濃い血のにおいが辺りに充満している。
ようやく傷の痛みが引き始めた体を押して山崎が家の外に出ると、そこにはすでに戦場と変わらない光景が広がっていた。
露草の茂る中に楚々と咲いていた花は無残に踏み荒らされて、そこかしこに赤い水溜まりが出来ている。
「志麻!」
――どこだ、どこにいる?
どうか無事でと祈りながら彼女の姿を探す。
昼間でも動ける羅刹など聞いたことがない、もし陽の下でも変わらぬ力を持つのだとしたらそれは確かに最強の兵に違いない。
よほどの致命傷を与えなければ死ぬこともなく、意思を持たずただ命令通りに、そして自分の欲を満たすためだけに人の血を求め人を喰らう。
それの何と恐ろしいことか。
「志麻…っ!」
志麻のあの様子や普段の所作を見る限り、おそらく彼女は今までにも幾度となく斬り合いを経験していると山崎は思う。
意識のない山崎をたった一人でここまで運んできたことを鑑みれば普通の娘よりも腕力はあるのだろう。
それでも。
山崎は今、彼女のことを心から心配していた。
なぜかと問われれば、彼にも答えようがない。
ただ――彼女に助けられてからというもの、それまで山崎の中で息を潜めていた何かが日に日に大きくなりつつあった。
彼自身さえ気づかないまま、それは彼を侵蝕していく。
血のにおいがひときわ濃い場所で、ようやく見つけた志麻の姿を見て彼は息をのむ。
折り重なるように伏した羅刹たちの血だまりの中に、彼の知るものとよく似た若菜色の小袖を紅に染めた鬼が立っていた。
「……志麻?」
顔立ちこそ彼女のままだが、常の彼女とは異なるくすんだ金の瞳に白髪、額から突き出した角。
ああ、これが鬼というものなのかと。
神々しさすら覚えるほどに、その姿は羅刹とは明らかに格が違う。
金の瞳に灯るのはよく研ぎ澄まされた刃物にも似た、凍てつく光。
決して、人には手の届かないもの。
人が徒に触れてはならないもの。
まさに今、山崎は羅刹が「まがいもの」だというその意味を理解する。
目の前にいる鬼は、身震いするほどに美しかった。
「…………」
ゆっくりと金の瞳が山崎をとらえる。
「……憎い」
瞳が揺れて、大粒の涙が零れ落ちた。
そこには「山崎烝」ではなく――自分の家族を、ただ静かに暮らしたいと願った者たちを蹂躙し滅ぼした「人間」が映っている。
「憎い。憎い、憎い憎い憎い……」
全てに対する純粋な憎しみの感情だけがそこにはあった。
「……ただ静かに生きていくことさえ許してはもらえない。私たちは何もしていないのに……」
「志麻」
――この引きちぎられるような胸の痛みは、どうしてだろう。
ゆっくりと近づいて、落ちる雫を指ですくうように山崎は志麻の頬に触れる。
その後ろで事切れている羅刹が人間にとって最強というなら、彼女は、鬼は更にその上だ。
けれど、それと呼ぶにはあまりにも彼女は儚い。
鬼として生きるには人間を憎みきれず、人間として生きるにも過去の記憶が邪魔をする。
だから彼女は自身を残照と嗤う。
静かに消えていくばかりの、僅かに残った儚い光。そう言い聞かせて生きてきたのだろう。
彼女もまた、この深い森の奥で道に迷い出口を失った者の一人だったのだ。
「志麻」
「………すす、む…さん?」
一拍おいてから髪や瞳の色が常のものに戻り始め、額の角が消える。
「違う、烝さんのことじゃないの。違う、あなたの…烝の」
更に溢れ出すその涙を止める方法を彼は知らない。
新選組の表舞台に立ち、素人玄人を問わず女性から人気のあった原田や土方ならいざ知らず、彼は新選組に入隊してからというものひたすら土方のもとで裏方に徹してきた。
そんな彼に出来ることなど限られている。
「大丈夫だ、わかっている」
子供に言い聞かせるように告げる。
けれど彼女が泣き止むことはなく、俯いたまま違うのだと繰り返すのみで彼の言葉は彼女の耳に届かない。
「志麻、俺の話を聞いてくれ」
「違う、烝じゃない。だから怖がらないで。あたしから逃げないで、あたしは」
「志麻!聞け!」
震える肩を掴み、無理やり視線を合わせる。
山崎はどちらかと言えば寡黙だが、決しておとなしいわけではない。同じく寡黙であった斎藤が色々なことを思い、考えて沢山の言葉の中から選び出して口にするのと比べると少々気短の傾向がある。
だから、自分の言葉や思いが伝わらないと焦れてしまう。
声を荒げた山崎に志麻がびくりとしたのを見て彼も我に返った。
「……すまない。怒っているわけじゃないんだ、ただ……俺の話も聞いてくれないか」
自分の行動に後悔しながらも山崎は言葉を繋ぐ。
「俺は君を怖いとは思わない。だから君からも逃げないし、それどころか……自分がとても情けない。……君を守れなかった。君を助けてやれなかった。君に刀を持たせてしまった」
「烝……さん…」
「君は医者だ。……誰かを救うための手を、血で汚させてしまった」
何よりもそれが惜しかった。
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