32.


記録ー2018年9月
神奈川県立里桜高等学校にて。
事前告知のない"帳"を"窓"が確認。

高専経由で連絡を受けたなまえは伊地知の車で神奈川県へと向かっていた。その時間はまだ始業して間もない頃。今日は朝から一年との合同実習の予定で、ちょうど着替えようとしている時だった。その場にいた真希や他の一、二年が呼ばれなかったのには理由がある。それは、この里桜高校の一件に虎杖が関わっていたからだ。事情を知り、かつ何者かにより下ろされた"帳"の案件は、なまえに通す話としては容易だった。なまえへの依頼は、"帳"の効果の打消しだ。中への干渉は一切関わってはならないということらしいが、これは伊地知の私情が入っているかも知れない。


「みょうじさん、私は…貴方を送りたくはありません」
「……ん?あ、ごめんなさい。伊地知さん、何て?」


聞き間違いかと思い聞き返したが、やはり聞こえた言葉は最初と同じだった。バックミラー越しに見る伊地知は、後部座席のなまえとは目を合わせないまま、真っ直ぐ前だけを見て運転をしている。その表情はいつにも増して固く、どこか苦悶に満ちたような顔をしている。それはやはり、送りたくないという不本意な気持ちがそうさせているのだろうか。今こうしてなまえを神奈川へ送り届ける為に運転しているのは伊地知なのに、と思わないこともないが、家入同様自分のことを心配してくれているという気持ちは伝わってくるので口には出すことはしない。


「現場には、七海さんもいるんでしょう?それに、虎杖君がいるなら私は行かなくちゃ」
「………分かってます」


苦し紛れに零した受け入れの言葉は、無理やり言い聞かせているように聞こえた。
車から外を覗く。流れる景色に乗って、鱗雲が広がる住宅街に突如浮かぶ"帳"はそこだけが夜に覆われているようだ。もう、現場まですぐだ。伊地知のアクセルを踏む足が知れずと強くなる。送りたくない、それは本心だ。補助監督としての仕事は人助け、それは対象が学生とて変わらない。しかしこうして現場に送り届けるのもまた仕事。そんな矛盾さえ受け入れ続けなければならないこの不条理に時々嫌気が差す。神奈川県に踏み入れて数十分、伊地知は現場である里桜高校の校門前に車を着けた。運転席から降りると、後部座席に回り込みなまえが降りるより前にドアを開ける。


「どうぞ」
「ありがとうございます。ここに…」
「はい。虎杖君達と、それに例の呪霊がいるかもしれません」
「人間を呪霊に変える術式ですね」


"帳"にそっと手を翳す。触れる寸前で止めたなまえは眉を吊り上げた。何を思ったのか伊地知に向かって「触れてみてくれません?」と促す。さすがの伊地知も若干困った顔をした。


「え…大丈夫ですか?何か試してます?」
「いいからいいから。大丈夫ですから」


五条ではないのだから、変なことはさせない、はず。多少の笑みが怖いが、なまえに対しての信頼を微かに思い出して伊地知はおずおずとその"帳"に手を伸ばす。とぷっ、と冷んやりした感覚が指先から手首に走る。入れる、ということは出入りの制限はかかってないらしい。


「入れ…ますよ?」


恐る恐るなまえに声をかけると、ですよね、と返ってきた。…ですよね?


「じゃあ、引いてください」


まだ何を考えれば分からないまま、とりあえず腕を抜こうとする。が、入れたそれより中々抜きづらさを覚えた。最初の通り方とは明らかに違う。少し力を入れて肩から引き抜く。何かの呪術かと思ったが特に異常はない。掌をグッパーと繰り返す。


「どうでした?」
「何か……抜きにくい感じはしました」


なまえは伊地知の言葉を聞いて小さく鼻を鳴らした。何かに納得するように。しかし未だその真意を掴めない伊地知は隣に視線を落とす。いつもなら呪符を取り出し、彼女得意の結界破りをお披露目するところなのに。


「…………みょうじさん、そんな難しい"帳"なんですか?」
「ん?ああ、いえ。"帳"自体はそんなに。多分、入れるけど出れないとか、そんな所でしょうね」
「じゃあ、」
「私は、何ともないんですよ」


そう言って先に伊地知にさせたようになまえも"帳"に手を突っ込んだ。そして何の障害も感じさせなく抜き差しした。伊地知のように引く時に力を入れることもない。


「と、いうのは…」
「非術者に、ってことでしょうね。対象に制限があります。だから私と伊地知さんには関係がなかった。呪力の強さも関係してるみたいですが」


補助監督とは言え呪霊が視えることに加え、ある程度呪力がなければやってはいけない。それでも呪術師であるなまえと、補助監督である伊地知とではその量に極めて大きな差がある。いくら術師としてなまえの呪力量が少ないと卑下していても、それは謙遜にしかならないだろう。
しかし、確かに対象が非術者というのには少し違和感がある。大体は外から味方の術師を入れないか、はたまた出さないかだ。つまりは。


「中では、学生が人質に取られてる可能性もある、と?」
「そう考えるのが筋だと思います。相手の術式を考えれば」
「なるべく外にも補助を固めておきます。何かあればすぐに連絡ください」
「そうですね、お願いします。私も…もう行かなきゃ」


お気をつけて、と背中に受けた伊地知の声を残してなまえは走り出す。"帳"を破る難易度は様々な要因によって異なる。下ろす術師の強さや、"帳"の効果の複雑さなどがその一つ。呪符の枚数を重ねれば場所問わず可能な場合もあるが、確実に破るには"帳"の効果が一番薄いところ、つまりは"帳"の起点を狙った方が早いのだ。
なまえは立方の結界を作ると、それを踏み台にして頂点目掛けて飛ぶ。懐から呪符を取り出して重力に身を任せたまま、冥冥から貰った千家の簪を呪符諸共その頂に突き刺した。バチバチと電撃に走るように揺れる。押し返されないように、さらに手に力を入れる。
先に根を上げたのは、敵側を"帳"だった。突き刺した簪から"帳"が破れるように穴が開く。それと同時になまえの呪符から別の"帳"が覆い被さるように下りていった。
与えられた仕事はこれで果たせた。しかし、なまえもこれで引き返すわけがない。伊地知には悪いが、閉じ切る"帳"を背になまえは里桜高校へ向かう。その目下、校庭の真中に見えたのは、鼠色の髪をした人型呪霊の巨大化した手中に囚われた七海の姿だった。虎杖の姿は見えない。


(七海さんっ……!)


呪霊の背後に気付かれないよう忍び寄る。七海の目がサングラスの奥で見開くのが見えた。来ては行けないという制止がなまえに向けて訴えられる。近付き過ぎないよう、しかし射程圏内。右手で翳した結界は音無く、繊細にしかし高強度に形を成す。
だが、その結界はなまえの手を離れることなく煙に舞った。何が起きたかを理解するより疾く、呪霊のものと思われる左手がなまえの頭を覆うように鷲掴んだ。脚は地から離れ、必死に剥がそうとするも力が入らない。


「バレバレなんだよなぁ、本当人間って馬鹿だよね」


甘く、纏わり付くような声だった。
もうさ、死んじゃっていいよ。そんな毎日の挨拶のような、当たり前を告げるほどの声色と同時に、


「無為転変ーーー」


聞こえて来たのは悲鳴のように名前を呼ぶ虎杖の声だった。




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