氷室等という男は仕事の鬼だ。公を私に優先させ、公務に於いては一秒のタイムロスも許さず、命令があれば事件現場というよりもはや戦場に近い混沌にも迷いなく飛びこんでゆく。使命に平気で命をかける生真面目の究極進化系――僕が直属の上司にそう判定を下すまで、入署して一日あれば十分だった。
彼はまたこのテの事象に関わるにしては珍しく、普通の人間だった。名実ともにきな臭い組織の出先機関だけあって菊川市警特務課の構成員は――この僕も含めて――書面の履歴を詐称したワケあり集団だったが、あの人だけは一般の警察官と同じ手続きを経て配属されたらしい。尤も、此処に呼ばれたのなら何らかの理由で上のお眼鏡にかなったことは想像に難くないけれど……。そんな訳で氷室警部補はなんのしがらみも後ろ盾もなく、けれども理不尽な職務には文句もつけず、ただひたむきに実直に、この世の怪異と向き合っていた。
端から見てると命綱ナシの綱渡りで、危ないなぁとは思いつつも大抵はそのリスクも感じさせずに淡々と片づけるから口出しは出来ない。まぁ出来たとしても僕はこの人に特別な恩も情もないから、いつ無理がたたって泥まみれで野垂れ死のうが知ったことじゃないけれど。同僚なんて付属品に過ぎないし、なれ合うつもりはさらさらない。外面だけは繕って、やりたいことができるよう仕込めば後はどうでもいい。
特務課は研究・分析メインの本部とは異なり、怪異討伐の最前線だ。ここにくれば奴らを好きなだけぶちのめせると聞いて異動を志願した。長年の本懐を遂げるにはもってこいの環境――初めて菊川署の前に立った時、ガラにもなく僕は期待をしてしまった。ここからだ、人に仇なすゴミ共を直接屠ることによって、ようやく意味のある生を送ることができる…と。
結果は、期待はずれだった。
なにがってあいつら、人のことを初心者だって侮って、ちっとも“本題”に近付けようとしないんだ。やれ危ないから下がれだの、後はこっちでやるから先帰れだの、テープの向こうの野次馬を追い払う手つきで僕に指図する。
万年人手不足の窓際部署では補充人員はよほど貴重なのか、壊れものを扱うように「大丈夫か?」「きつくないか?」と訊いてくる。僕は愛想よく「はい!」と答える。優しさのつもりだろうけど、ちっとも嬉しくない。小学生にイチから算数を教えるようなまだるっこしさで、肩すかしを食らったのは言うまでもない。
――お前は分かってないんだ。怪異は未解明の部分があまりに多い。一瞬の気の緩みが命取りになるんだぞ――
じれて階段を一個抜かしに登ろうものなら直ぐさま先輩方のご高説が飛んでくる。分かってない…のはあんたらの方だろ!僕はお茶汲み人形として特務課にきた訳じゃない。ずっと堪えてきたんだ……焦りと歯がゆさと痛みと黒く沸騰した憎悪を。解放する事も許されず、どろどろの原形もなさないほどに煮詰めた感情の重量が想像できるか?上から目線の憐れみが、一番ムカつくんだ。
けども僕は一度だけ、目を閉じて不満を抑えこむ。なんのことはない、あまちゃん期間はじき終わる。腕っ節には自信があるし、知識だってそこらの一般人には負けないんだ。今に認めさせてやるさ、僕は格下のヒヨコなんかじゃない、この空間の立派な構成要素だってことをね。そう悔しさを糧にして、前向きに受け取ろうとしたんだ。……あの日までは。
「おにぃちゃん?」
不意に呼ばれて足元を見た。僕の膝からちょっと上くらいにまんまるの顔がある。横から覗くようにして見上げてくるそれと太腿のあたりで繋いだちぃちゃな手を見止めて、やっと物思いから現実に意識が戻ってきたと認識した。
「おにぃちゃんどうしたの?お顔、怖いよ?」
「ぁ…ごめん」
