小説 | ナノ
恥の多い生涯を送って来ました。そんな一文を確か高校生の時に読んだ覚えがある。読書感想文の課題図書で、上から二番目だか三番目の兄が図書館から借りてきたのだと思う。

居間のちゃぶ台の上、堂々と居座っていたそいつのタイトルに惹かれて中身をぱらぱら読んだわけだけど、結局タイトルも作者の名前も覚えていないし内容だって全く覚えていない。でも、“恥の多い生涯を送って来ました。”という一文は強烈に、そして鮮明に頭の中で未だ存在を主張している。

恥。思えば恥しかない人生だった。けれどだからといって世を儚む訳でもなく今もこうして自分が生きていられるのは自分の分身たる兄弟がいるお陰だった。屑で塵。父さん母さんには悪いと思うけど、自分一個体だったなら今頃とっくにのたれ死んでいるんじゃないかなとさえ思っている。なのに生まれてこなきゃよかっただなんて考えは微塵も浮かんでこないんだから、自分という屑は本当に救えない人間だ。ほんとに救えないったら、ありゃしない。

こんな人間が他人から好かれたいだなんて思うのは、それはもう、とても烏滸がましいことだ。



部屋に入ると女が倒れていた。
え、なんか謎なシチュエーションに遭遇しちゃったんだけど。なにこれ。一息おいて襖を閉めたあと、僕は帰って来る家を間違えたのかと思考を巡らせた。いやいや、間違うはずない。帰る家なんてここしかないのに間違うわけないだろ……

意味のないことだと分かりつつ左右を確認してみれば、やはりそこにあるのはいつも目にしている、何の変哲もない家の廊下だった。腕に抱え込んだエスパーニャンコがにゃあと鳴いて僕の腕から飛び降りた。猫特有のしなやかな動きで廊下に着地した猫は、僕の次の行動を促すように襖をカリカリと引っ掻いた。にゃあ。ここを早く開けてほしい。はやくはやく。にゃあにゃあ。襖に傷を付けられると母さんに怒られるから、僕は仕方なく「開ける、開けるから引っ掻くなよ」と襖を開けた。

「にゃ」
「あ」

襖を開けて直ぐ、するりと隙間にエスパーニャンコは吸い込まれていった。

「おお、エスパーニャンコ君」
「にゃー」
「また今日も一段とモフモフしておられるね」

僕がエスパーニャンコに続いて部屋の中に入ると倒れていた筈のそいつが、まるでここが自分の家であるかのような寝そべり具合で近くに寄ったエスパーニャンコの喉元をこしょこしょと撫でていた。部屋に入った僕の存在を認めたらしい彼女はそのままの体勢で僕を見上げて、ゆるゆると口角を持ち上げる。僕はそんな彼女と相対的に眉を顰めた。

「一松くん。おかえんなさい」
「何してんの」
「モフリシャス堪能中」
「意味分かんないんですけど」
「まあまあ」

この場で明らかに間違っているのは彼女の存在だ。なのに何でこの人こんなにここで寛いでんの…

「君のお兄さんと会ってね。お招き頂いたんだよ」
「…説明どうも。で、その“お兄さん”は?」
「やけに他人行儀だなあ。お茶を淹れてもらってる」
「そ」

円卓を挟んで彼女が寝そべっている向かい側に腰を下ろす。胡座をかくと頭を彼女に撫でられていたエスパーニャンコが目ざとく僕の足の上に乗ってきた。「ああ…」という彼女の残念そうな声に少し優越感。でもそんな優越感もそう続かなかった。今まで閉まっていた襖が開いて、僕は言葉を吐こうとしていた口をきゅっと結んだ。

「おっ、帰ってたのか。ほらナマエ、湯呑みを受け取れ」

一松も飲むか?と青みががった湯呑みを差し出す次男に向かって首を横に振った。こいつが来たら、もう僕は彼女に言葉を投げかけることが出来なくなる。僕は黙ってエスパーニャンコの背を撫でた。

