廉くんのことを言える状態ではないことが、自分でもわかっていた。三星に近付くと実感するごとに、心臓が冷えて指先が動かなくなっていく。どうしようもなく緊張しているということに気付いたのは、バスからおりる直前だった。動かない足はロボットみたいな動きをして、骨がぎしりと嫌な音をたてる。
廉くんが廉くんでなくなってしまった場所。意気地なしで自分のことしか考えない、最低な私がいた場所。震える私を見て、千代ちゃんが心配そうに声をかけてくれる。それに大丈夫だと返事をして動いていると、少しだけ緊張が薄れた気がした。のに。



「……名前?」



呼ばれた名前に振り向くと、何メートルも向こうに叶くんがいた。廉くんは走って逃げてしまって、阿部くんが追いかけて、私もそれに続こうか悩んだ一瞬のことだった。
叶くんの顔を見て、一気にあの秋の夜がよみがえる。寒い夜。あたたかい缶ジュース。あれほど自己嫌悪した夜はなかった。一晩中泣いた夜も。



「もうアップ始めんだけどさ、その前に少しいいか」
「え、と……」



慌ててアップを見ている監督を見ると、話を聞いていたのか頷かれた。少しだけだよ、という言葉に返事をして、すこし離れた場所へ移動する。叶くんはまじまじと私を見つめて、どこか感心したように息をはいた。



「……三橋のあと、追ったんだな」
「……気持ち悪くて、ごめん」
「んなこと思ってねえよ。三橋には名前がいたほうがいい」
「そ、かな……」
「オレ、今でも後悔してる。三橋も、名前も」
「うん」
「今日、オレ勝つから」



にっと笑って言う叶くんは、しなやかな強さを持っていた。私と廉くんは勝ちたいけどどこかに迷いがあって、どこに重心を置いていいのかわからずぐらぐらしている。叶くんは自分のために、今日勝つって気合を入れてきたんだ。たぶん、こんな人がチームを引っ張るエースにふさわしいのだろう。



「廉くんも、負けないよ!」
「そうこなくっちゃな」
「ところであの……話は変わるけど、なんで私の名前、知ってるの?」
「ああ、三橋がいつも名前で呼んでるからさ。名字知らねえんだ」
「ルリ、叶くんに連絡してくれたときにフルネーム教えなかったのね」



ルリらしいと言えばルリらしい。くすりと笑うと、体の力が抜けた気がした。私はマネージャーで出来ることは少ないけど、廉くんとの約束を守ることは出来る。ベンチで、私だけは廉くんの味方でいるんだ。ずっと、ずうっと。
叶くんが手を振って自分のベンチへ戻っていったのを見て、私も走って西浦のベンチへと向かった。まだ怖いけど、この怖さに立ち向かうことが大事だってわかったから。

ベンチに戻って監督に報告していると、千代ちゃんがアナウンスを頼まれたと報告しにきた。あっさりと頷く監督が私に視線をよこしたのを感じて、首をふる。私は廉くんと、ベンチにいるって約束した。約束は守らなきゃいけない。
千代ちゃんに試合でやることを聞いてメモしているうちに、廉くんが阿部くんと帰ってきた。怯えて走っていったのに、廉くんはいま嬉しそうな顔をしている。



「あ、三橋くん帰ってきたね。よかったね名前ちゃん」
「……うん」



廉くんが仲良くならなくちゃいけないのはチームメイトで、本人もそれを望んでいると知っていた。それでも心のどこかで、そうならなければいいと思っていたのかもしれない。私にだけ見せてくれる笑顔とか、すこしリラックスした話し方とかが心地よかったから。
私はなんて汚いんだろう。こんな汚いものがあんなにきらきらした廉くんのそばにいるなんて、やっぱり間違っていたんだ。



「名前ちゃん?どうしたの?」
「なんでも、ないよ」



無理に笑ってみせると、千代ちゃんが顔をくもらせた。こういうのをごまかすのには慣れている。中学時代の廉くんを知っている私からすればこの試合はすごく不安なのだと伝えれば、千代ちゃんは納得したように頷いた。



「名前ちゃんって叶くんと知り合いなんだよね?」
「うん。だからすごく複雑なの。ごめん、選手を支えるのがマネージャーなのに」



違う、私が支えたいのは選手じゃない。廉くんだ。
廉くんはもう立ち直って、阿部くんと話し合っている。それにチームメイトが加わって、ほら、廉くんに私はいらないじゃない。どす黒くて気持ち悪いものが胸から溢れ出そうになっているのに、どうしてだろう。廉くんの一言で、私はきらきらしたものを振りかけてもらって、綺麗になったような気がするんだ。



「名前 さん!」
「廉くん……試合、頑張ってね」
「オレ、約束、守るよ!名前さん も?」
「──守るよ。今度こそ」



マウンドに投手が立つ。飛び交うボールがなくなる。青い空のした、審判が試合開始を告げた。
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