つぶらでみずみずしく輝く瞳に問いかけられ、惰性で前に送っていた脚を慌てて止めた。耳栓を外したみたくなだれ込んでくる蝉の鳴き声と川のせせらぎ、風に揺れる草木のさざめき。肌に密着する夏の湿気は、撫でるように漂う梅雨っ気とは違う。
「大丈夫だよ…なんともない。少しやすもっか?ずっと歩いてたから疲れちゃったよね?」
咄嗟に謝ったのを不思議がられ、すぐに言い直しつつ努めて明るい声で口角を持ち上げた。ずっと黙ってたから不安にさせてしまっただろうか。警官が小学生に心配されるなんて、みっともない。
ネガティブに浸ってる場合じゃないと言い聞かせ、記憶に降る雨にそっと傘をさす。ひどい気分だ…追い出さなきゃ。いやいやと頭を振りたいのを我慢し、膝を折って言葉を紡ぐと「うん!」と純粋に元気な返事をもらう。それ以上追及されないことにある種の安心を覚えながら近くの木陰に入ると、照り返す強烈な白光がすぅとやわらぐ。
「ふー、涼し」
「おなかすいたね」
「そうだね」
モザイク模様に陽光をさえぎる若葉の重なり合いは気休め程度でも容赦のない熱線を遮断してくれた。汗で額に張り付いた前髪を払いのけると、ぽっこりとしたお腹を抱えて男の子――浅野満くんが呟く。時計を見たら正午すこし前。もうそんな経ってたっけと首を捻るも、ここに到着してからあっちこっちバタバタして余裕無かったし、そう感じるだけなんだろう。
満くんに共鳴して胃袋の空気音が小さく主張した。ハッとして二人で見合わすと、二人同時に吹き出した。他人と関わるのは基本的に億劫だけど、裏表のない幼い存在は猜疑心を働かせる必要がないので、嫌いじゃない。
「お昼ご飯何がいいかなー」
「んと、お母さんがね、ひやしちゅーかつくるって!」
「はは、それは楽しみだね」
緩やかな風が清涼剤となる。鈍く線路を鳴らす、列車の音が遠い。互いに握りあわせた手をぷらぷら揺らしながら満くんが言った。
「おにぃちゃんのかみの毛、長いねー」
「うん。珍しい?」
「うん」
「…変かな?」
「ううん、めめしくてかわいー!」
「はぁ…そりゃどうも」
悪気のない(多分“めめしくて”の意味をよく分かってない)少年の発言には、ちょっぴり苦みを覚えつつもごまかし笑いで返しておいた。お礼を言われたと気を良くした満くんが「ねぇ!ねぇ!」とせがむ。「おにぃちゃん!もっと、お話しよ!」
「いいよ。なに話そっか?」
「んーと、うんとね、おにぃちゃんたちは、遠くから来たの?」
「そうだよ。山をみっつも越えてきたんだ」
おぉーっと瞳に星をまたたかせながら少年が歓声を上げた。彼の性質はここまでの短いやりとりだけで容易に把握できた。単純で疑うことを知らない。些細な物事にも興味を示し、食いつけば過剰なほどに反応する。この場合彼の旺盛な知識欲の対象は、外部から来た人間――僕なわけで、まだ見ぬ外の世界を少しでも多く覗き込もうとする熱い視線はサーカスの見世物になった気分で落ち着かないのだけれど……向けられる思いがどこまでも無邪気なぶん、こそばゆさの方が先に立つ。
「とかいなの?」
「割と都会のほうかな」
「とかいってさ、車がブオーッていっぱい走ってて、でかいビルがデーンッてたってたりするんだよね!」
「市街地はそんな感じかなー。でもここみたく田んぼがいっぱいある所もあるんだよ」
「えー!?すごーい!!」
興奮のあまりどたどたと足踏みして満くんが叫んだ。謙遜のつもりだったけど、そんなに面白かったのかな…。さすがに恥ずかしくなり頬を掻くと、はてなをいっぱい浮かべたままの丸い顔が背伸びをして近付いてくる。
「でも……おにぃちゃんは、おまわりさんだよね?」
「あー…やっぱり、気になる?」
左胸の階級章を指差してみると、おもちゃを見つけた猫のような目で凝視された。うんうんと短い首を振る満くん。ぽけ、と口の空いた無我の表情に失笑を禁じえないが、彼でなくとも、誰でも疑問に思う所だろう。地元の駐在員じゃなく、管轄外からの警官がひょっこり現れたら、小学生でも違和感を抱くはずだ。
