翌日起きたなまえは申し訳ないと何度も謝ったが、誰もなまえを責めなかった。数時間で起こすとは言っていたものの、誰も起こす気などなかったからだ。
 起きてきたなまえはきちんと着替えている。もうパーカーを着ていないことが残念だったが、なまえと同じ空間にいるだけで幸せなチョロ松はいそいそとお茶をすすめた。

「ありがとうございます。本当になんとお詫びをしたらいいか。すぐにおいとまいたします。もし明日お時間があるようでしたら、改めてお詫びとお礼に伺わせていただきます」
「気にしないでいい。起こさなかったのはこっちだ」

 松造が笑って流し、ちゃぶ台に座ったなまえの前に、松代が食事をおいた。

「お腹がすいてるでしょう。お詫びはいらないけど、そうねえ、明日また来るくらいなら夕食の準備を手伝ってくれないかしら」

 なまえは目を伏せ、恥を承知の上で打ち明けた。

「お料理はできないんです。お洗濯やお掃除などは最低限出来ると思いますが、お力になれず申し訳ありません」

 落ち込んでしまったなまえに食事をすすめた松代は、失礼にならない程度になまえを見つめた。
 服装は品があり、ミニスカートなどはいたことがないような印象を受けた。髪もきれいにまとめられていて、ちゃぶ台に正座している背筋は伸びている。言葉遣いもていねいで、親のしつけが良かったことがにじみ出ていた。

 六つ子とその両親に注目されながら食事を終えたなまえは、きちんと手を合わせて「ごちそうさまでした」と言い、松代に食事の感想を述べ、食器を下げた。
 洗ってもいいか確認をしてからスポンジを手にとったなまえは、松野家のやり方に従って食器をふいて食器棚にしまい、チョロ松に手招きされて横に座った。

 松代の目が光る。明らかにいいところの娘というなまえだったが、なにもせず逃す手はない。

「一人暮らしをしているんですってね。いつも外食なの? うちのニートたちなんて仕事どころか家事もなにも手伝わないし、一日中ごろごろしてるだけなのよ。ちゃんと一人暮らしをしていてえらいわねえ」
「わたしの家が、家事は人を雇ってしてもらうものだという考えだったんです。一人暮らしをするにもずいぶん反対されたんですが、結婚は一人暮らしをしたほうがうまくいくと説得して家を出ました。お掃除やお洗濯はしないと生活できないから何とかできるようになったんですけど、お料理だけは……。あ、結婚をする予定はないんですけども、父と母はいつか結婚するものと思っていたようですので、そこから一人暮らしする理由をこじつけました」

 そこまで語ったなまえは、ひとつ息を吐いてから凛とした空気をまとい、正座したまま深々と頭を下げた。体の向きを変え、横にいたチョロ松にも頭を下げる。

「本当にいくら感謝しても足りません。昨日チョロ松さんが来てくれなかったら、きっと既成事実を作られて結婚させられていたでしょう。皆様がここに泊めてくださらなければ、父や母から合鍵をもらった男がマンションに来ていたかもしれません。本当にありがとうございました」

 既成事実という単語に驚いたチョロ松は、ストーカーまがいな行動をしてよかったと、昨日の自分を心から褒め称えた。もしそんなことになっていれば、なまえが突然退職しても理由がわからないまま、もう二度と会うことはなかっただろう。
 顔をあげたなまえは、自分の身の上を話すかためらったが、もしこの家族になにか降りかかったらと考えて口を開いた。

「わたしの父と母は、女は嫁いで子を成すことこそが幸せだと信じていて、わたしもそのように教育されました。でも、昨日気づいたんです。ささやかな抵抗で一人暮らしをし、お見合いを断り、結婚適齢期をすぎても独り身を貫いてきましたが、これは自立などではありませんでした。まだ父と母に縛られています。だから、わたしは自分がしたかったことをしようと思います。もし父と母になにかされたら、わたしに連絡をしてください。両親を止めてみせます。自分の道を探すという選択があると気づかせてくれて、ありがとうございます」

