嫌な空気が流れている気がする。足りているはずの酸素を吸い込もうと開けた口からは、重い二酸化炭素が吐き出された。わかってる、足りないのは酸素なんかじゃない。愛情だ。
また吐き出しそうになったため息を飲み込んで、目のうえを滑る書類を眺めていると、征陸さんと宜野座さんが帰ってきた。わずかに赤く腫れた征陸さんの頬に、気まずさなんて飛んでいって慌てて駆け寄った。
「征陸さん!その頬、どうしたんですか!」
「いやあ、ちょっとな」
「志恩さんのところに行きましょう!早くしないと、」
「名前」
名前を呼ばれて、びくりと体が硬直した。先送りにしようとしていた問題をいま突きつけられるのだと知って、指先が冷えていく。少し出るか、という言葉に抵抗したかったけど、これ以上嫌われるのが怖くて黙って頷いた。宜野座さんは怖い顔をして早く行けとせっついてくるし、この部屋もいられない。
のろのろと部屋を出ると、征陸さんは私の歩調にあわせて歩いてくれた。胸からこみ上げる何かを必死に押さえ込んでたどり着いたのは、いつの日か征陸さんと話した自動販売機のある廊下だった。相変わらず誰もいない廊下には、ぽつんとソファが置かれている。
「ここで初めて二人きりで話したなぁ」
「……はい。征陸さんは宜野座さんと朱ちゃんのこと、心配してました」
「俺は名前のことも心配してたがな。──無鉄砲で喜怒哀楽がわかりやすくて、表情がくるくると変わる。見ていて飽きないからこそ、心配だった」
「そう、ですか?全然知りませんでした」
本題と関係ない話をして時間をかせぐのも、もう終わりだ。訪れた静寂に、征陸さんはためらうことなく私の前に立った。それを見上げて、出来るだけ普通の表情を作る。征陸さんはあの日のように、縋り付くことも出来ないほど優しく私を突き放すのだろう。
「もう、後戻りはできないな」
「そう、ですね」
「──名前、いまから俺は人生最後のプロポーズをする。頷いてくれるか?」
「……え?」
思ってもみなかった言葉に、驚いて目を丸くする。嘘ではないかと探す、いつもより大きく開いた私の目には、征陸さんの緊張した顔が映っていた。征陸さんでも緊張することがあるのかと驚いたのも一瞬で、震える口を開いて確認をする。
「……冗談、ですか?」
「こんなこと、冗談で言えないな」
「嘘?」
「こんな嘘なんかつかんさ」
「じゃあ──本当?」
「本当だ」
何度も確かめる私に、何度も本当だと言ってくれる征陸さんの声は優しい。夢みたいな現実に、やっぱりこれは夢なんじゃないかと疑ったけど、頬をつねっても手をつねっても痛いから現実だと信じるしかなかった。涙をぬぐってくれる指は、いつものように愛情がこもっている。
「い、いま、化粧、ぐちゃぐちゃで……」
「見慣れてるさ」
「でも、でも」
「名前、プロポーズに頷いてくれるか?」
「──はい」
涙でぐちゃぐちゃな顔のまま、征陸さんの胸に飛び込む。しっかりと受け止めてくれた腕はそのまま私を抱きしめて、心臓をやわらかく締め付けた。順番が逆になっちまったなあ、と言う声はあたたかい。
「わ、私でいいんですか?私、嫌な人なんです。征陸さんが避妊してないかもって、薄々思ってたけど、何も言わなくて、私……!」
「俺こそ、名前に酷な条件を突きつけた。女の幸せである子供と結婚を取り上げるなんざ、ろくな男じゃない」
「そんなこと、ないです!」
「つらい思いもしただろう。悲しくもなっただろう。今まで苦労かけた分、名前を幸せにさせてくれ」
「いま、これ以上ないほど幸せ、なのに」
「もっと幸せになってほしいのさ。惚れた女にはな」
結婚してくれ、という声に頷く。吸い寄せられるように重ねられた唇は、幸せの涙の味がした。
・・・
なんとか見られる程度まで化粧をなおして、征陸さんと二人で一係の部屋へと戻る。そこには朱ちゃんが帰っていて、今までの出来事を聞いたらしい心配した顔で駆け寄ってきた。それに照れながら笑いかけて結婚することを伝えると、ぱあっと顔が明るくなる。
「よかった!心配してたんです」
「ごめんね、ありがとう」
「ちょっと名前さんの子供について局長と話し合ってきたんですけど」
「局長と!?」
「はい。名前さんは産休および育児休暇を、最大三年とることができます。お子さんは名前さんか征陸さんの部屋で育てることを許可されました」
「施設に、送らなくていいのか」
「はい」
朱ちゃんの頼もしい声に、征陸さんの体から力が抜けた。良かった、と体で語りながら椅子に座る征陸さんは、ここにいる誰よりも潜在犯の子供の行く末がわかっている。
さらに朱ちゃんは、子供は保育所などにここから通えること、行き帰りは監視官あるいはドローンがつくことなどをつらつらと説明してくれた。つまり、公安局を家として子供はある程度はふつうに過ごせるということだ。
「すみません、勝手に決めてきてしまって。変更したい部分があれば言ってくださいね。変更出来るかどうかは、ちょっとわからないんですけど」
「ありがとう、朱ちゃん……私……」
「元気な子を産んでくださいね」
朱ちゃんの声に、じわりと目が潤んだ。まだ実感はわかないけど、お腹のなかには私と征陸さんが愛し合っている事実が具現化した子供がいる。そうっと撫でてみるがまだお腹は出ておらず、やっぱり実感はわかないままだった。
「ねえ名前ちゃん、名前どうするの?」
「まだ早いだろう。そもそも性別さえ決まっていない時期だ」
「いえ、狡噛さん。たぶん、女の子です」
なんとなく、そんな気がする。狡噛さんは目を細めて私を見て、取り出しかけた煙草をしまった。
宜野座さんが征陸さんを追いかけて部屋から出て、二人で帰ってきてからプロポーズされたということは、宜野座さんが何か言ってくれたのだろう。宜野座さんに頭をさげると、宜野座さんはもうかけていない眼鏡を上げる仕草をしながら、照れ隠しのように縢の言葉に乗った。
「性別が決まっているなら、名前も考えておくべきだろう」
「まだ早いだろう。だが……名前の名前から一文字とって」
「征陸さんも早いですよ」
くすくすと笑ってたしなめるが、弥生さんがいち早く具体的な名前を出してきて、部屋中に名前があふれかえることになった。女の子らしいものから男でも通用しそうな名前まで、思いつくかぎり出てくる口はみんな笑みの形をとっている。
お腹の子供がいなければ、征陸さんからプロポーズされることはなかっただろう。そう思えば、いっそうお腹のなかで生きようとしている子が愛しく思えてくる。宜野座さんと縢が早くも名前のことで言い合っているあいだに座る征陸さんは、お腹をなでる私に問いかけた。
「名前は何かあるか?」
「そうですね──世界で一番美しい名前をつけたいです。だってこの子は、私と智己さんが愛しあった証なんですから」
「ああ──そうだな」
一瞬だけ目を見開いた征陸さんは、やわらかに目を細めて同意してくれた。頬に落ちる熱に笑って、征陸さんの名前から一文字とるのもいいと言うと、宜野座さんから抗議の声があがった。このままだと一係全員で名前を考えることになりそうだ。
ああ、それはなんて私が望んだ──
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