少し説明する言葉に迷った後、僕は満くんの背の高さまで腰を下ろし、気持ち真面目に声を作って語りかけることにした。
「僕がここに来たのはね、町のみんなが困ってるって聞いたからなんだ」
満くんがゆっくりと二回まばたきする。言い方がざっくりしすぎたけど、間違ってはいない…と思う。もう少し具体的に、「川で遊べないから、なんとかしてくれって」と付け足すと、ふと頭を傾けて「川?」と満くんが反応を示した。
「うん、そう。悪いやつがいるらしくって、それを調べにきたんだけど」
「しらべ、に?」
「なんでも、河童が出るとかいうウワサが」
「河童さん!?」
うおっと。いきなり声量を上げるもんだから驚いて尻もちをついてしまった。体勢を立て直そうと――するのも待たず少年の白い手に肩をつかまれて揺さぶられる。急にどうしたの!?と訊くまでもなく満くんの悲鳴に近い声が被さった。
「僕、ぼく、河童さんに会ったんだよ!!」
「え、あ、あー!?」
ぐらぐら上下する視界を眺めながら、迫真の威勢良さに気圧されて……別れ際にあの人が言っていたことを、僕はようやく思い出した。あの時、トイレから戻ってきたらこの子が増えてて、よく分からないうちに外されて…記憶があやふやになっていた、というか、思い出さないようにしてたんだろうか、付随する嫌な出来事を…まあいいや。それはともかく……彼、満くんが事件の当事者だと改めて認知すると、僕は地面に座り込んだまま襟元を正して彼に問うた。
「会ったって、見たの?本当に?」
「うん!!河童さん!河童さんと友達になったの!!」
「と、ともだち?へぇ…」
「えへへへ、かわいかったのー!」
先ほどまでとは数段ギアを上げた荒ぶりように若干引きつつ受け答えると、今度はうっとり目を閉じて、夢みるように口ずさんだ。緑色の肌が太陽の光を受けてきらきら輝いたこと、くりっとした黒目がちの瞳の愛らしさなど、あどけない少年の目撃談はおよそ怪異に遭遇したとは思えないほどにファンシーで、ファンタジックだった。
「怖くは…なかったの?」
念のためきいてみる。すると口をへの字に曲げて首を横に振った。なぜそんな質問をされるのかが理解出来ないといった風に。自分で自分に起こったことが、よく分かってないのだろうか。危険を危険と認識してない――あるいは記憶に補正が掛かってそうなってるのか――いずれにしても夢想か実体験か判別のつきかねる(僕らの職場でそれを言ったら本末転倒だが)与太話に混乱を覚えつつも、もうちょっと具体的な状況を聞き出すために質問を変えた。
「川で遊んでたんだよね?」
「うん」
「河童が出た時、危ないって思わなかった?例えば、手足を引っ張られたりとか……」
きゅっと口の端を左右に引いて、満くんが微かに表情をくもらせた。まずい、トラウマを掘り起こしてしまったかと俄かに焦ったが、そんな彼から飛び出たのはまたも意外な言葉だった。
「僕、河童さんにさわってないよ?」
「え…?」
残念そうに唇をとがらせて満くんが呟く。両腕を左右にぶらつかせて、まるで“さわれた”他の子が羨ましいとでも言いたげに。
僕は慌てて頭の中で現在の情況と昨日読んだ指令書との照合作業を行っていた。そもそも今回の事件は頻発する水難事故が“河童”という怪異の仕業である可能性があるって話で、特務課から派遣された僕らの役目は元凶となる怪異の特定とその除去……のはずなんだけど。
(“河童被害”に遭った満くんは「友達」だなんておかしなことを言うし、この様子だと危害を加えられていない…?それはつまり彼のケースが特殊だということか?それとも他の情報に誤りが…?)
