おんなじ体温
おぞんさんから頂きました、蘭日です。ありがとうございました。
コンロでお湯を沸かしている間に、食器を洗う。右手の薬指に出来たささくれに洗剤の泡が染みて、私は始終眉をしかめていた。
食器を洗い終えると、丁度お湯が沸いたらしくヤカンからぴーっと甲高い音が鳴る。火を止めて急須に茶葉を入れて熱々のお湯を注ぐと、少し蒸らしてから洗ったばかりの湯呑みに淹れた。白い湯気が、わたあめみたいにふわふわと漂う。
二人分のお茶と、ついでに戸棚にあったお煎餅をお盆に乗せて、彼の元へ向かった。
あの人は壁に背を預け、新聞を広げている。
「オランダさん。お茶、淹れましたよ」
彼の隣に座り、湯呑みを差し出す。彼は新聞からこちらに視線を移すと、お茶を受け取らずに私の手をじっと見つめた。
「……どうかしました?」
「…手、荒れとんのぉ…」
彼が湯飲みを受け取りながら、私の手に触れる。ほんの少し、くすぐったい感触。
「ああ、冬はいつもこうなんです。空気が乾燥してるから……」
言いながら、改めて自分の手を見てみるとそれは酷いものだった。触るとがさがさで、ささくれからは少し血も滲んでいる。血色も悪いし、なんだか見ているだけで気が滅入ってきて、思わずため息がこぼれた。
私は自分の手の観察を止めて、お煎餅を齧る。オランダさんはお茶を啜りながら片手で私の頭をくしゃくしゃと撫でた。彼も私もそれほど口数の多い方ではないから、二人きりの時はとても静かな時間が流れる。けれど、言葉がなくても彼にこうされているだけで充分満たされた気持ちになれるから、不満には思わなかった。
私は目を細めて、彼の肩にすり寄る。煙草のにおい。
しばらくオランダさんは私の髪を指で梳いていたけれど、ふとその手が止まったかと思うと湯呑みを置いて立ち上がっていた。そのままふらりと玄関へ向かう。
「……どこに行かれるんですか?」
「煙草買いに行くだけじゃ…」
彼は振り向きもせずに答える。
「すぐ戻る」
がちゃりと玄関のドアが開いて、ばたんと閉まる音。私は二枚目のお煎餅に手を伸ばしながら、本当によくわからない人だなあなんて思った。もう慣れてしまったから、いいけど。
お煎餅を齧ったまま、畳にごろりと寝転がる。床は思っていたよりもひんやりとしていて凍えそうだったから、近くにあった毛布を引き寄せ、それにくるまった。この家は狭いしすきま風も入り込み放題で冬はつらい。
……本当に、どうして私はあんなよくわからない人のことが好きなんだろう。
窓から見える夜空を眺め、お煎餅を齧りながら思う。
何を考えているのかいまいち掴めないし、たまにしか会いに来てくれないし。歳だって、私よりずうっと離れているのに。
そんなことを考えながら、何をするでもなくごろごろする。毛布を頭までかぶりながら彼の読んでいた新聞を読んで、すぐに飽きて、冷たい手のひらに息を吹きかけて、それから星の数を数える。
「遅い……な」
星を数えるのにも飽きてきて、私はあくびをしながら小さく呟いた。煙草を買うだけにしては遅すぎる。
近くの自販機で買うだけなら、そう時間はかからないと思うのだけれど。
気まぐれな人だから、ふと思いついてふらふらと散歩にでも行ってしまったのかもしれない。
そう言えば前にも、すぐに帰ってくると言ったくせにその後1か月も連絡がつかなくなったことがあったっけ。あの時の心もとなさをふと思い出して、私は畳の上で小さく丸まった。
彼が隣に居る時の静けさは平気なのに、一人の時の静けさはちょっと苦しい。寒さのせいか、今日はいつも以上に恋しさで心が痛む。
寂しい気分を誤魔化すように、私はまたお煎餅に手を伸ばした。何枚も食べたせいで、口の中は水分を奪われている。お茶はとっくに飲み干していたけれど、お茶を淹れに毛布から出なければならないのが嫌で、結局乾いてぱさぱさの口に無理やりお煎餅を押し込んだ。
