やってしまった……。
それはオールマイトの心に一番最初に浮かんだ言葉で、頭をかかえて起き上がった。
いつもは映画が映し出されているスクリーンにはゲームの戦闘で勝利した画面が浮かび上がっており、プレイヤーが丸ボタンを押すのを待っていた。となりのソファでは、同じく寝落ちしてしまった彼女が、ブランケットにくるまって寝息をたてている。
時刻は朝の六時。彼女とふたりして、初めてプレイしたゲームに夢中になって、レベル上げの最中で寝てしまったことをオールマイトははっきり思い出していた。彼女の学校は、今日は休みだ。まる一週間かけておこなった職業体験の振り替えなのだと、ゲームを持ってやってきた彼女は嬉しそうに笑っていた。
もうこんなことはしないとかたく誓ったはずなのに、半年ほどで簡単に破ってしまった己を恥じながら、オールマイトは立ち上がった。彼女を起こそうかしばし悩んだが、慣れない職業体験と、初めてのテレビゲームに夢中になってはしゃいでいた姿を思い出し、そっと部屋を出るだけにした。
今日は月曜日だ。新しい一週間の始まりは、教師となったオールマイトも平等に照らし出す。
シャワーを浴び、いつもより気合いの入った朝食を作り、余ったものを弁当箱につめる。彼女のぶんの朝食にラップをして、コーヒーを飲みながら新聞に目を通し、朝食を食べる。オールマイトがネクタイをしめても、彼女はまだ起きてこなかった。
起こそうかもう一度悩んだが、めざましの音にも反応しなかった彼女を思い出し、起こすのをやめた。起きたときにわかるように手紙を書いて朝食の横に置き、そうっと玄関のドアを開ける。
「いってきます」
つぶやいた声は、防音の部屋にいる彼女にはもちろん届かなかったが、それでもその台詞を口にするだけでなんだかあたたかい気持ちになれた。
彼女が目を覚ましたのは、オールマイトが出て行ってだいぶ経った午前11時前のことだった。たっぷりと睡眠をとり、まどろみのなかで目覚めた彼女は、目をこすりながら起き上がった。部屋を見回して状況を把握した彼女は、オールマイトと同じように頭を抱えた。
寝ないように気をつけたつもりが、レベル上げの最中のあまりの眠さに勝てなかった。きっとオールマイトも同じだろうと、のそのそとリビングへ移動する。彼女の目に一番に映りこんだのは、用意された朝食でも手紙でもなく、その横に置かれた本革のカードケースだった。
最初は小銭入れかと思ったが、開けてみるとそこにはカードキーが入っていた。彼女の顔が青ざめる。寝起きで頭が回らなかった彼女は、「ヤギさんが家の鍵を忘れてしまった」という勘違いに支配された。
落ち着いてみれば、手紙にカードキーをおいていくと書いてあるのを見つけたはずだし、ドアに鍵がかけてあることにも気づいただろう。だが、またしてもオールマイトの家で眠ってしまったことに焦った心と、寝起きでぼんやりした頭が冷静に判断できるかというと、そうではなかった。
名前は慌てて顔を洗って髪をとかし、服のしわを伸ばしてから、勢いよく飛び出した。
名前が雄英へたどり着いたのは12時で、お昼休みが始まるすこし前だった。勝手に入ってはいけないだろうとうろうろする名前に気づいたのは、怪しい人影を確認しにきた警備員だった。
冷やかしなら帰るよう言った警備員に、名前は慌てて首をふった。
「ヤギさ……オールマイトの知り合いなんです。オールマイトが忘れ物をしたので届けにきました。名字名前といえばわかると思います。中に入れないなら、これを渡してほしいんです」
差し出されたカードケースは危ないものには見えなかったが、名前が危険な個性の持ち主であるならば、これを爆弾にすることもできる。
警備員は名前から目を離さず、職員室に電話をかけて確認をとった。名前がオールマイトの知り合いであることを確認し、珍しい訪問者に校長が職員室まで足を運ぶ。警備員二人に連れられて、名前は職員室へと入った。
警備員に頭をさげてお礼を言った名前は、教員におじぎをしながら、やせ細った男へと駆け寄った。
「ヤギさんごめんなさい! これ忘れ物!」
渡されたカードケースを見て、オールマイトは名前が手紙を読んでいないことを知った。慌てて来てくれたのだろう、いつかと同じように、髪がはねている。どうやら寝相はあまりよくないらしい。
腰をかがめて、オールマイトが小声でささやく。
「これはカードキーだ。きみ、手紙読んでないだろう? きみのために置いていったんだ」
「えっ」
「それに、かばんはどうしたんだ?」
「急いでたから、忘れてきちゃった」