いままさに相対している満くんの言動はそもそも“被害”に遭った者のそれとは思えないのだが、かといって供述を偽っているのでも、法螺話で大人の気を引こうとしているわけでもなさそうだ。しかし組織の予備調査が誤っているなど、これも天変地異と同じくらいの、よほどの確率で起こり得ない。信用に足る二つの証言が真っ向から対立し、バラバラに分解されたパズルのピースを前にした時のように思考が錯綜しこんがらがりそうになる。平静を回復せんとして視線を傾け、何もない地面を注視した。
その時、ふと気付く。
(……ん?)
半歩足を出せば踏めそうな位置に、数センチの径で土の色を濃く染める模様が点々と。
(濡れてる…雨なんて降ったか?)
丁度上から雫が垂れたかびしょぬれの手や傘のしぶきを飛ばしたような痕跡。いつの間に…いや元からあったのか?些細な、けれども妙な違和感を放つそれを僕はしげしげと観察した。疑問が凝視という形をとって身体を釘付けにする。絡まった思考が、新たに舞い込んだ考察対象へと急激に吸い取られていく。
すくい上げたのは、しっとり悲しみを含んだ少年の声だった。
「怒らせちゃったのかも」
「へ…?」
「お父さんやお母さんに河童さんのこと言ったの…河童さん、イヤだったのかな?」
パッと地から天に意識を移す。堪えがたく目を潤ませて俯く満くんがいた。幼い足が生まれたての子鹿のように震えて今にもへたりこんでしまいそうだった。
「あっ…、」
「うれしかったから。河童さんに会えて、お友達になれたと思って、みんなに自慢したの。…でも」
いじいじと足先で土いじりを始める。ぷっくりしたまぶたについた短いまつげが、切なげに揺れた。
「河童さん、うるさくされるのイヤだったんだ。だから怒って……僕、友達になれたと思ったけど…やっぱり……」
「――満くん!!」
それ以上は見てられなかった。僕は力任せに跳躍すると尻をあずけた状態から膝をついた体勢へと組み替え、哀れな少年の両肩に手を載せる。「大丈夫だから」と、強く聴かせる声で告げた。
「こうなったのは君のせいじゃないし、必ず僕がなんとかするから……だから……」
「おにぃちゃん……」
眉をハの字に下げたまま戸惑いを見せる満くんに、再度確認するように「大丈夫」を繰り返す。同時に「何やってるんだ、僕は」と声に出さずに自分を叱咤した。余計な物事に気をとられてる場合じゃない……証言が食い違うなら後から調べればいいんだし、地面の水たまりなんてそれこそどうでもいいじゃないか。今やるべきこと、それは目の前にいる怪異事件の被害者を支えてやることに他ならない。
こんな熱くなるなんて、らしくないのは解っていた。けどやはり許せなかった……何ら落ち度の無い小さい子供が責任を感じなきゃいけないなんて理不尽だ。
なんとか…といったって、今すぐ問題の全てをどうこうできる訳じゃないけど。でもこのまま手をこまねいてなんかいられない。無差別に怪異の被害をこうむる人を少しでも減らす――それが僕の人生に掲げた使命で、そのために僕がいるのだから。
