温泉に浸かった途端、あー、という気の抜けた声が出た。前ならガミガミ言ってたギノさんは何も言わず、そうっと温泉に足を入れた。思ったより熱かったらしく一瞬足を引っ込めたが、二回目は慎重になったおかげか時間をかけて体がお湯に沈んでいく。コウちゃんはお風呂のなかにも煙草を持ってきているし、とっつぁんはいそいそと日本酒を持ち込んでいた。
久々に何も考えずに上を見ると、星がちかちかと光っていた。こんなふうに空を見上げるなんて、本当にいつぶりだろう。名前ちゃんの力説により頭の上に置いていたタオルが落ちたが、拾う気が起きずに露天風呂を満喫した。俺を瀕死の重体に追い込んでおきながらこんなことをするなんて、局長の考えもわからない。たぶん朱ちゃんが何か取引したんだろうけど、さすがにそこまで突っ込めなかった。ただ、この世界でシビュラの実態を知っているたった二人の人間として、前より仲良くなった気がする。

誰も何も話さず、ただ静かに温泉を満喫する。そんな静寂をぶち壊したのは、きゃっきゃとしながら隣の露天風呂に入ってきた朱ちゃんと名前ちゃんだった。俺たちの入っている風呂と隣の風呂は、塀で仕切られて姿は見えないようになっている。なっているけど、それだけだ。声は筒抜けなわけで、露天風呂に理由もわからない緊張感が漂う。
かけ湯をする水音や体を洗う音を響かせながら、名前ちゃんが不思議そうな声を出した。きょろきょろしている姿が目に浮かぶ。



「征陸さんたち、いないみたいだね。先に入ったと思ったのに」
「そうですね。もしかして、縢くんが先にゲームしようって誘ったのかも」
「かなあ。あーあ、お風呂で征陸さんと話せるの楽しみにしてたのに」
「私たちの前でいちゃつかないでくださいよ、このっ」
「い、いちゃついてないよ!」



女の子らしいハートマークが飛び交いそうな会話に、ギノさんが眉間にシワを刻んだまま俺を見た。小声で「縢、行け」と言われて、首を振る。上司命令かもしれないけど、どうして俺が言わなくちゃいけないのさ。ギノさんが言ったらいいじゃん。
首をすくめて見せた動作でわかったのか、ギノさんが出来ないと首を振る。ギノさんの視線が俺からとっつぁんに移動して、無言で存在のアピールをするよう訴える。とっつぁんはしばしギノさんと視線だけで会話していたが、やがて腹を括ったように形だけの咳払いをした。
いざ声をかけようとしたその時、向こうから朱ちゃんの間の悪い発言が聞こえてきた。とっつぁんが固まる。



「名前さん、胸大きいですよね。どうやって育ててるんですか?」
「え?ああ……肉とビールかな?でも私より、目指すは志恩さんでしょ!」
「あの体型は羨ましいですよね!」
「だよね!私いまダイエット中なんだ!目指せ志恩さん!」



名前ちゃんがダイエットをしているという情報に、とっつぁんの顔がぴくりと動く。盗み聞きするわけじゃないだろうけど、その顔はもう声をかけるなんて考えていない表情だった。
とっつぁんと付き合ってからも、いつも肉だビールだとおっさんくさかった名前ちゃんがダイエットなんて、何だかおかしい。俺の気持ちと同じなのか、朱ちゃんがずばっと名前ちゃんにダイエットする原因を尋ねた。ナイス朱ちゃん。



「ダイエットをするなんて、どうしたんですか?」
「ええと、あのね……征陸さん、が」
「なるほど、征陸さんのためですね!」
「ちっ、違……わなくもないけど!そうじゃなくて!」
「じゃなくて?」
「──朱ちゃんだから言うけど……征陸さんと私、キスまでしかしてないんだ」
「ええ!?」



朱ちゃんの大きな声に、ギノさんの驚きで漏らした声と、コウちゃんの感心するような声がかき消された。俺も驚いてとっつぁんを見つめる。だって二人が恋人になって、もう一年は経つ。間に槙島絡みでいろいろあったとはいえ、とっつぁんと俺も退院してかなり経つし、その間ずっと手を出してないというのか。
俺たちの視線にとっつぁんは何とも言えない顔をしたあと、照れくさそうに人差し指を唇に当てた。きっと、俺たちがいないと思って一年間の悩みを打ち明けた名前ちゃんへの配慮だろう。



「な、何でですか?って、立ち入ったこと聞いちゃってすみません」
「ううん、私から言ったんだし。その……もしかしたら元奥さんとか宜野座さんとかに遠慮というか、後ろめたいことをしている気持ちがあるのかなって思って」
「そんなこと……!征陸さんは、名前さんに失礼なことを考える人じゃないと思います」
「──うん。私もそう思う」



男湯に人がいると言うタイミングを完全に逃した温泉には、とっつぁんを気遣うような空気が流れている。女同士の会話はえげつないって言うし、あの二人ならそんなことはないと思うけど、さすがにこの状況で生々しいことを話し始められたらいたたまれない。
こっそり出ようかとコウちゃんに視線で伝えると、コウちゃんは静かにとっつぁんを見た。何かを考え込んでいる表情に、声をかけるのが躊躇われる。



「本当は私が気にしてるんだ。元奥さん、大和撫子って感じのすごくいい人だったと思うし」
「名前さん……」
「でもね、誰も好きにならず生きてきた人よりも、結婚もして子供を作るほど誰かを愛した人を──そんな征陸さんを好きになった自分が、誇らしいの。世界中の人に言いたい気持ちなのよ。私は世界一の男と付き合ってるんだって」



──ああ、とっつぁんは名前ちゃんに惚れ直したな。
名前ちゃんの晴れやかな声と朱ちゃんの感心したような声が響くなか、とっつぁんは顔を伏せてひらひらと手を振った。顔を見ないでくれ、という要望に応えて空を見上げる。視界の隅でコウちゃんがとっつぁんを肘で小突いてからかっているのを見て、勝手に顔がゆるんでいくのを感じた。

女湯からもじゃれるようにお湯がはねる音がしばらく響いたあと、朱ちゃんが名前ちゃんに外に出ないかと誘った。いつまでも露天風呂に来ない俺たちの様子を見に行こうという提案に、名前ちゃんはあっさりと同意した。
これで俺たちも声を出せるという安堵が漂うなか、二人分の足音がドアの向こうに消えていく。知らないあいだに少し強ばっていた体をお湯に伸ばすと、また女湯のドアが開く音がした。響くのは朱ちゃんの声。



「皆さんがここにいるってこと、名前さんには秘密にしておきますね」



がらがら、ぴしゃん。のち沈黙。朱ちゃんがバージョンアップした原因のひとつだと思われるコウちゃんは、少しだけ責任を感じた顔をして、ようやく煙草に火をつけた。



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