一松はなまえについて自ら発言することはなく、兄弟も尋ねはしなかったが、ときおり話の中心になまえが据えられると、必ずと言っていいほど一松に視線が集まった。そんなとき決まって言われるのが、一松はなまえのことを美化しすぎているという、忠告にも似たからかいだった。
 一松は反論はしないが、肯定もしない。
 一松にとってなまえは、強引でもなくわがままでもなく、気分屋でもなかった。一年のうちどの一日を切り取っても、なまえに似合うのではないかと、心底信じていた。
 影すらない真夏の日でも、曇って雨がふるのかはっきりしない日も、みぞれが空を支配する日すら、あつらえたようになまえの引き立て役になる。

 泥酔した一松が珍しくなまえのことについて本心を語ると、いつもは葉に衣着せぬ物言いをする兄弟も、顔を見合わせるだけで口を開かなかった。
 一松の本気を茶化したあとに起こることを、経験で知っているのだ。

「まあ、あいつもそう思ってそうだけどな。だって、あんなぐいぐい来る性格じゃなかったじゃん」

 一松の酒に浸った目が、悪酔いしかけているおそ松をとらえる。

「なんかあったんだろうけど、一松にも言わないなら俺らに言うわけねえし。脱糞しても許してくれんだから、ちゃんとゲットしろよ」
「ポケモンみたいに言うなよ」

 チョロ松のツッコミが入り、話が変わっていく。一松は、炭酸が抜けかけてぬるくなったビールを舐めるように飲んだ。酒が喉を焼いていく感覚が、やけに鮮明だった。


 なまえは一松を甘やかすのがうまかったが、言葉を引き出すのも巧みだった。一松の視線を軽やかに受け流し、半分以上進んだゲームにのめり込むふりは、なまえをよく知る者でないと見逃すくらい自然なものだ。
 なまえはこういった場面で甘やかしてはくれないことを思い出し、一松は体中の勇気を絞り出す。

 自分がクズなことに変わりはないが、ネガティブなことを言うとなまえの指摘されるため口にする頻度が減り、自分の稼ぎでなまえと出かけることが増えると、すこしばかり前向きになっていた。
 なまえとのデートを思い浮かべ、脱糞すら許してくれるなまえのことを思い、ふるえる口を開く。

「なんでおれみたいな奴に、エロゲみたいなせりふ言ってくるの?」
「一松エロゲしたことあるの?」
「見たことあるだけ」

 なまえは驚いたものの、それ以上追求しなかった。一松の言葉を口のなかで転がすように味わい、考え、首をかしげる。

「やっぱり胸は大きいほうがいいの?」
「そういうとこがエロゲっぽい」
「すぐわかるほど詳しいんだ」

 なまえが拗ねる気配を察知し、一松は言い訳を舌にのせた。なまえのおかげで日々言い訳がうまくなっているのがいいかわからないまま、なまえが気に入る言葉を選ぶ。

「見てただけだし、髪の色ピンクで触覚ついてたし、全然好みじゃなかった。ほんのちょっとしか見てないから詳しくない」
「本当に?」
「ほんと」

 ゲームのコントローラーを放り出したなまえは、一松の顔に真偽が書いてあるかのように見つめ、ひとまずその言葉を信じることにした。変わらずとがらせたくちびるは赤く、一松の視線を奪う。

「仕事をやめたときに思ったの。こんなに人生を犠牲にしてまで仕事をしなくてよかったって。後悔してることを仕事でごまかして思い出さないようにするのをやめて、後悔しないようにするって決めただけ」

 なまえの睫毛が上下する。ひとみの中で星をまたたかせて、一松には一生手が届かないまばゆさで、星空に一松を浮かべた。

「一松は知らないでしょう。わたしの初恋が一松だってこと」

 一松は、たっぷり一分は間抜けな顔をなまえにさらした。言葉が体に染み込むと、体中が火照り、目の前まで赤く染まる。口を動かすだけで言葉は出ず、息すら満足に吸えない。
 なまえは顔をほころばせ、頬を幸せに染めて一松にくちづけた。

「一松、わたしのこと好きって言って」

 どう答えたか、答えられたかどうか一松は思い出せなかった。


 数時間後に出来上がった内職を工場に届けに行き、しばらく部屋を貸せないとなまえに言われたところで、ようやく脳が動きはじめた。なまえは笑う。

「またね、一松」

 その後、なまえが一松に会いに来ることは、ぱったりとなくなった。



 なまえと会わなくなって一ヶ月がすぎたころ、一松はようやく玄関を開けることができるようになった。
 最初の一週間は部屋の隅から動こうとせず、銭湯すら行かない有様だった。五人で引きずってようやく家の風呂に入れてから、なんとか最低限の清潔を保てるようになったくらいだ。

 この世の負を煮詰めたようなオーラは変わらず一松の体を覆い続けたが、原因がなまえだとわかっているため、兄弟たちも容易に慰めたりなどできない。トド松がスマホをいじってなまえに聞いてみてもはぐらかされるばかりで、なまえがいま何をしているか、まだ実家にいるかすら不明だった。
 一松の心と頭は、自分を罵倒する言葉で埋め尽くされていた。自分の行動を振り返っては後悔する日々で、なまえの言葉に満足に受け答えできなかったひとつひとつを思いだしては、落ち込んだり目を潤ませたりする。

 やってくる野良猫になんとか生きる気力をもらっていた一松の耳に飛び込んできたのは、トド松の狼狽しきった声だった。

「一松兄さん、急いで外に出て!」
「なんで」
「いいから早く!」

 末っ子は普段ぶりっこをしているので忘れがちだが、ジムに行っているぶん、たるんだ一松より力が強い場面があることを忘れていた。むりやり立たされ、蹴飛ばされて階段を転げ落とされ、外へ放り出される。
 お尻を押さえる一松の視線を奪ったのは、秋の装いをして、一松を待っているなまえだった。