「それじゃあ、また帰らないといけないだろう。これは持っていなさい」
カードケースを名前の手に握らせ、オールマイトは安心させるように笑ってみせた。ようやく自分の勘違いと早とちりに気づいた名前は、顔を赤くして頭を抱えた。
「あああごめんなさい! 帰ります!」
「落ち着いて、ちょっと待ってて」
オールマイトがスマホを取り出し、自宅の住所と、部屋の番号、朝食を用意していることを書いてメールを送る。受信したそれを見た名前は、オールマイトを見上げた。
「いいかい、前と同じようにするんだよ」
頷く名前を、どこかで見たことのある顔だと考えていたミッドナイトが声をあげた。
「プリクラの子!」
その一声に、職員室にいた者はいっせいに名前が誰かを思い出した。あのオールマイトのスマホに貼ってあるプリクラの子。オールマイトは友人だと言ってそれ以上は語らなかったが、歳の離れた男女が一緒にプリクラをとるなど、恋愛が絡んでいるのではないかと疑ってしまう。
それに、名前はオールマイトではなく「ヤギさん」と呼んだ。発音が「八木さん」ではなく「山羊さん」なので、オールマイトのあだ名だと教員は思ったが、オールマイトをあだ名で呼べる時点でかなり親しいに違いない。
名前は目をぱちくりとさせていたが、ミッドナイトの言葉の意味がわかると、オールマイトに詰め寄った。
「私用のスマホに貼ったんじゃなかったの?」
「そうだよ。だからここで使ってるんだけど」
「ヒーローに変顔見られた!」
熱くなった顔を両の手のひらで押さえ、名前は目をかたく閉じた。そんな名前を見かねて、ミッドナイトが話題をかえる。
「それにしても、オールマイトと知り合いだなんて、友達にも自慢できるんじゃないの?」
「オールマイト?」
名前がきょとんとしてミッドナイトを見つめる。それから眉をよせて二秒ほど考え込み、視線をオールマイトへ移し、ハッと目を見開く。
「あっいえ、オールマイトと友人だということは誰にも言っていないので」
「きみいま私がオールマイトだって忘れてたよね!?」
オールマイトが名前の肩をゆるく掴んで揺さぶるが、名前は斜め上を見て、オールマイトと視線を合わそうとはしなかった。
「えっいや忘れてないよ? 思い出すのにちょっと時間がかかっただけで」
「それ日本語で忘れてるっていうんだぜ! マジかよ!」
「だってヤギさんオールマイトって感じしないし」
「オールマイト本人だよ!?」
職員室が二人のコントを見守る場となるのを終わらせたのは、名前のお腹の音だった。朝食を抜き、電車をおりてから走ってここまで来た名前の胃は限界を訴えており、静かな職員室にぐうぐううという音が響いた。
名前が恥ずかしさで死ぬと思ったとき、いままで黙って名前を観察していた校長が手を叩いた。
「せっかくここまで来てくれたんだ、一緒に昼食を食べよう。仮眠室でいいね」
「あっいえ、すぐに帰りますので」
「いやいや、食べていきなさい。ナンバーワンヒーローの秘密を知っているという件で、きみのことは知っていたんだ。せっかくの機会だ、ぜひ話してみようじゃないか」
優しい言葉遣いとは裏腹に、有無を言わせない強制に名前が頷く。これがヤギさんがこってりしぼられた校長か、と名前が緊張したのを察して、オールマイトが屈んで耳元にくちびるをよせる。
「大丈夫、私に任せておきなさい。それよりきみ、食べるものがないだろう? 私のお弁当、半分こしよう」
「いいよ、ヤギさんご飯抜くと死んじゃうから」
「間食用に軽食を用意してあるから、私はあとでそれを食べるよ。お腹をすかせたきみの前で、ひとりでお弁当なんて食べられないからね」
職員室を出ていく校長のあとを追う名前が、机の角に足をひっかける。それを支えたオールマイトは、さりげなく、ひるがえったスカートを守るように立った。
ついでにとばかりに、少しばかり荒れた指で名前のはねた髪をつまんで寝癖をなおそうと試みるが、いつかと同じように指が離れるとすぐにはねた。
思わず笑うオールマイトに、名前がわざと膨れてみせる。名前が、お返しとばかりに、マッスルフォームのときはトレードマークのように立っている前髪を指に絡める。愛にあふれた抗議ともいえない愛情表現を受け止め、オールマイトが喉の奥を震わせて笑った。
職員室を出る前に深々とお辞儀をした名前は、そのあとを歩くオールマイトの体に隠れて、すぐに見えなくなってしまった。静かに職員室のドアがしまり、授業終了と昼休み開始を告げるチャイムがなる。
「……友人?」
プレゼントマイクの純粋な疑問は、誰もが胸に浮かんだものだった。