きっかけは虎太クンの何気ない一言だった。ソファに座ってボールの感触を足で確かめながら、ぽつりと独り言のように落ちた言葉。三人しかいない部屋に名前さんがいないだけで、何か足りないように思える。



「姉ちゃんが俺を褒めるとき、いつも自分が褒められてるような顔をするんだ」
「名前姉って、かなりの世話焼きだろ?あれさ、俺らの世話して自分の存在を確かめてんじゃねえの」
「自分も寂しいのに僕たちの寂しさをまぎらわすことばかり考えていましたからね、あの人は」



寂しさは小さい自分に押し付けて置き去りのまま僕たちの世話ばかりやいていた、どこか抜けている女性。甘えたり自分の欲求を示したりすることは滅多にない。寂しいなどという言葉は聞いたことがない。よく笑う口から出るのは、僕たちを褒めたり心配したりする言葉ばかり。



「たまには名前さんに恩返しでもしますか。世話を焼かなくても名前さんを必要としていることを、わかってもらわなくてはいけませんから」
「いいけど、何すんだよ」
「料理を作る。姉ちゃんの好きなもの」
「虎太クンいい案です。決行日は……そうですねえ、再来週にしましょうか」
「名前姉が泊まりに来る日だな」
「そういうことです」



三人で顔を見合わせてにんまりと笑う。名前さんが驚く顔がいまから楽しみだ。普段の僕なら相手の嫌っているものから攻めていくのに、さすがに名前さんだと違うらしい。これも愛の力ですかねえ。



・・・



決行日当日、時間きっかりにスーパーの前で集合した。名前さんにはご飯を食べずに来るようメール済みだし、残るは料理のみ。それぞれ買うものを記した紙を持ち、自動ドアに歓迎されて店内に入る。途端に耳に飛び込んできたスーパー独自の曲を聞き流して、まずは野菜を買うことにした。

が、虎太クンの一言で完璧だった予定が崩れ去った。がらがらと、そりゃあもう派手に跡形もなく。



「姉ちゃんが好きなのは肉だろ」
「中華だろ。名前姉に好きなもの聞いたら、春巻きって言ってたぜ。コロッケとか」
「肉だ。この間の夕食は姉ちゃんが好きなものがいいって言ったら、唐揚げとかトンカツって言ってた」
「和食です。なすとか肉じゃがとか大好物じゃないですか」
「は?んなこと聞いたこともねえ」
「肉だ」
「和食です」
「中華だ」



野菜売り場の前でにらみ合う三つの同じ顔を、客が迷惑そうに避けていく。名前さんが好きなのは和食で間違いない。基本的に和食をつくるし、よく作るメニューも得意料理も把握済みだ。
誰もが譲らないまま、時間だけがすぎていく。にらみ合いの自己主張のなか、凰壮クンがふと気付いたように口を開いた。



「虎太、名前姉が好きなものを作れっつったら、唐揚げ作ったんだろ?」
「おう」
「それ、虎太の好物じゃねえ?」



ハッとして凰壮クンを見る。そうだ、名前さんはそういう性格だ。自己主張はしないくせにそれを悟らせないのがうまい、やわらかく包み込んでくれる人。



「凰壮クンが好きなものを聞いたときは、凰壮クンの好きなコロッケでしたね」
「姉ちゃんがよく作るのは、竜持の好きな和食」



ようやく食い違いの原因が判明して、すっきりすると同時に大きな壁にぶつかった。当初の目的である「名前さんの好きなものを作ってねぎらう」という根底がぐらぐらと揺れて、いまにも崩れんばかりになっている。今から予定を変更するには時間がないし、名前さんにメールも送ってしまった。



「俺たちが考えてたもんを作るしかねえ。姉ちゃんに飯を作るのが一番だ!」
「その通りです。時間がありません、早く買い物をしなくては」
「んじゃ、レジ前に集合な」



それぞれが思い思いの場所に散らばっていき、5分後にレジの前に集まった。とりあえず持ってきたという空気を醸し出している商品がカゴに入れられ、レジを通過し、袋に乱雑に詰められる。名前さんが来るまで二時間、なんとかなるといいんですが。