「………ありがとう、おにぃちゃん……」
少し経って、落ち着きを取り戻したのかゆっくりと満くんが笑う。言葉は感謝のそれだが、まだ緊張の残る口元には寂しさが漂っていた。
「ぼく…また河童さんとお友達に、なれるかな?」
次いでこてん、と首をかしげる。彼にしては珍しく、不安げに、ぎこちなく問う声だ。僕はそれに、少しの間言葉を選ぶ時間を使い、やさしくぽん、とまるい頭に掌を添えた。ぱちぱちと瞬きした後、ニコーッと安心したように少年は破願する。僕はそれに応えるように短く刈りあげられた髪をかき混ぜた。
「なれるよ、君がいい子にしてたらね」
「へへ…うん!」
くすぐったそうに目を細めて満君が頷いた。疑うことを知らない純朴な彼が嘘に気付いた様子はない。事件を解決するにあたって具体的にどうするかはまだ詳細な道筋が見えていなかったが、どのルートを辿ろうとも、最終的な決着は怪異の排除、もっといえば元凶となった河童〈ソレ〉を消すことだとは口には出さなかった。
なぜ彼が河童に好意を持っているのかは不明だが、派遣された僕らの任務が「対象の除去」にあるのは変わりない。しかし少年の幻想を壊してまで真実を伝える必要は無いし、捜査に協力してもらうためという意味でも今の彼にマイナスの感情を植え付けるべきではなかった。これは僕だけじゃなく、大半の大人がそう決断するところであろう。
相手が子供なだけあって、全てが終わった後で河童と会えなくても、どうとでも言い訳できる。騙すようで悪いが、下手に物騒な事を言って彼と怪異の接触を促すような事態は避けなければいけない。いくら友好を感じようとも「それ」が害悪である事に変わりはないから……罪悪感は正直あったが、きっと彼も大人になれば解ってくれるだろうと、そう思った。
「おにぃちゃん……おにぃちゃんも、お友達だよ」
屈託なく微笑んで満くんが言った。僕はそうか、ありがとうと無難な返事を返して立ちあがる。心の隅に引っかけた後ろ暗さを振り切るようにまばゆい日向へと目を向けた。
――そう、僕がやるんだ。あいつらになんか、頼らない――
人知れず心に呟いて、僕は今一度決意を固める。くすぶったひそやかな思いをこの子は知らなくていい。先刻、まだ何か言いたげな視線を差し向けてきた上司の顔が頭に浮かんだが、関係ないと記憶のそれを一蹴した。
――よかったですねぇ、これで思う存分、大好きなオシゴトできますよ?
あの人に、あてこすりのつもりで言った言葉がリフレインする。我ながら、的を射たものだと密やかに皮肉笑いをこぼした。今頃またワガママな後輩が…と愚痴ってるかもしれないが、自虐でもなんでもなく「あいつにとっての僕」は育てるべき後進ではなく“体のいい手駒”なのだから、これくらいの意趣返しは御愛嬌、だ。
あの日、雨の日、投げつけるように言われた一言が脳内録音機で再生される。
――足手まといだ!
