤黒い火傷をもつ男が相対していた。

想像通りといえばそうなのだが、しかしこの局面になってなぜ二人がわざわざ一対一で会っているのか、ミトにもギーヴにもわからなかった。
大理石の床に反響した話し声は鮮明ではなく、内容がいまいち聞き取れない。やきもきしたギーヴがもっと近付こうと言うのを必死に抑えていると、突然、ヒルメスが声を荒げた。

「黙れ!」

わめくような声に、ミトもギーヴも呼吸をとめた。
すると、謁見の間にはいっさいの音がなくなり、彼らも声を抑えるのを忘れたのか、そのおぞましい話が聞こえてきてしまう。自分の心臓がどんどんと胸を叩くのを強く意識する。耳を塞ごうとしても、身体を動かせなかった。

「これが事実だ、ヒルメス。予と兄オスロエスが、父王を弑した。そしてそれは、父王が兄の妃に子を妊ませたことが火種の一つだったのだ。おぬしが父と呼ぶべき者は、我が父ゴタルゼスの方だったのだ」

あまりにも急な真実に、ミトもギーヴも視線を動かすことすらできずにいた。

「え……な、なに……まさか……」

呆然とそう呟いたミトは、しかし唐突に理解した。ヒルメスの表情は見えないが、彼の精神がいまにも崩れてしまいそうであることは、想像に難くなかった。

『ヒルメスは、アンドラゴラスの兄王オスロエスの息子であり、パルスの正統な王位継承者であった』

そうであったと彼は信じ、今日までそれを支えに、彼からその未来を奪ったすべてを憎みぬき、生きてきた。
だが、彼の「父」を殺して王位を簒奪したはずのアンドラゴラスから語られたのは、まったく別の歴史だった。

『ヒルメスは、アンドラゴラスらの父であるゴタルゼス大王が、自分の息子オスロエスの妃と交わり生ませた子である』

それが事実だとすれば、ヒルメスはアンドラゴラスの弟だというおぞましい関係になり、正統な王子というのも彼の妄想に過ぎないものとなる。

「……信じるものか」

ヒルメスは声を絞り出す。そう苦し紛れに否定することしかできぬようにミトにも思えた。
もしも認めてしまえば、彼がこれまでなんのために生命を燃やし、自分が治めるべき国の人々をさえ燃やしてきたのか、その拠り所が消え去り、すべて、無価値で無意味なことになってしまう。

「……いやはや、これほど大変な話を盗み聞きできるとは、おぬしは本当に運がいいな」
「……ギーヴ。これ以上聞いていても、こんなの、私たちの手に余るよ」

ギーヴも珍しく緊張していたようだが、ややいつもの調子を取り戻していた。だがミトは一刻も早くこの場から去った方がいいと思っていた。
アンドラゴラスのいうことを信じるとしても、その真偽は確かめようがない。
それに、ヒルメスが本物かどうかなんてここに至っては関係のないことだ。もう自分たちは、アルスラーンが何者であっても構わないと思い始めているのだから。

「そのようだな。ここはさっさと退いておこうか」

ギーヴが静かに立ち上がろうとしたときだった。

「兄は病死したが、その間際、『あの呪われた子を生かしておくな。ヒルメスを殺してくれ』と予に願ったのだ。実の父親のもとに送りとどけてやれ、と。だから予は火を放ち、おぬしを殺そうとした」

アンドラゴラスの声が、さらに悲痛な真実を告げる。ミトもひっと息を呑んだ。ヒルメスが孤独感と敗北感で押しつぶされそうになっているのが、もう、姿を見なくてもわかった。

「……きさまの言うことなど信じぬ。どうせきさまの告白には、自分をかばう心算が含まれているにちがいない」
「勝手にするがよい。信じるかどうかはおぬしの自由だ」

激しい息遣いから漏れるヒルメスの呻き声とは対照的に、アンドラゴラスの言葉には乾いた笑いがあった。

途端、謁見の間に殺意が満ちた。そして一瞬の呼吸のあと、どちらが先に抜いたのかはわからないが、剣をぶつけ合う音が高く響き、ミトの鼓膜を震わせた。

「まずいな。このように暴れられたら、異変に気付いた兵たちが集まってくる」
「うん。ギーヴ、はやく逃げ……」

彼に続いて動き出したミトだったが、ふと、何かに引かれるように、背後を振り返った。
石の柱に隠れて、ヒルメスたちの様子は見えない。ただ、憎しみを帯びた激しい剣戟の音が聞こえてくるだけ。

「ミト、どうした」

ぼうっと突っ立っているミトの腕をギーヴが掴む。しかしミトの意識は現実に引き戻されなかった。砂塵舞うこの城に、初めて来たときのことを思い出す。あれはまだ、この世界のことも、ナルサスのことも知らない頃だった。

「……ヒルメスは、初めて会ったときからわたしのことを知っていた」
「……は?」

記憶が波のように寄せては返す。自分のまだ知らない記憶が、その先に埋もれている。見つけ出さねばならない。それが今なのだと、なぜかはっきりわかった。

「また俺を救いに来い、って、そういうことかー……」

ぼんやりと息を吐き出す。すると、隣にいたギーヴとようやく目が合った。嫌な予感がするのか眉を寄せる彼に、ミトは頭を傾けた。

「ごめんギーヴ。先に謝っておく」

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