・・・



「うおっ!春巻きが爆発した!竜持!」
「ちょっと虎太クン、何で春巻きと唐揚げを一緒に入れるんですか!爆発物とくっついて大惨事ですよ!」
「これで掬う!」
「虎太クン、こんなときにボケはいりません!竹串でどうやってこれを救い出すんですか」
「また爆発した!これ全部爆発すんじゃねえ?」
「何が原因かはわかりませんが、とりあえず火を止めましょう」



ひどい有様になった春巻きだった物体を適当な皿に移す。肉じゃがはすこし焦げてしまったし春巻きはこの有様だ。ご飯が炊けたことを知らせる音が響いてもまだお味噌汁も出来ていない現状に、不安が現実になったとため息をついた。いくら身体能力に恵まれていて頭もよく飲み込みが早い将来有望な人間だとしても、僕たちはまだ未熟な子供だ。
経験不足によって引き起こされた取り返しのつかない事態のなか、チャイムの音が響いて名前さんが入ってくる音がした。



「お邪魔しまーす。あれ、三人ともどうしたの?」



万事休す、華やかな食卓で迎えるはずだった計画はもう修復不可能だ。ひどい有様になっている台所を覗き込んだ名前さんは目を丸くして、こうなるまでの経緯を聞いてきた。

──視線で意思疎通が出来るのを、これほど恨んだことはない。2対1の圧倒的不利のなか押し付けられた役目を、無言の圧力と不思議そうな瞳に負けておとなしく全うする。



「……名前さんのために作っていたんです。失敗しましたけど」
「私に?」
「ええ、日頃の感謝を込めて。今回はこの通りですので、後日また別の形で感謝を示しますね」
「これ、食べてもいい?」



疑問符はついていたのに意味はなく、誰かが返事をする前に春巻きだったものは名前さんの口のなかに消えていった。ゆっくりと味わうように食べる前で、凰壮クンが居心地が悪そうに判決が言い渡されるのを待つ。



「これ、凰壮?すっごくおいしい。将来はシェフになれるよ!私が保証する!こっちは虎太かな?」



考える素振りすら見せず誰が何を作ったか当て、名前さんは嬉しそうに頬をゆるませた。おいしいと連呼する名前さんに、そんなわけねえだろ、とようやく事実を突きつける声が聞こえてきた。掠れて弱気になって、まったく凰壮クンらしくない声。



「何言ってるの、すごくおいしいよ!虎太の作った唐揚げもおいしい!二人とも本当においしいよ。本当の本当だからね。ありがとう、すごく嬉しい!」



名前さんは二人に抱きついて何度もお礼を言って、ようやく肉じゃがに手をつけた。じゃがいもを口に入れて、本当に美味しそうに咀嚼する。味わい終わってゆっくりと開かれた目は、光の加減では騙せないほど潤んでいた。



「ありがとう……すごく嬉しい。これほど幸せなのは、世界中探したって私ひとりだよ。本当に嬉しい……ありがとう」



我慢できなくなったように泣き出す名前さんを前に、困り果てた顔が三つ。喜んでもらえるとは思っていたけど、まさか泣くまで喜んでもらえるなんて。身体能力に恵まれていて頭もよく飲み込みが早い将来有望な人間だとしても所詮は男、女の涙には弱い。
三人で泣かないように言って焦ったあまり手荒に涙をふいて、ようやく笑ってくれた名前さんに心底ほっとする。



「ありがとう。提案してくれたの、竜持くんでしょう?あの……ありがとう」



はにかんだ顔に、弟に見せる表情とは違う恋情が混ざる。抱きしめたくなるのをぐっと堪えて、黙って微笑んだ。肯定を伝えるにはこれでじゅうぶんだ。
また泣きそうな名前さんの背中をなでて、きゅっと服を掴んでくる小さな手をそっと握る。恥ずかしがり屋の名前さんに考慮してふたりの前で抱きしめていないんですから、これくらいは許してもらいましょう。


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