そのたび意図せず眉根がぎゅっとなるのも、もう慣れっこだった。足手まとい、つまりは要らないとはっきり宣告されたその日から、僕は他人に期待するのを止めていた。不本意でも上の人間に気に入られて、認められるのが目標達成の近道だと信じて励んでいた努力が裏切られた失望感は大きかったけど……諂わずに済むのは気が楽だと、結果的には良かったと思うようにしている。
そうして上司との軋轢が増えたのはマイナスではあるが、生真面目な警部補は人間関係をパワハラに持ち込む思考回路はないみたいだし、僕自身、あの人に嫌われようがちっとも心は痛まないし、どうでもよかった。今までと同じだ。利用できるものは最大限利用しながら、僕は僕の思う道を歩いて行く――隣の満くんが不思議そうに見上げてきたが、不敵にほくそ笑む今の顔を、僕は隠そうとも思わない。
厄介払いは癪だけど、氷室警部補から離れて単独行動できた事は却って好都合かもしれない。あの人を巧く出し抜いて功績を上げれば、これまでの苦渋もチャラにできる。やってやるさ――僕は再度固く胸に誓う。
いままでもこれからも……僕は僕一人でいい。
***
その夜、浅野町長宅に宿を借りることになった僕は、寝起きの場所として提供された畳み貼りの一室で荷物の整理をしていた。
部屋の中央には二組の布団が並んで敷いてあり、狭い家だから相部屋をお許し下さいと奥さんが済まなさそうに頭を下げたのが二時間前のこと。使わせてもらえるだけありがたいから文句を言うのは筋違いだが、正直昼間あんな事があった後じゃさすがに気まずくて寝つけない――けど、その警部補は午後九時を回った今も聞き込みから帰還する気配がないので、案外大した問題じゃなさそうだ。
あの人のことだ、冗談抜きで朝まで帰らないかもな…なんてぼんやり考えながら、風呂上がりの身体に扇風機の恩恵をたっぷりと享受する。寝巻代わりのTシャツとハーフパンツは運動部の合宿みたいだと笑われたが、見てくれなんざ気にするだけ無駄だと心の中で毒つき返しておいた。ちなみに氷室警部補は浴衣だ。掛け布団の上にキレイにたたんで用意してある。古風な考えの持ち主だとは思ってたけどおじいちゃんか。想像すると無駄に似合うのが気に食わない。
職務から解放され、ゆったりした空白の時間。見渡すと黒ずんで年季の入った木枠にところどころ桜の形のつぎはぎがなされた障子が目に入る。満くんが指でつついてすぐ穴を空けてしまうのだと小母さん――満くんのお母さんが歎いていた。僕も昔よくやりましたよと、僕は笑って受け答えた。あの子が何の恐れもなくのびのび生きる空間を確保できるのなら、また使い走りのごとく連れてこられた現場だけれど、頑張ってみようかなって気になれる。
まあそれも明日からの話、今は一時休戦というやつで……僕は相部屋の鬼上司がいないのをいいことに、扇風機のプロペラを顔の前に固定して涼風を思う存分独占する。風圧が貼りついた前髪を吹き飛ばし、長髪のせいで乾きにくい濡れた頭を心地よく冷やしてくれる。
――と、その時。閉じられた引き戸の向こうで小さく足音がした。振り返り僕はそちらに向かって大きく声を張った。気楽な一人の時間が終わりを告げたことを若干腹立たしく思いながら。
「警部補?もう戻ったんですか」
仕事はもういいのかと含意を混ぜながら問い掛ける。しかし相手からの返事はなく、とん、とん、と成人男性にしては軽めの響きで足音が近付いてくる。ふたたび「警部補?」と今度は疑問の色を強めながら呼んでみるも反応はなく、ここでようやく僕は違和感を感じて扇風機前から腰を浮かした。
「なんですか、いるなら返事くらい…」
大股で引き戸に近付く。足音はゆっくりと板を踏んで大きくなる。声は十分届いているはず…だが歩幅に変化は見られない。応える気がなくなるくらい疲れてるのかと、呆れながら戸の前に立つ。その頃には足音も襖越しにハッキリ聞き取れるほどの距離にあった。
