私に得意なことなど一つもない。勉強には嫌われているしスポーツにも見放され、ルックスもさじを投げた。努力でどうにかなる性格で頑張ろうとしている最中だけど、これがどうもうまくいかない。
三つ子の魂百まで。美人になるかどうかすらわからない小さな頃に、この怠惰で後ろ向きな性格の根本は決まってしまったらしい。



「そんなことを言っているから、あなたはあなたなんですよ」
「正論だわ」
「でしょう。まずは目の前の問題を解くところから始めたらどうです?シャーペンを握るだけで数分もかかるなんて、小学生以下ですね」
「正論だわ」



しぶしぶ目の前の問題に目をやる。数学を教えてくれると言うものだからほいほいとついてきたけど、頭が問題を理解してくれない。まるでフランス語で問題が書いてあるみたいだ。



「僕の目には、日本語と世界共通の数字が並んでいるようにしか見えませんけど。追試になったらどうするんです?夏休みが潰れるじゃありませんか」
「学校に行くのは面倒くさいけど、あいにく他に予定もないのよ」
「僕がいくらでも入れてあげます。いいですか、せっかくの休みなんですから、僕に与えられるはずの時間を馬鹿の証明に費やすなんて許しませんからね」



まずここは、と例文に線をひいて教えてくれる男の子は小学生だ。小学生に数学を習うなんておかしいけど、私より確実に出来るのだから仕方ない。人は誰にでも得手不得手があり、彼は数学が得意、ただそれだけなのだ。
じゃあきみは何が得意なんだ、と聞かれたら答えられないから、そこは追求しないでいただきたいけど。



「聞いているんですか?ここで躓いていたらこのあとは全部わかっていないでしょう。徹夜でもしないとテストに間に合いませんよ」
「頑張るわ」
「名前さんの頑張るは、信用していません」
「随分と嫌われたものね」
「自分でわかっているでしょう」
「じゃあ、まず夏休みに何をするか決めない?それでやる気が出ると思うの」
「そうやってまた勉強から逃げる」
「逃げてないわ、やる気を追いかけているだけよ」



年頃の女の子にしては、飾り気も可愛げもないシャープペンシルが、真っ白なノートの上を転がる。竜持くんはじっとりたっぷり嫌味と諦めが混じった息を吐き出したあと、一緒にやる気を追いかけてくれた。



「まず、僕たちの練習に付き合ってもらいます」
「サッカー出来ないけど」
「見ているだけでいいです。休憩になったら、タオルとドリンクを僕に渡してください。それから、何でもいいですから感想を」
「サッカーボールを追いかけている竜持くんって真剣で楽しそうでかっこよくて、すこし妬けちゃう」
「……いま言うんですか。まあいいでしょう。それから試合を見に来てもらいます」
「喜んで」
「時間が合えば夏祭りにも行きましょう。人ごみは苦手ですが仕方ありません」
「無理していかなくてもいいんじゃない?」
「出来たらすこしばかり遠出をして、プールや海、ああ、旅行もいいですねえ」
「旅行?お金あるの?」
「僕だって貯金くらいしています。まあ、いまは親から与えられるお金がすべてですけどね」



目の前に迫った夏を想像して、竜持くんは穏やかに楽しそうに微笑む。つられて、本格的に暑くなった学校のない休みを思い浮かべた。蝉の鳴き声、アスファルトが揺らめく暑さ、溶けるアイス、一年で一番澄んで高くなる青空。
要するにこの捻くれている可愛らしいこどもは、恋人とすごす夏休みを増やすために、私に数学を教えようとしてくれているらしい。クーラーによってすこし冷えたシャープペンシルを握り、もう一度問題をにらんだ。



「ここでどうしても引っかかるの。教えてくれるかしら」
「喜んで」
「旅行、サッカーの練習が休みだったら行こうか。ご両親もいないときに、こっそり」
「いけない人ですねえ。仕方ありませんから、近場にしておいてあげます」
「それはそれは、たいそうなお心遣いで」



机をかこんで、すこし近い距離でくすくすと笑う。鼓膜が震えるのと連動して、竜持くんのさらさらとした髪が揺れた。シャープペンシルを持っていない手を伸ばして、髪にふれてみる。
竜持くんはすこし照れたように頬を染め、ごまかすように髪で隠した。それがずるいように思えて、問題を解くために持った文房具を投げ出す。両手で頬をつつみ、すこし男に近付いてきた顔をさらけだした。



「名前さんは本当に──いえ、補習になったら僕のせいでもありますね」
「そうかも」



お互いの顔は、夏の暑さにやられたと言い訳できないほど赤かった。そもそもこの部屋は、クーラーが適温を保ってくれている。
まるでファーストキスのように、ふれる手も下がるまつげもふれる吐息もかすかに震えながら、そのときを待つ。



「──僕を引き込むのが得意ですね」
「やった、私の得意なことがようやく一つできた」
「ひとつどころか、僕に関しては百ほどありますよ」



すべてを聞いて書いておこうとした手が握られ、薄い皮膚のふれあいだけで行動が制限される。二度目は閉じようとゆっくり消えていく視界のなか、竜持くんの赤さはやっぱり髪で隠れていた。
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