黎明はまだ遠く 


※微切


人の口に戸は立てられぬとはまぁよく言ったもので。

いずこかの村にいる誰某が男前だとか、なんとか屋に色男が居るだとか、そういう話はあっという間に伝播し口から口へと広まっていく。



「ねえ志麻ちゃん、あの噂聞いた?」

お稽古のあとに立ち寄った茶店で、お稽古仲間の彼女は急にそう切り出した。

「なに?またどこぞのお武家さまのお屋敷で化け猫が出たとかどこどこのなんとかさんが狸に化かされたとかそういう話?」

「やあねぇ、違うわよ。最近このあたりにやってくる薬売りが役者みたいないい男らしいのよ。上野のお店で奉公してたらしいんだけど、顔が良いものだからそこのお内儀が入れあげちゃって、それで追い出されたとかで」

……少し前までは寺侍の何某が見目よい男だとかそういう話をしていた気がするが。
自分もそうなのだが、まあ年頃の娘というのはよく話の変わるもので。
どこの甘味がおいしいからお稽古の後に行こうとか紅や白粉、櫛に簪、歌舞伎役者に読本と顔を合わせればそんな話ばかりだ。
というより、そんな話しかすることがないと言ったほうが正しいかも知れない。

「へー薬売りねえ……」

お団子を頬張りながら生返事を返すと彼女は白い柔らかそうな頬をふくらませた。

「んもう、本当に興味ないんだから」

……そりゃそうだ。
私は心の中で嘆息する。







「志麻じゃねえか、久しぶりだな。元気か?」

自分の家への道を歩いていると、後ろから追いついてきた男に声をかけられた。

「歳三」

編み笠を被り、薬箱を背負った行商人姿の男。
色白で長身、端正な顔に洒脱な着こなしは確かに歌舞伎役者のようでもある。

そう。
件の薬売りとはまさにこの、私の幼なじみである土方歳三のことだ。

「…………」

「なんだよ。俺の顔に何かついてるか?」

「いーえ。何でもありません」

(しかしまあお内儀と恋仲になったとは豪奢な尾ひれがついたもんだわ……)

お稽古仲間の彼女が聞いた噂は半分本当で半分は嘘だ。
歳三は確かにお店で奉公していた。だが、生来の気性やこのよく出来た顔のせいで次々と問題を起こし現在は日野の名主に嫁いだ姉の厄介者になっている。
ちなみに伝馬町の木綿問屋では年上の女中を孕ませたとか番頭に衆道関係を迫られたから逃げたとか色々ささやかれているが私に歳三がその話をしてくれたことはないので詳しくは知らない。

「……薬、売れた?」

「いや、さっぱりだな」

「歳三、顔だけはいいんだから女中とかお内儀に少し微笑んでみれば買ってくれるでしょうに」

個人的な意見だが歳三はあまり商売には向いていないと思う。
端正な顔はいつも眉間にしわが寄っていて、おべっかを使うのもうまくない。

「…余計な世話だ。お茶挽きみてえにぺらぺら喋ってると嫁に行き遅れるぞ」

「それこそ余計なお世話ですっ」

……歳三は知らないからそんなことを言う。
私が歳三のことをどう思ってるか、なんて。
きっと、この男は気づきもしないのだ。

「ああ、そうだ志麻。試衛館って知ってるか?」

「歳三がやってる……天然理心流?の道場でしょ」

「俺は、それについて京へ行こうと思う」

「…………なんで?」

思わず強い語調になってしまう。
武士でも何でもなく、家はこの界隈じゃ知らない者が居ないほどの豪農の家系である歳三がそんなことをする理由はどこにもない。

「道場主の近藤さんを武士にしてやりてえのさ」

――その後、歳三から聞いた話によるとその近藤さんという人は元々百姓の生まれだが武士になりたいという志を掲げていて、その人柄のよさに惚れ込んだ歳三も他の門下生と同じく近藤さんを武士に、高い所まで押し上げてやりたいと思ったそうだ。

「浪士組って言ってな、征夷大将軍の上洛を警護するための組織で、腕に覚えのある奴なら身分も年齢も関係なく取り立ててやるって幕府の思し召しだ。そこで手柄を立てりゃ武士にだってなれるかも知れねえ」

夢を語る歳三の横顔は、今まで私が見たことのないもので。
近藤さんというその人を歳三がどれだけ慕っているかを語る。

「……そう。わかった、体に気をつけてね」

ああやっぱり歳三は私を置いて行くんだな、なんて冷静な自分が居て。
置いて行かないで、と心の奥で叫ぶ声を理性が殺した。

「歳三たちの名前が江戸まで届くのを楽しみに待ってる」

「ああ。……お前も達者でな」

そう言って頭をなでる歳三の手は優しくて、喉の奥を詰まらせた。

「誰か、いい旦那を見つけて、ガキもいっぱい作って……孫やひ孫に囲まれて幸せに暮らせよ。お前、小さい頃はよく風邪引いてただろ?体を厭えよ」

「言われなくても、わかってる……っ」

なんで?
なんでなんでなんで。
どうして、そんな優しい言葉をかけるの。
まるで、私の気持ちをわかってて遠ざけるみたいなそんな言い方するの?

ねえ、歳三。



私の心の叫びなんか知らず、歳三はあっという間に歩いて行ってしまう。
その背中を見るのは、もう最後なのかも知れない。
けれど私は何も言えずそこに立ち尽くしていた。

――文久三年の、始めのことだった。



黎明はまだ遠く


101023

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