「良樹くん、俺は一度でいいから君に殺されてみたい」
涼やかな笑みを崩さずに、刻命裕也ははっきりとそう言った。
平日、夕暮れに染まるこの時間帯は、食事時にはいささか早く、駅前のファミリーレストランといえどもゆったりと落ち着いた空間となっている。そのためたったいま放たれた物騒な言葉も聞かれやしなかったかと冷や汗を掻いたが、窓際角席と程よい客入りが幸いして此方に奇異の目が向くことはなかった。
目の前の穏やかな優男の顔をまじまじと見つめる。
「…、んだよそれ」
出来る限り感情をそぎ落とし、意識して素っ気なく返してみた。動揺を悟られないようにするための苦肉の策。しかし相手に効いた様子はなく、此方の反応を愉しむ気配を崩さぬままうっすら笑うだけだった。
「言葉通りの意味さ。僕は君に殺されたい。それを見てみたいと思ったんだ」
当たり前のように、なめらかに男は言葉を紡ぐ。そのあまりにも凪いだ声音は背筋が凍るほど冷え冷えとしていて、数分前にはカケラも見せなかった鋭利さが優しく刃先で頬を撫でるように伝わってくる。
一時間前、ほんの一時間前に出会った男だった。学校からの帰り道、髪色と学ランの丈だけ見て因縁をつけてきた通行人の対処に内心苦慮している時、迷いなく割って入ってきたのがこいつだ。
整った顔立ちといい、同年代とは思えない背丈といい、一目みてどこか現実離れしたやつだとは感じたが、相手をスマートに宥めて振り返った時の顔は自分と同じ「善良な一般市民」のそれであった。だから「お礼といってはなんだが、一緒にお茶でも…」と気障な声で誘われたのも、こそばゆさこそあったが、けして悪い気はしなかったのだ。
だから…席に着いたとたんに開口一番、息を吐くように嘱託殺人を申し出てきたこいつに対しては恐怖や危機意識よりも先に「驚き」が全面に出てしまい、呆気にとられているうちに逃げ出すタイミングを見失ったというわけだ。
「あんた…何者だ?」
慎重に、探るように問いかける。
「安心してくれ。白昼堂々君をどうこうする気はないからさ」
――返す言葉は、やはり研ぎ澄まされた自然体で。俺がわずかに座席から腰を浮かせるのを見止めたのか、両手を挙げおどけた調子で言ってのける。
ひらひらと手のひらを振ってみせるその仕草の、裏に隠されたウラの顔を見つけようと視線を鋭くするも、そう簡単に尻尾を出す気は無いらしく、男の纏う空気は非常識なほど穏やかだった。
(急に豹変して、襲ってくることは無い…か?)
ついそんな考えが頭を過ってしまう。それこそ相手の思うツボかもしれないのに、不思議と違和感を感じさせないこの男のやり口が恐ろしい。
だが、確かにこいつも馬鹿ではない。まばらとはいえ人の目のある場所で大それた事をしでかすとは思えなかった。それはここで二、三の短い言葉を交わしただけでも十分わかる。悔しいが、それは認めざるをえない。
ぐ、と返事に詰まったのを見計らったかのごとくコーヒーとカフェモカが運ばれてきたので仕方なく尻を座席に落ち着けると、
「……矛盾してねぇか、それ」
さっきよりも少し強気な口調で応戦してみることにした。
「どうして?」
「手前の死にザマなんざ手前で見れねぇだろ。それとも鏡見ながらそういうことする趣味でもあんのか?…だったら伝票置いて先帰るけど」
「まあ待ってくれよ。……似ているけど、少し違うかな」
「………、は」
――応戦してはみたものの、予想ナナメ上の回答に面食らい、ついでに逃げる口実もあっさり封じられて、再び面食らった俺に刻命は「面白いね、君」と美しく笑いかけた。
「うっせ」
「まあね、間違っちゃいないんだ。他者の目を鏡にして見たいものを見ようっていう点ではね」
そう言って刻命は手元のコーヒーにフレッシュを注ぐ。かちゃかちゃとカップとスプーンが音を立てて、真っ黒なブラックコーヒーが白で濁ってゆく。
「僕には今、とても興味がある事があって…人生の研究課題とでもいうのかな。人が最も美しく輝く瞬間はどんな時だろうとつねづね思っている…こんなコト言うとロマンチストかって笑われそうだけどね。
まあとにかく、僕はその“魂の輝き”とでも呼ぶべきものに心惹かれるわけだが……君の言うとおり自分のそれは自分の目で見ることができない。だからこそ、見届けてくれる誰かが欲しいなって、ずっと思ってて」
カチャン…金属と陶器の擦れる音が止まる。ハッとして顔を上げると、幾分か笑みを深めた刻命が真っ直ぐこちらを見詰めていた。
「――君は」
「え?」
「その瞳にどんな輝きを映すのかな?」
視線が、交わる。
「っ!!」
刹那、なにかが体内に這入ってくるような不快感に襲われ、ねじ切るように顔を背けた。
くつくつと満足げに男は笑う。
「そう慌てないで。例えばの話だよ…例えば、ね」
言い終わらないうちに、俺は伝票を掴んで立ち上がる。
「もう行くのかい」
嘲笑めいた呼びかけにも答えない。奴の言う“輝き”が具体的に何を指すのかを考えたくなかったし、考えたくなくてもうすうす感づいていると、奴が知った上で平然と語って聞かせたのかと思うと吐き気がした。ぬるくなったカフェモカに至っては、気に留める暇もなかった。
ただ――
「なあ」
立ち上がり、背を向けたまま低く問うた。背後でわずかに身じろぎの気配。もう相手にされないと思っていたのか、少し意外そうな声で「なんだ」と奴が返す。
「どうして……俺なんだよ」
ひとつだけ、気になったことを口にすると、今度は刻命が驚いた風に息を呑むのが聞こえた。
…店内のBGMが、沈黙を満たすように耳元を掠めていく。
「…君は、」
ややあって切り出した言葉は、どこか夢見るような響きを含んでいた。
「とても純粋な目の輝きを持っているからね」
いつか穢すのが楽しみだと、そう厭らしく笑う男の囁きは、次第に混み始めた店内の喧騒に呑まれていった。