追憶(2)


それがもういつの話だったのか、そこがどこの話だったのかも覚えていない。齢の頃で言うと4〜5歳かそこらだったように思える。ただ、季節は春、ということだけは鮮明と覚えていた。桜の舞う、その光景だけは目に焼き付いていたからだ。


この日、呪言師として有名な狗巻家は、呪記師として有名な千家家へと訪れていた。何用だったかも覚えていないのだが、子供としては退屈すぎる時間だった。
当時5歳だった狗巻棘は、そんな退屈から逃れるようにこっそりと抜け出した。広過ぎるその敷地は、子供の足で歩くには十分で、見知らぬ建物と景色に退屈は次第に薄れて行った。
どのくらい歩いただろうか、広い上に似通った建物ばかり続くこの敷地の中で、一言で言えば迷ったのだ。目的もなくふらふらと歩いた先で、風に吹かれて飛んできた桜の花びらに誘われるように、一本の小道へと歩いて行った。脇に並ぶ桜並木は満開を迎え、少しの風でも舞うその中を進む。
やがて拓けた場所に出ると、目に入ったのは大きな樹だった。樹、と一言だとあっさりしてるが、その足元の根は発達して盛り上がり、表面に数多く見られる瘤状の隆起に、その生命力に慄いた。


「……だあれ?」


暫くその場から動けずにいると、後ろからかけられた声に振り向く。自分と同じ歳くらいの女の子がいた。色の白い、目が大きい子だった。首を傾げながら声をかけてくれたその女の子は、目の前まで歩いて来る。


「…あ、今日くるって行ってたおきゃくさん?」


重ねられた質問にとりあえずこくん、と頷くと少しだけ笑顔になって通り過ぎた先にある大樹まで小走りに近付いた。


「この樹、すごいでしょう?わたしの家の御神木なの。むくの木っていうんだよ」


むく。聞いたことない名前だった。でもその樹から感じるなんとも言えない力に、もう少し触れたくてその子の隣にまで近付いてみる。


「1000年いきてる樹なんだって。ずっと見守ってくれてるみたいで、わたしこの場所がいちばんすきなの」


一番好きな場所に部外者が来てしまって良かったのだろうか、と思ったけどなんだか居心地が良くて、動きたくなくなる。色々と話してくれるのだが、そのうち一言も喋らない棘を不思議に思ったのか、「もしかして喋れないのかもしれない」、と結論付けたようでその場からいなくなってしまった。返答がない相手と話しても人間つまらないのだ、いなくなってしまうことなんてざらにあったので、今更何も感じない。
と思っていたのに、その女の子は暫くして戻ってきた。どこからか拾ってきた枝を持って、「書いて話そ」と渡してきたのだ。


「わたしは書くことできないけど、こうしたらしゃべれるでしょ?」


その後、何を話したかは覚えていない。ただ目線を合わせてしゃがんでくれて、笑ってくれてた横顔だけはうっすらと、輪郭だけ覚えている。もう、顔も声も、どんな子だったかも覚えてない。


「…あ、わたしもういかなくちゃ!」


すっと立ち上がって、背を向けたその子の手を思わず掴んでしまった。驚いたように振り向いたけど、かける言葉はなく、衝動的に取ってしまった手をゆっくり離す。けど、このまま別れたくない思いがあって、なんとか伝えられないかと左手の小指を立てて突き出した。それを見て、意味は分からなくても、ゆっくりと小指を絡ませてくれた。


「……またあえるといいねっ」


そう言って指を離して、走り去る小さな背中を見送った。
初恋、と呼ぶには淡過ぎて。
このふわふわした気持ちには名前が無くて。
それでも、そんな忘れかけていた、桜の花の色に似た記憶をうっすらと思い出していた。




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