その矢先。ドアの開く音がした。
冷たい空気と一緒にタバコの香りが流れ込んでくる。玄関に視線を向けると、彼の銜えた煙草の赤い火が見えた。
「遅かったですね」
寂しがっていたことを悟られたくなくて、寝転がってお煎餅を齧りながら何でもないようなそぶりで言うと、彼は呆れたように笑いながら「…だらしない奴やの」と言った。その手には、ビニール袋がぶら下がっている。
買い物に行ってたんだとぼんやり思っていたら、彼は袋の中をごそごそと探ると「ほい」と私に向かって何かを放った。
それは綺麗に放物線を描いて、ごつりと私の額にあたる。
「痛っ」
「ほいばやる…。使え」
「……何ですか、これ」
じんじん痛む額をさすりながら上半身を起こし、投げられたそれを手に取る。ひんやりと硬い感触のそれは、小さな銀色の缶だった。
「…あれや、手に塗るやつ」
部屋の隅に置いていた灰皿に煙草を押し付けながら彼は答える。
「……ハンドクリーム、ですか?」
「…ほうじゃ」
言いつつ彼はしゃがみ込むと、私の手をぐいと無遠慮に掴んだ。今まで外に居たくせに、彼の手は酷く温かい。というより、私の手が冷たすぎるのか。
私は冷え症らしく、冬はいつでも手がひやりとしている。酷い時には指先の感覚がなくなるほどで、手をこすり合わせたり熱いお湯に浸してみたりしても、すぐに内側から寒さが侵食してきて元の温度に戻ってしまうのだ。
「…お前の手は、荒れまくりやざ…」
手入れもせんと、ほんに色気が無いのぉ。彼は言いながら、私の手の甲を指の腹でなぞった。
私の爪を爪で軽く叩き、かつかつ微かな音をたてる。それから、ささくれに指を這わせた。
ひりひりした痛みに思わず顔をしかめると彼は意地悪く笑い、ハンドクリームの缶の蓋を開ける。そのまま乳白色のクリームを指先ですくって私の手に塗り始めた。ひやりとした感触に、思わず肩が跳ねる。
「こ、子供じゃないんですから、自分で塗れますよ」
「…気にすることやない」
「気にしますっ」
けれど、彼の指先は温かく気持ちがよくて、本当のことを言うとずっとこうしていて欲しいくらいだった。
彼は大きな手で、これでもかと言うくらい入念にクリームを塗ってくれる。爪と皮膚の隙間も、指と指の間も。
ハンドクリームの濃く甘い香りが鼻をくすぐる。 彼の手も私の手も、クリームのせいで部屋の明かりを鈍く照り返していた。絡む手と手はなんだか妙に艶めかしくて、私は急に恥ずかしくなって視線を逸らす。
「……わざわざ、買ってきてくださったんですね」
「…ほうじゃ」
「ありがとう、ございます」
冷え切っていた指先がいつの間にか彼の体温が移っていき、甘やかな痺れを伴いながらじわりじわりと温まっていく。心地いい。
ああ。ため息をつく。
全身に、この人の温度を移してしまいたい。
おんなじ温度になりたい。このひとと。
「――オランダさん、」
私はしっとりとあたたかくなった指先を伸ばし、ほとんど無意識に彼の唇にそっと触れた。彼は一瞬わずかに面食らったように眉をひそめ、けれどすぐに悪戯っぽく笑い、どうした、と聞く。
さむいんです。私は小さな声で言った。
さむいんです、体が。頬も、唇も、お腹も脚も。
だから、あたたかくしてください。この手みたいに。あなたの体温を、ください。
支離滅裂なことを言う私を見て彼はおかしそうにふっと笑うと、蓋の開いたままのハンドクリームもそのままに、毛布ごと私の体を抱きしめた。
唇が触れ合う。
部屋の中はしんと静まり返っていたけれど、それはしあわせな静けさだと思えた。
おぞんさんにフリリクさせていただいた結果、こんな萌えが返ってきました(●´mn`)
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