――ぱしゃっ…
そこでようやく、僕は違和感を超えた異変に気がついたのだ。
「……え?」
取っ手に手を伸ばしかけて、ふと止めた。水音――それも雫の垂れる程度ではなく、雨の中、水の中を泳いで渡ってきたような濡れ具合で、廊下を歩いている。降ってたのか…いや仮にそうだとしても、家の中までぐしょぬれの状態で入り込むなんてことは有り得ない。それは家の人間にしたって同じだ。
つまりアレは、警部補でも、浅野家の誰かでもない。
好ましくない憶測に、背中を嫌な汗が一筋流れた。
「…誰…?」
ぴしゃんっ…
押し殺した呟きが、湿り気の多い音に重なる。そぉっと、取っ手を掴んだ状態で、物音立てずに出方を伺う。せわしなく回る脳内で幾つもの可能性が現れては消えた。強盗――否。玄関から此処まで台所と居間を必ず通る。家の住人が反応しないわけがない。動物――これも違う。犬や猫の足音はこんなに重くない。相手は少なくとも、人間の子供ぐらいの体重がある。
じゃあ何だよ?水、足音、子供の大きさ、二足歩行――幾度目かの自問自答を経過した時、襖一枚隔てた目の前でひときわ大きな異音が響いた。
まさか――
――べちゃり
「怪異……」
………………。
それきりの静寂。
薄い壁越しに殺気は伝わらないが、警戒を解く理由は全く以て見当たらない。武器は要るか?――後ろの荷物にちらと目を遣る。四、五歩下がってキャリーバッグに片手を突っ込む必要があるが、未知の敵に対しそれはあからさま過ぎる隙だった。数秒予備的な思考をした後、僕は取っ手に掛けた指に力をこめる。
丸腰でやりあうのは危険に違いなかったが、まずは対象を視認する方が先だ。ごくりと生唾が喉を流れ落ちた。吹いて倒れそうな紙張りの戸の、四角く彫られた窪みに爪を引っ掛け、一直線に、横に引き戸を開け放つ。
すぐそばに居るはずの相手を、強く睨みつけた。
「………あれ?」
――なにも、いなかった。
「そんなっ…確かに…」
慌てて左右に首を振る。音は聞こえた。移動は、していない。まるでこの場で霧のように消滅したかのごとく、横にも上にも、嫌な気配はどこにもない。困惑のさなか床に目を移すと、濡れた足跡がとつとつと廊下の奥から連なっている。やっぱりいたのだ、なにかが――ナニカが。僕は腰を下ろし、一番手前の、ひと際径の大きな水たまりに手を伸ばす。
一見、お茶でもこぼしたかのような痕跡に恐る恐る触れてみると、なんのことはないただの水だ。その当たり前の事実に安堵して、ひとつ詰めていた息を吐き出すと浸した指を引き揚げる。と、水面を離れた爪の先が不自然に糸をひいているのに気がついた。顔の前まで近付けて見てみる。次の瞬間、僕は驚きと嫌悪からしゃっくりみたく叫び声を上げていた。
「なにこれっ…苔、いや…藻?しかも赤い…まさか、」
指の腹にこびりついた、植物性の汚れ…そこから滲み出る暗い色の汁は、土のにおいと――独特の鉄臭さを放っていた。不快感に顔を歪め、いたはずの敵を求めて視線を泳がせるも、昏い廊下の先は冷たい沈黙を守ったまま、疑問の答えが提示されることはない。藻屑にまみれた正体不明の其れは、無視できない存在感を置いたまま、嘲笑うようになりを潜めてしまった。
「!…くそっ!!」
項垂れて、歯痒さを噛み締めた唸りが空間に響いた。ぶるりと肌を粟立てた寒気は、きっと冷風のせいだけではない。負けるものかと拳を固めても、目に見えない脅威は掴みどころが無く、対処のしようがなかった。
夜闇に沈む平和な町――しかしそこには確実に怪異の魔手が伸びている。
不安と不可解に身を染めた僕をよそに、人ならざる存在は禍々しい闇を徐々に広げ、無防備な人間を取りこみ覆い隠そうとしている。古ぼけた和室の隅で膝をついた無様な僕には、田舎の静けさが、嵐の前のそれのように、思えたのである。
*つづく*
部活スタイルは私の趣味。前回のトイレイベントも私の趣味です。ごめんなさい。
2016,02,07