一係の部屋を、かつてないほどの静寂が支配した。征陸さんなんて石化してるし、私も箸を持ったまま固まっている。弥生さんはいつものポーカーフェイスで、ごめんなさいと謝った。
「勘違いならいいけど、もしそうなら早めに対処したほうがいいと思って」
弥生さんの言うことは最もである。でももし子供がいたとしたら、征陸さんとの約束を破ってしまうことになる。征陸さんの子供は、後にも先にも宜野座さんただ一人だ。ふらりとする頭を抱えたい衝動に駆られながら、弥生さんの手をしっかりと握った。
「違います!絶対に違います!」
「そう。ならいいんだけど」
「だ、だって征陸さんと初めてそんなことしたのって、ほんと最近なんですよ!本当に!それに避妊だってちゃんと……ねえ征陸さん!」
「……あー」
「征陸さん!?」
思い当たる節があるような征陸さんの顔に、へなへなと力が抜けた。避妊だなんて大切なことを征陸さん一人に押し付けていたなんて、私の馬鹿。
征陸さんは「その、なあ……あれだ」と珍しく歯切れが悪く言っていたが、最後まで言うことなく私の手を取った。行くぞ、という声は真剣だ。真実を知るのが怖いと思っているのは私だけのようで、征陸さんは何も言わず部屋を出て廊下を進んでいく。征陸さんとの約束を破ってしまった、別れようと言われるかもしれない。そればかりがぐるぐるする私の頭は真っ白だった。
・・・
のろのろと一係の部屋に入ると、私の診断結果を待っていたらしいみんなが一斉に私を見た。征陸さんは私を送り届けると、少し出てくると言ってどこかへ歩いて行ってしまった。それを引き止めることも出来ずに見送って、項垂れて椅子に座る。どうだったの、と気遣うように聞いてくる弥生さんに、重い口を開いた。
「……妊娠してました」
「嬉しくなさそうな顔ね」
感情をにじませることの少ない声には、心配する響きが含まれていた。そういえば私と征陸さんの約束を知っている人はいないんだ。結婚はしない、子供も作らない。だから私たちが喜んでいないことをこんなにも不思議がっている。
「……征陸さんと、約束したんです。結婚もしない、子供も作らないって」
宜野座さんが驚きの声を吐き出して、眉を思いきり寄せる。まるで前みたいな宜野座さんの顔に、落ち着いてという意味でスーツの袖を引っ張った。鋭く私を睨んでくる視線に、笑ってみせる。自分でもわかるほど弱々しい笑みに、宜野座さんはハッとしたように、ようやく元の表情に戻ってくれた。
「これは征陸さんの優しさなんです。潜在犯の子供がどんな道を歩むのか、征陸さんは痛いほど知ってるから」
「それは……」
「結婚をしないっていうのも、やっぱり征陸さんの優しさです。最初から言っておけば、私がもし結婚したいとか子供がほしいとか思ったときに、早めにほかの人を見つけられますから」
「……馬鹿親父!」
宜野座さんは私の腕を振り切って、部屋から走って出て行ってしまった。慌ててそれを追いかけようとして、がくりと足の力が抜けた。転びそうになる寸前に縢が腕を引っ張ってくれ、床すれすれで止まった。
「っあーもう気をつけてよ名前ちゃん!心臓止まるかと思った!」
「縢……」
よほど情けない顔をしていたのだろう。縢は私の目線までしゃがみこんで、慰めるように先ほどまでふれていた腕をなでた。
それを黙って受け入れていると、黙って成り行きを見ていた朱ちゃんがまっすぐ前を見て歩き出した。私が安心するように笑いかけて、ガラスで仕切られた部屋を出る。
「ちょっと名前さんのことで相談してきます」
「……誰に?」
私の問いに答えることなく、朱ちゃんは笑って背筋を伸ばして歩いて行った。部屋に静寂が戻って、ようやく頭が鈍い音をたてて回転しはじめる。縢に支えられながら椅子に座って、狡噛さんと縢と弥生さんに頭を下げた。
「すみません、仕事に私情を持ち込んで。仕事、しますね」
「誰が仕事に私情を持ち込んでないって?」
それぞれお酒やゲームやマニキュアが置かれている机をぐるりと見回して、狡噛さんはおかしそうに言った。それに笑って、持ち主のいない机を見る。仕事場にまでお酒を持ち込んで、本当に征陸さんは可愛いところがあるんだから。
征陸さんが不在のまま、ふっと静かに固まった決心に、そっと目を閉じる。一秒後開けたまぶたの向こう側の世界は、変わらず私を受け入れてくれていた。じっと表情を窺っていた縢が、静穏を潜ませた声で私の名前を呼ぶ。
「名前ちゃん」
「いいの、縢」
何がいいのかわからないままそう言うと、真っ直ぐな視線で行動を制限された。いつもは物事に対して紗に構えてるくせして、私を気遣う時だけはこんな顔をするから、何十にもくるんだ心の裏側を吐露してしまう。確信を突くいつもより低い声に、頷くしかなかった。
「過去に帰るつもり?」
「……征陸さんが、望まないなら」
「子供おろさないの?」
「できないよ……どうしても、それだけは」
これだけは、どうしても。過去に帰るとしてもこの子も私も無事かわからないけど、このまま望まれない世界で生きるよりは。図太い私の神経が、へその緒にも流れていると信じるしかない。まだ長い煙草を黙って灰皿に押し付けた狡噛さんにお礼を言って、机の整理を始める。仕事はどうしても手につきそうになかった。
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