05.


「…みょうじ先輩」
「んー?」
「玉犬の邪魔しないで下さい」
「失礼な。邪魔なんてしてないよ」


そう言いつつ、なまえは両手で玉犬の顔をわしゃわしゃ撫で回した。邪魔はしていない。ちゃんと見回りを終えて何もないことを報告に来た後の玉犬だ。主人の言い付けとは反対に、玉犬もなまえに撫でられ満更でもない顔をしているから私悪くない、くらいになまえは思っていた。
急に大人しくしていた玉犬がピクッと身体を揺らした。なまえも手を離し、その目の先に向ける。
呪霊ではない。人間だ。スーツ姿の一人の女性が橋を渡って歩いてくる。


「人間…」
「だね」


こんなところに一人で、訝しげに見るなまえと伏黒に近付く彼女は、なんだか凄く、暗い。年齢はおそらく20代前半。新入社員のような真新しいスーツは、同じ場所に深く皺が刻まれている。少し丸まった猫背な背中と、ほぼ真下を向きながら歩くその姿は、深夜なら幽霊と間違えてしまいそうなオーラを漂わせている。
ゆらりと歩いてきたその人は、2人の目の前、道路挟んだ反対側まで歩いて止まる。生きている人間、そう分かっていてもぞわっとするような冷えた空気が背中を伝った。こちらには見向きせず、変わらず真下を向いたその表情は見えないが、垂れた髪の隙間から小さく口が動くのが見えた。


「…………もう、死にたい」


そう、呟く言葉が聞こえた瞬間だった。呪霊の気配を感じると同時にダムの向こうから手のようなものが伸びて、女性を掴む。ずるっ、と引き摺られるまで一瞬だった。
伏黒は直ぐ様に式神召喚の印を結ぶ。が、それよりも早く動いたのはなまえの方だった。既に柵の向こう側へと連れられて行くそれを追って、フェンスを乗り越えて飛び降りた。飛び越えた先はダムの底だ。なんの躊躇もなく、まるで階段を飛び降りるかのように簡単に飛んだなまえに、思わず「は?」と声が出る。
伏黒がフェンスまで慌てて駆け寄ると、下を確認するより先になまえが跳ね上がるように戻ってきた。その脇にはしっかりと女性を抱えていた。小柄ななまえが一人の人間を持ち上げている光景になんだか矛盾を覚えた。


「危なかったぁ。セーフ…」


気が抜けるような声に伏黒も肩を落とす。なまえが戻ってくるまでの一連の流れをまるで見ていない伏黒からしてみれば、ただただなまえが考えなしに自殺行為をしたようにしか見えなかった。


「この下、空洞になってる。多分結界の一種かな、そこに行方不明の人達がいた」


そんな伏黒を他所になまえはそう言って、コツコツと今いる場所の真下を示すように踵を鳴らした。助けられた女性は震えながら、何かブツブツ言っているが聞き取れない。


「生きてますか」
「うん、いや。どうだろ。ちょっとそこまで確認取れなかった」
「それで、呪霊は、」


言いかけた背後に現れた気配に伏黒は振り向く。這い上がるようにフェンスから顔を出す。


『 オ ガ エ り ィ" 』


ひん剥いた目の玉がこちらを向く。手招くように迎えるダミ声が鼓膜を打った。なまえは"帳"を、伏黒は印をほとんど同時に結ぶ。


「ーーーーー鵺」


現れた式神は真っ直ぐ呪霊に向かっていった。朱色の翼を持つ十種の式神の一つ、鵺。帯電するその身体を体当たりに突っ込めば、呪霊からもバチバチと電気が走る。
奇声を上げながら下へ崩れ落ちていく。まだだ、まだ、祓えてない。落ちないよう、フェンスを掴むその手に目を奪われ、背後から忍び寄るもう片方に気付かなかった。


「ーー先輩っ!」
「無問題ッ!」


声を上げた先、既になまえは宙を舞っていた。迫る呪霊の手を払うように翻した身は、それをすり抜けて行く。なまえの横を過ぎて行く先、狙いは別にあった。未だに蹲り、言霊のように死を所望する彼女に向かって伸びる。
小さく下唇を噛んだなまえは袖から呪符を取り出した。彼女を捕まえる寸前にして一瞬に、結界がそれを拒む。弾けるように跳ねて落ちて行く。いや、弾いただけだ。またすぐ上がってくるに違いない。それよりも、


「狙いはこの人なのか?」


へたり座り込む女性を見下ろして伏黒は言う。小さくも途切れることなく、もう無理、死にたい、疲れたとマイナスしか含まない言葉しか発しないのは、既に呪いが喫した後だからか。その判断はまだ付かない。


「そうかも。ほら、」


背後から根っこのように蠢く呪霊の一部が、また彼女に纏わりつこうとするもなまえの結界によって阻まれる。触れることすら叶わない。


「こっちは私で守る。これを発動してると私、動けないんだ。だから、伏黒君は呪霊の方お願い。背中は任せて」
「……分かりました」


そういえば、この人の術式知らないな、と伏黒は頭の片隅で薄っすら思った。結界術、"帳"や封印の一種なら補助監督でも使える簡易な術式の一つだ。術式、とも言えないかも知れない。しかし、彼女のそれは比でないくらい洗練されている。さっき飛び降りた先戻って来れたのも、術式のせいだろうか。背後にいるなまえにそんなことを思いながらも、目の前から這い上がってきた呪霊に再び意識を戻した。




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