12/12
甘やかに、爽やかに、何よりスパイシーに香るカルダモン。軽やかで刺激的なブラックペッパー。ほろ苦く沁みるようなクミン。スモーキーさに華を添えるラベンダー。
香水の類いは好きじゃないが、この男を思うと真っ先に浮かぶのがこの香りだった。狡猾で凄艶。甘いオリエンタルノート。
オールバックに撫でつけた黒髪をかき回し、ぴ、と人差し指を立てて、
「“雲雀恭弥がビビットピンクのオートクチュールを着ている!”」
一瞬だけ真面目そうな顔をつくる。
すぐに崩してやれやれと首を振るマルは投げやりだった。
「と、私のボスが言ったとする。」
「最低な例えだね。」
「素晴らしいだろう、事実はどうあれ、そういうことになっちまうんだ。少なくとも我がファミリーではね。」
露骨に嫌そうな顔の雲雀を他所に、マルは悟りを開いたような遠い目で笑う。
23時52分の霞んだ月。建設途中で放棄されたオフィスビル。干からびたように静かなI形鋼の鳥籠を、何の障害もなく隙間風が吹き抜ける。
「マフィアってのは何処も多かれ少なかれそういう風潮があるものだ。いかにお高く留まったコーサ・ノストラと言えどもね。」
百戦錬磨のカポレジームらしからぬ諦念が滲む。
雲雀にとってこの男ほどマフィアらしい人間はいなかった。右手で人懐っこく握手を求めながら、左手ではいつだって拳銃を突きつけている。怜悧で残忍、非情なまでの合理主義、時に驚くほど乱暴で無作法にもなり、誇り高く、その割に豚みたいな上司に首輪をはめられている。
長い不況に傾いた弱小ファミリーを見事立て直したばかりか急成長させたという、神業だ魔術だともてはやされていた辣腕が握手を求めてきたとき、雲雀は快くその手を握り返した。マルにとってはファミリーがついにボンゴレの同盟にまで上り詰めた瞬間だったのだが、雲雀にとっては最高に楽しい協働作業が始まった瞬間だった。
元弱小ファミリーと組んでの仕事とは思えぬ、笑えるほど壮大なプロジェクトの数々。次々と陥落するお偉方。駒落としのように進むガントチャート。確実に実現していく青写真。
何もかもが最高だった。
雲雀は貪るように仕事をこなした。
あの時ほどこの男がマフィアであるという事実に喜び、そして苛立ったことはない。
ボンゴレと同盟を結んでいる中でもそれなりに大きいくらいに成長した、密輸と高利貸と不動産を主に扱うファミリー。名実ともにそこのブレーンだったマルは、雲雀からするとそのファミリーの9割9分9厘を占める主成分だったが、それでもマルはボスではなかった。
日毎に躍進する自分の組織に調子づき、独断専行で恐れ多くもボンゴレを出し抜こうとしたボスを、マルは最後の最後まで止めようとした。
「あなたはいつも遠回しだ。最後くらいハッキリ言いたいこと言ったら?」
どうせ明日から抗争なんだし、なんて気楽に言ってくれる雲雀は、どこで機嫌を回復したのか薄っすらと笑みを浮かべていた。
どこでってそりゃ、抗争って部分か。マルは苦笑して肩をすくめる。
「感慨深いじゃないか。ずっと良き同僚だったのに。」
「別に。殺し合いくらいするだろ。それこそマフィアならね。」
マルは目を細める。
雲雀のこういうところが好ましかった。何者にもとらわれず我が道をいく浮雲。少年のように惹かれていた。外向きの仕事に精を出しすぎて“雇われブレーン”なんて呼ばれ出したのは、胸中に問うまでもなくこの青年と出会ってからだった。
「むしろ好都合だよ。これで公然と君を咬み殺せる。」
何処からともなく現れたトンファーがピタリとマルを狙いすます。お互い様とはいえあれだけ儲けさせてやったというのに、本当にブレない奴だ。
串刺しにされるようなプレッシャーが心地いい。
――ボスは何処まで逃げられただろう。
脳裏に浮かんだ唯一の心配事に口端を歪め、灰色の夜空を見上げた。
「バーサス・ヒバリで血みどろのデスマッチか。光栄すぎて涙が出るねぇ。」
「命乞いさせてあげてもいいよ。」
「実に君らしいジョークだ。ストレートでアグレッシブ。」
「あなたは愚かなファミリーの頭脳であり、良心だった。少なくとも沢田は受け入れるさ。」
「お誘いありがとう、だがね、」
ニヤリと歯を見せて喉を鳴らす。
「ボスのいるところが私のいるべきところだよ。」
全て自分で思惟し、選択し、覚悟してきた。最後にできるのが時間稼ぎの足止めだとしても、相手が雲雀恭弥なら、最高の役回りだ。
同情も哀れみもいらない。
案の定、視線を再び下ろした先では、馬鹿にしたように雲雀が笑っていた。
こういうところだ。
したいことをする。したいことしかしない。気に入らないものは気に入らないと断じ、ボコボコに殴りまわす。
きっと一生分かり合えることはないだろう、生涯最高の同僚。
「少し羨ましいな。自由な小鳥、君は香水なんかつける男になるなよ?」
ネクタイを緩めて第一ボタンを外す。
オーダースーツから覗く左手首で刻一刻と時が進む。
文字盤の上、二本の針が合わさった。
BACK