「あれ?お茶かと思ったら甘い匂いする」
「ココアだ。来客用のコップが湯呑みしか無くてな」
「湯呑みにココアって…私初めてだよ」
「フッ、お前の初めては頂いたぜ。バーン」
「うぐっ、今のは痛い…」
「……」

次男のイタい指鉄砲に、胸を抑えてパタッと倒れる彼女。あ、謎なシチュエーションの再現。疎外感が僕の胸に去来する。



「君ってそんなに猫好きだったっけ?」

出会いは青天の霹靂だった。公園で寄ってくる猫と遊んでいたときに僕は彼女に話しかけられた。彼女はまるで昔からの友人であるかのような振る舞いをしてきたけど、僕は彼女のことを知らなかったから「人違いです」と無愛想な感じで合わさった視線を逸らした。

「あ、そうか六つ子だったっけ。カラ松は兄?弟?」
「……兄、ですけど」

次男の演劇部時代の友人だと言う彼女が自分の隣にしゃがみ込んだとき、僕は内心焦った。会話は得意な方じゃない。少し距離をおくと「とって食ったりしないよ」と笑われた。それ以降はお互い無言だった。彼女はひとしきり猫を撫でた後、立ち上がって「お兄さんによろしく」と言ってあっさり去っていった。本当にあっさりだったから、もう会うこともないのだろうと思っていた。けれどその考えは次の日打ち壊されることになる。

「こんにちは」
「…」

次の日も彼女は公園に来た。昨日は手ぶらだったのに今度は潤目鰯の干物を持参して何の迷いもなく僕の隣に来てしゃがんだ。まるでそこが定位置であるかのような彼女の態度は少しむず痒かった。

「お兄さんにはよろしく言ってくれた?」という彼女の問いに僕は首を横に振った。視線は猫じゃらしに固定しているから彼女がどんな表情をしているのか分からない。

「あらら、そうなの。あ、そういえば君の名前聞いてなかったね。聞いてもよろしい?」
「…駄目って言ったらどうすんの」
「卒アル引っ張ってきて君の前で名前当てゲームする」
「…松野一松」
「市松模様?」
「よく間違われるけど、はじめの一」
「…長男、ではないよね」
「それもよく言われるけど、違うから」

別に聞いてないのに彼女は名乗ってきた。よろしく、なんて言葉はかなり久しぶりに聞いたけど、勿論僕によろしくする気はなかった。一切なかった。けど、彼女は違うようだった。その日から休みの度に彼女は公園に来た。

本意ではない集会の開催回数が両手の指だけでは足りなくなってきたころ、一度だけ「あんたが知ってるのはカラ松でしょ。いくら顔が一緒でも俺とあいつは違うよ。何であんたはいつもこんな不審者丸出しの俺の隣に座んの」とかなり返答に困るようなことを言った。彼女は「んー」と唸ってからへらへら笑った。

「だって猫が好きな人に悪い人はいないでしょ」

何だその理論。



それからすぐあとだったと思う。彼女と再会したらしい次男が彼女のことを僕に話した。いつものクソダサい格好つけたような雰囲気や表情じゃない、素の表情で「ナマエは良いやつだぞ」と僕にそう言ったのだ。次男のその表情がやけに癪にさわったことを今でも覚えている。

「ココア久しぶりに飲んだ…おいしい」
「この甘露を美味くつくりたいのなら純白の液を鍋でコトコト煮るのが一番、だ」
「かっこよく決めてるけど言ってることがかなり可愛いね」
「オイオイ、この俺の魅力に可愛いって言葉は無いんじゃないか?可愛いというよりかは…」
「イタい?」
「何故だ!」

息ぴったしだ。僕は猫を撫でながらこっそり思う。僕にとっての彼女は兄の友人という微妙なポジションに立つ人間で、彼女にとっての僕は友人の弟というこれまた微妙なポジションに立つ人間だった。

(20160104)
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