失神症候群





 この館では、目に見える恐怖だけが全てではない。おぞましい怪物や、得たいの知れぬ幽鬼が跳梁跋扈する空間で、それは思いもかけない方法で犠牲者の生命をさらっていく。
 彼らに選択の余地はない。雨水がじわじわと岩盤を浸食するようにゆっくりとそいつらは忍び寄り―――気付いた時には手遅れとなっていたからである。
 あわれな生け贄は逃げ惑うばかり。行き場のない檻の中をさまよい続け……今日もまた。

 「……行ったか?」

 男が一人物陰に身を潜め、荒い息を整えながらひっそりとそう呟いた。
 額には脂汗が浮き、両の目はせわしなく辺りを伺う。笑う膝を抑えるように衝いた腕が疲労を物語っていた。

 ――追い回されて、かれこれ一時間。屈強な大漢とまではいかないにしても、平均的な成人男性よりもしっかりと筋肉のついた足腰が情けなく音を上げている。夢中で逃げてきたせいだろうか、一緒にいた仲間の姿もいつの間にか消えていた。無事でいるだろうか、と心配する心の余裕も、残念ながらあまりなかった。

 ……ちくしょう。

 声には出さずに唇を噛む。なぜこんなことになったのか。完全に油断が招いた過ちだった。
 最初に「敵」を見つけた時、とるに足らない相手だと思った。だから仲間を誘って仕留めようと画策した。なぜならそれが、自分達の"役目"であり"存在理由"だからだ。
 尤もそれが「達成可能」でなければ意味がないのだが――今回はその前提を見誤ったために起きた悲劇、というわけだ。

 ――いや、見誤るにしても、あれは――

 そこまで考えて、男は首を横に振った。今更だ。今更後悔したところで何の益もない。考えるべきなのは、この絶望的かつ屈辱的な状況を切り抜ける手だてである。
 敵の目を欺きつつ仲間と合流してもう一度…なんて都合のいい反撃は叶いそうにもないが、かといって逃げ回っていてもジリジリ消耗しいずれ捕まるだろう。真っ黒な恐怖に支配された頭で男は必死に考えた。せめて連中のうち一人にでも噛み痕くらい残さなければ。そうでなければ"館の住人"の名が廃る――と。

 今まで遭遇したことのない未知の脅威に怯えながらも、彼はそんな臆病風に吹かれた自分を寸でのところで抑え込んだ。抑え込んで、逆に自らを奮い起たせるように血管の浮いた拳に力をこめる。
 
 (そうだ、俺は戦士だ……あんなガキ共にいいようにやられていいはずがない!)

 ――男には矜持があった。館の闇の一部として、魔の倦属として、犠牲者を恐怖させねばならぬという、ある種の使命感である。
 だからこそ、まるで立場が逆転した今の自分が許せなかった。たとえ敵わない相手だと解っていても、おめおめ背中を向けて良い理由はないはずなのに…あろうことか、人間に恐怖を抱いてしまった。泥のようなこの不覚を、自分自身の手で拭わなければ気が済まないと男は考えていた。
 
 やってやるさ。この俺を、はっきょうおとこ様を、怒らせたことを後悔させてやる。

 男の腕の、足の、頭の血管がますます盛り上がり、皮膚の下でナニカがぞぞと這い回る。呼応するように四肢が小刻みに震え、腹の底から低い唸りが沸き上がる。
 臨戦態勢の男の瞳から迷いの色が消え、口許にはいやらしい笑みが戻る。そこには既に死に怯える軟弱者の面影はなく、冷徹な殺人鬼が酷薄に喉を鳴らして狩り場へ向かう準備を整えていた。

 「さあ、いこうか」

 男が顔を上げる。一歩闇へ踏み出せば、下等の倦属はおのずと彼に道を空け、おののきながら四散してゆく。 男は気を良くした。これこそが本来の俺の姿だ。弱きに畏れられ、生者を屠る――そう、これが館のあるべき秩序なのだ。
 
 ――パキリ、と物陰から物音がする。生き物特有の熱、息遣い。
 そらきた、と男は笑みを深くした。本能的に命の気配を察知した彼はそのまま一気に間合いを詰め、棍棒のごとき腕を勢いよく振り上げる。
 舐めるなよ、人間。怪物が天を貫く雄叫びを上げた。先程は油断したが、お前らの思い通りにはいかないぞ。
 その澄ました顔面に風穴を空け、ウジ虫まみれの肉塊にかえてや

 「あぶねっ」

 
 ――、その時、切断された彼の脳が最後に認識したモノを敢えて説明するのなら、それはあまりに歪な光景だった。
 大きな丸い目をした少年…が振りかぶったチェーンソーを軽々と男の頭上に、躊躇いもなく叩き落とした。コンマ三秒の間に行われた流麗な動作は、眼前にきたハエを追い払うかのように所帯じみていた。

 ――どうした桔平。
 ――あー、なんかいたからとりあえず殺っといた。
 ――さっさと行くぞ。ザコに構ってる暇があったら……

 (…………、どうして、)

 血と脂のかたまりとなって地面に落下するまでの間、男は純粋にそう思った。どうして、こんなことに。
 
 少年達の賑やかな声が遠ざかる。それと同時に男の視界も真っ暗な靄に閉ざされていく。彼は繰り返す疑問符を宙吊りに残したまま、ほどなくして肉体すべての活動を停止させた。

 よって、もはや彼は知る由もない……彼らが繰り返す輪廻の中で、最初は非力だった少年少女が戦う術を身に付け、少しずつ館の魔物達に肉薄していたことに。
 今や彼らは、はっきょうおとこどころか、闇の中枢たる存在にまで打ち勝つほどの実力を持ち合わせていることに。
 
 世界の理さえも超越した彼らの行く末は誰も知らない。ただ一つハッキリしているのは、比類なき力を手に入れた彼らは捕食者であり、哀れな闇の住人共は、今後も被食者であり続けることだけだった。

 綾小路邸には、今日も犠牲者の叫びがこだまする――。






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