「久しぶり、一松。話したいことがあるんだけど」

 なんでなまえがここに。自分に愛想を尽かしたのではないのか。
 尋ねるのが恐ろしく、ひとまずなまえの希望通りに頷くと、なまえは晴れ晴れとした顔で一松の手を握った。

「わたし、再就職できたの。今度は実家から通えるところに」

 予想もしていなかった言葉に、一松の頭が殴られる。目の前に星が飛び、なまえの笑顔をまともに見られない。
 なまえは一松より優れた、クズではない人間だ。身に染みていたはずの事実は、いつのまにか忘れかけていた。

 一松が細々とお金を稼ぐようになってなまえが無職でも、ふたりの立ち位置は変わらなかった。なまえと一松はピラミッドの頂点と底辺で、家が近所でなければ話すことすらできない存在だったことを、一松はようやく思い出した。

「給料は安いけど休みは多くて定時で帰れるし、職場の雰囲気も良さそうだったよ。だから一松、いつかふたりで暮らそう」

 にじんで揺らぐ目元を隠すように下を向いていた一松は、脈絡のない言葉を聞き間違えたと思った。だがなまえは言い直す気配もなく、静かに一松の言葉を待っている。

「なんで? おれに愛想尽きたんでしょ。ようやく人間のクズだって実感したんでしょ。なんでいまさらおれの前にあらわれるわけ」
「安月給だけど、一松も内職を続けてふたりで節約すれば、毎月なんとか暮らせるだけのお金はあるよ。たまに奮発してデートして、毎日一緒に猫に会いに行こうよ」
「だから、なんで」

 なまえの言葉を語尾も荒くさえぎった一松は、ようやく吸えた酸素を肺いっぱいに溜め込んだ。

 なまえを責め立てたかった。キスをしておいて、これだけ一松を夢中にさせておいて、いきなり消えてしまうなんて。こうなるとわかっていたから、ずっとなまえと距離をとっていたのに。
 一松のわずかなテリトリーに入り込んで乱して好き勝手なことしたなまえのことを、まだ嫌いになれないでいる。

「一松のこと、好きだから。一松がわたしのことそういう対象で見てないって知ってたから、がんばって諦めたのに、最後に残っているのは一松だけだったの」

 一松の手を包み込むように握っているなまえの細い手がわずかに震えていることに、ようやく気がついた。一松は下ばかり向いていたのに、涙をためてこぼさないようにしているなまえは、まっすぐに一松を見ている。
 一松の脳内に、なまえとキスした場面が浮かんだ。繰り返し再生したそれは、擦り切れもせずいまだに一松の人生のなかで一番の輝きをはなっている。
 好きだと言ってほしいと懇願したなまえに、一松は結局なにも返せなかった。
 嫌われることが怖かったのだ。なまえの好意は受け取っておきながら、こんなクズに好かれて嬉しいわけがないと、自分の気持ちは伏せた。なまえが傷つくなど考えもせず、自身の保身を第一にした。

「おれもすき」

 本音を語るのは、案外簡単だった。
 就職先をやめるくらい傷ついたなまえの心に、さらに追い討ちをかけた。一生謝っても許してもらえない、一生かけても償えないそれに比べれば、なまえの望む言葉と一致している本心を口にするのは、拍子抜けするほど簡単だった。
 さんざんためらってから、最低限の清潔を保たせてくれた兄弟に感謝しつつ、なまえの涙をパーカーの袖でぬぐう。

「おれもずっと好きだった。だけど、あんたは綺麗だから、クズのおれなんかじゃ釣り合わないと思って、会うのを避けてた。こんな性格だし、おれのこと諦めるなら今のうちだけど」
「諦めきれないから、こうなってるの」

 なまえは我慢できないとばかりに、一松に抱きついた。一松のためらいも、今度は短い。
 なだめるように背中を叩いて、なまえがずっと気を張っていたことに、ようやく思い至った。細い肩。痩せた腕。胸にしみこむ涙はあたたかくて、こんなときなのに、なまえが自分を頼りにしてくれているのが嬉しい。

「おれ、執念深いから、きっとずっと好きだけどいいの? 別れてもストーカーになる自信ある」
「絶対別れないからいいの」
「絶対はないんじゃなかったっけ」
「言ったでしょ、一松が考えたことは、わたしも考えたことあるって。わたしだって、別れたら一松のストーカーしてやるって思ってた」

 なまえが一松の前ではきれいな部分ばかりを見せていたことに、鈍い一松でも気づきはじめていた。だから兄弟は、なまえを美化しすぎているとからかったのだ。
 裏を返せばそれは、なまえは自分にだけ特別な顔を見せていたということだ。少しでも着飾りたいと思ってくれていたのだ。

「一松、わたしのこと好きって言って」
「すき」

 一松は、今度こそためらわなかった。なまえが、一松の告白を、同情ではなく本心だと受け入れる。
 なまえが、目をつむって顔をあげた。さすがにその意味がわからない一松ではない。やわらかい肌がふれているだけで一松の小さなキャパシティは限界を越えようとしているのに、さらに自分からキスをするのは爆死するようなものだった。だが、ここで断ればなまえが傷つく。

 果敢にも小刻みに顔の角度を調整しながら近づいた一松だったが、さすがにこの場面では最終手段としての脱糞は使えず、間近で見るなまえの顔があまりに可愛いことに耐え切れなくなり、結局は鼻血をだして倒れたのだった。
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