これからが彼女の始まり


世の大学は一年を通してオープンキャンパスを実施しているし、高校側も生徒に積極的な参加を推進しているものだ。大学がどういう場所かを知らずに入学するのは、ちょっとした危険行為だ。せっかく受験を勝ち抜いて入学できても、そのあとついていけなくて退学してしまっては意味がない。
高校三年生、大学受験を控えた年の初夏に、京極夕陽の問題発言にさすがの友人もあきれた。
「オープンキャンパスにいったことがないとか」
たとえ志望校が決まっていなくたって、将来が見えなくたって、せめて一校くらい参加していたっていいものだ。たとえば、近くの知れた大学だとか。最初はそれでもいいのだから。
「大学には行きたいんでしょ、ゆーちん」
「そうだね……、学校は好きだし、社会人の私とか、想像できないし」
成績が悪いわけでもなく、むしろ勉強もできるほうだ。見てくれに関しては、夕陽自身、適当にふるまっている点もありはするけれど、不真面目に遊んでいるわけではない。教師や友人からの信頼も厚い彼女の、意外な事実だった。
ふと、思い出した。この友人とはてんでタイプの違う親友、牡丹は、明日、志望大学の授業体験に行くそうだ。彼女の志望大学は国立で、さすがに縁はないと、あまり気に留めなかったのだけれど、その時点で気づいてもよかったのかもしれない。

大学って、どういう場所なのですか。

帰宅してそうそう、夕陽はパソコンを立ち上げ、傍らに資料請求して届いていた大学のパンフレットを複数置いて、各校の公式ページを開いていた。オープンキャンパスの日程や事前予約の有無を確認していく。そして、見つけた。
S大文学部日本文学科。
明日土曜日の10時から、オープンキャンパスと合わせて入試説明会がある。
名前は知っている大学だ。自分には少し敷居が高いようにも思えるけれど、名の知れたそこは評判も上々の学校で、行っておいて損はなさそうだ。事前予約は必要なさそうだ。キャンパスの場所も確認する。最寄駅も利用したことがある。時間に余裕を持っていけば、無事にたどり着けるだろう。夕陽は、地図を印刷した。妙に緊張してきた。
「姉さん、母さんが呼んでるんだけど、聞こえない? またチャット?」
弟のさりげなく馬鹿にしたよう発言も、今は聞こえない。

駅から迷うこともなく、歩いて10分ほどの場所、夕陽はS大学のキャンパスに着いた。けして新しい学校ではないが、さすが私立というか、手入れの行き届いたきれいな外観だった。何より、パンフレットにある写真と同じ景色が目の前にあることが、どうにも落ち着かなかった。腕時計を見やれば、説明会まではまだ時間があった。しかし、困ったことに、会場の教室へはどう行けばいいのかわからなかった。そういえば、高校見学の時も、自分はこんな感じだったのだろうか。
「こんにちは。オープンキャンパス参加者の方ですか」
気づくと、背の高い男性に話しかけられていた。大学名の入った腕章をつけている、案内役の学生だろうか。うまく声が出なくて、とりあえず頷いてみせる。夕陽の緊張を感じ取ったか、彼は優しく笑った。
「会場まで案内するね。初めてだもん、困っちゃうよね」
初来校だとくらいには見抜かれてしまった。歩幅を合わせて連れて行ってくれる彼に、夕陽は安心したような、余計に緊張したような、複雑な気分だった。
先ほどの疑問の答えが出た。高校見学とは、まったく違う。男子高校生は、こんなに紳士的ではなかった。

学生食堂の片隅で、夕陽はフォークを片手に、大きく息を吐いた。まだ全日程が終わったわけではなく、昼食後にキャンパスツアーを控えていた。慣れない場所ということと、周りの同じ受験生がみんなこの大学を目指しているような高校生ばかりで、どうにも落ち着けなかった。ミートソースたっぷりのパスタを口に入れるが、いまいち味わえない。らしくもなく、半べそかきそうになりながら、またため息を吐きかけた時だった。
「隣、空いてる?」
ふと気づく。見覚えのある腕章の男性だった。
「あ」
あっという間に腰を下ろす彼に、夕陽は戸惑った。
「ごめんごめん、ナンパじゃないから、安心して」
はは、と軽く笑う彼は、今朝のキャンパスアドバイザーの学生だった。
「そ、そういう勘違いはしてないです」
生まれてこの方、ナンパなどされたことがない。告白はされたが、あれはまた特殊な例だとしておきたい。
「困ってる高校生の手助けをするのが俺の仕事なのね。それに、どうせなら、可愛い女の子のほうが俺も嬉しいしね」
「…………」
「そんなに緊張しないでって。緊張が解けるようにって軽口なんだから」
そうなのか。困惑する心を鎮めようと、目を伏せた。悪い人ではない。紳士だ。そう、紳士だ。
「ありがとうございます。一人で、少し、心細かったです」
「そうだよね、俺も高校生の時はそんな感じだったよ。名前は? 俺は藤本紘ね」
「京極夕陽です」
夕陽ちゃんね、やっぱりかわいい名前ね、と藤本が言う。だんだん、本当にナンパのように見えてきたけれど、それも緊張解しのためだ、と夕陽は思考を整理した。話しかけてもらえて嬉しいことに変わりはない。
「夕陽ちゃんはこの大学が志望なの?」
「……正直に言うと、まだ決まってないんです。夢もまだ見つからないから、決められなくて」
牡丹や美術部部長の狩野の顔が浮かんだ。文学者を目指す牡丹は某国立大に決めていて、絵が本当に好きな狩野は、夕陽も知っているような著名な美術大学を志望している。それに対して私は、と思わず卑屈になりかけた。
言葉に詰まる夕陽の頬を、藤本の指がつついた。
「夕陽ちゃん、考えすぎだぜ」
考えすぎとは。ここまでオープンキャンパスに参加することもなく、だらだらと高校生活を送っていたわけで、考えすぎているどころか、もう天気すぎたようにも思う。しかし、思いつめる夕陽を、藤本は笑い飛ばすようだった。
「夢だとか、将来やりたいことなんて、大学生になってから決めたって、遅くなんじゃないの? 先生の言葉とかに焦っちゃいかんね。人生、まだまだ長いだよ?」
はっとした。思わず藤本の顔を見つめた。
「俺も、まだまだ働く自分なんて想像できないし。俺はただ、好きなことを、もっと知りたいからこの大学にいるのさ」
「好きなこと、ですか」
藤本が頷く。
「夕陽ちゃんは、何が好きなの?」
「私が好きなこと、は……」
先日引っ張り出した拙いお話を思い出した。

月曜日、いつも通り、夕陽は昼食を牡丹と取る。窓を開けた教室に風が入り込んで涼しい。乱れそうになる前髪を抑えながら、おにぎりを頬張った。
「そういえば、オープンキャンパスはどうだった?」
いつもならチャットルームにいる夕陽が、週末は入室していなかった。何かあったのかな、と牡丹は踏んだ。
「まぁ、ちょっと、ね」
携帯電話をぱかぱかと弄りながら、夕陽は曖昧に濁した。しかし、顔はどこか笑っていた。牡丹も詳しくは聞かずに、お茶で喉を潤した。




 

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