「智己さん、これどうですか?」
「ん?ああ、これか」



先日の事件の報告書を見せながら征陸さんに近付く。もう慣れた報告書作成だが、たまにいつもと違うことがあると躓いてしまう。アドバイスを受けて顔を上げると、常守さんがきらきらした目を向けてきていた。



「苗字さん、征陸さんのこと名前で呼んでるんですね!」
「名前で?呼んでないけど」
「いやいや、今呼んでたって」



見に覚えのないことに首を横にふるが、縢にまで同じことを言い出すのに固まる。縢の言葉に常守さんは何度も頷いて、征陸さんは何も言わずに笑うだけ。
……もしかして、名前、呼んでた?声にならないままジェスチャーで聞くと、二人が同じタイミングで首を縦に振った。



「ほっ……ほんと!?本当に呼んでた!?」
「呼んでましたよ」
「そんな……そんな!」



思わずがくりと崩れ落ちる私を、征陸さんが引っ張って椅子に座らせてくれる。しかし今はそれにお礼を言う余裕もない。名前を呼んだなんて嘘だと思いたいが、この状況を見ればどちらが正しいか一目瞭然だ。死にたい。



「酷い……!」
「嬢ちゃん、何をそんなに落ち込んでるんだ?この年だが、名前で呼ばれるのは嬉しいもんだ」
「名前で呼ぶのが嫌なわけじゃないんです……!呼べるようにこっそり何度も練習して、なのに!」



悔しがる私を見て何かを感じ取ったらしい征陸さんが、私の視線の位置に合わせてくれながら顔を覗き込んでくる。顔を背けるが優しく元の位置に戻されて、観念して口を開いた。刑事時代、征陸さんは犯人に供述させるのがうまかったに違いない。



「……10回名前を呼んだら、お願いしようと思っていたことが、あって」
「もう10回は呼んでると思うが」
「えっ!?」
「だから言ってみちゃあくれないかねぇ?さすがに嬢ちゃんの心の中までは読めん」
「……手、を」
「手?」
「手を、握りたく、て」



これ以上ないほど熱くなりながら、赤いであろう顔を必死に隠す。私は誰とも付き合ったことがない。両思いというものになったのも、今回が初めてだ。だから恋人同士が何をするのかは知っているけど、どういうタイミングで何をするのかがさっぱりわからないのだ。しかもここは私が生きていた時代の遙か未来である。



「あー……シュウ、常守監視官」
「はいよ」
「はっ、はい!」
「ちょいと抜けるがいいか。何かあったら呼んでくれ」
「はい!ごゆっくり!」



常守さんのやけに気合の入った声に、ますます顔を上げることが出来なくなる。ゆっくりと宥めるように頬をなでてくれた手は、そのまま下に降りて私の手を包み込んだ。椅子から立ち上がるよう促され、何とか両足で地面を踏みしめる。



「名前の願い、叶えられたなぁ」
「あ、えと……」
「公安局のなかじゃ味気ないが、コーヒーでも飲みに行くとするか」
「ま、征陸さん」
「コーヒー1杯飲んで帰るたぁ、俺も若くなったもんだ」
「征陸さん」
「ほら、名前」
「……と、」
「あと一息だな」
「智己、さん……」



真っ赤になって呼んだ名前に、征陸さんは上機嫌で笑った。征陸さんは優しいと思っていたけど、案外意地悪なところもあるようだ。覚えておこう。
顔を上げることが出来ずに部屋を出て、手をつないだまま廊下を歩く。一係の部屋に帰りづらいったらないのに、征陸さんはそんなことは気にしていないというように足を動した。



「今夜はイカ焼きを肴に一杯やろうと思うんだが、嬢ちゃんもどうだ?」
「……行きます」
「そうかい」
「征陸さんって」
「ん?」
「意地悪ですね」
「今頃気付いても、もう遅いな」



楽しそうに笑う征陸さんをわざとらしく睨んでから、まだ繋いでいてくれる手を初めて握り返す。ぴくりと指先が動いただけのそれを征陸さんは感じ取り、指を絡めて応えてくれた。やっぱり、恥ずかしくて死にそうだ。


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