 自分の言葉遣いが松野家にはふさわしくないと感じていたなまえは、顔をあげて意外とこどもっぽく笑い、場を和ませるように声のトーンを上げる。

「とはいっても、諦めていた職業にいまから挑戦するので、いつ叶うかわかりませんが。もう子供じゃないんだし、転職するにも旅行するにも親の許可なんて必要ないですよね。松代さんのおいしいご飯で食事の大切さを知ったので、これを機に自炊も始めてみようかと思います」

 チョロ松はなまえがまぶしく見えた。
 長いあいだ迷って悩んでいたなまえが、自分の前に道はなくすべて自由に決めていいのだとわかったときの、人生を楽しみはじめた輝きは鮮烈だった。
 それに比べてようやくフリじゃなく本腰を入れて就活をはじめただけの、毎日シコシコスキーをしている自分はどうだ。なまえの家はお金持ちのようだし、アイドルオタクでニートの自分と明らかに釣り合わない。

 いつものチョロ松なら、卑屈になりそれを自覚していながら気付いていないふりをして、就職関連のフリーペーパーを眺めているだけだっただろう。
 だが、変わろうと思った。変わらなければいけないと強く願った。

「僕もがんばるよ。一緒にがんばろう。君ほどじゃないだろうけど、僕もそれなりの会社に就職してみせるよ。だから何かあったら相談してほしい。僕じゃ頼りないかもしれないけど」

 なまえがはじめて見た、自然な笑顔のチョロ松だった。
 いつものようにどこか緊張したような顔ではなく、隙さえあれば浮かび上がろうとする自意識はきちんと心の中におさまっていて、なまえを見る目には優しく愛をたたえている。

 なまえの頬がぽうっと染まった。
 数ヶ月かけてチョロ松と打ち解けてきたなまえは、チョロ松を男だと認識している。それがどういう意味か恋愛に疎いなまえはすぐにはわからなかったが、昨日からチョロ松がかっこよく見えることだけはすんなりと受け入れていた。
 頷くなまえを見て、松代が名案だというように手を叩く。

「じゃあ、毎日うちにご飯を食べにいらっしゃいな。まだストーカーのことが心配だし、外食ばかりのあなたの体も心配だわ。その代わりというわけでもないけど、チョロ松のことをよろしくね」
「母さん!」

 恥ずかしさから、ぶしつけな母親の発言を咎めるような口調でさえぎったチョロ松は、おずおずとなまえの様子を伺う。これで嫌な顔をしていたら立ち直れなかったが、なまえは気づいていないようで自信たっぷりな顔で頷いていた。

「もちろんです。チョロ松さんの就職が決まるまでは今の職場にいますから、お任せください。チョロ松さんは面接にも慣れてきましたし、きっとすぐに就職できますよ」

 それからなまえは、松代の申し出は嬉しいが毎日来られると迷惑だろうと固辞しようとしたが、松野家全員で引き止められた。せめて月始めに一ヶ月分の食費を渡し何か家事を手伝うとなまえが言い出し、そこから畳みかけられ半ば強引に毎日松野家へ来ることとなった。
 まさか兄弟全員が自分の恋を応援し協力してくれると思っていなかったチョロ松は感激のあまり涙ぐんだが、おそ松の「たまにチョロ松になるからさ、オレにも貸してよ」という発言に、顔に思いきり拳をめり込ませることになったのだった。


 それからなまえは毎日職場に迎えに来るチョロ松と一緒に松野家へ行き、夕食を食べた。
 せめて後片付けくらいはさせてほしいと頼んだなまえは、毎日食器を洗ってテーブルを拭く。六つ子の名前を覚え区別ができるようになり、チョロ松に家まで送ってもらうことが日常となったころ、なまえは静かに報告した。

「お見合い相手との話がすみました。ご心配をおかけしました。もうお互い会うこともありません。その節は本当にありがとうございました」

 暦の上では春になっているがまだ肌寒い三月のことだった。
 なまえに関しては心配症なチョロ松は詳細を尋ねたが、なまえは首を振るだけで答えなかった。詳しく聞きたかったが、これでなまえがもう怯えることがないのだと思うと、もう終わったという事実だけで心が安らかになる。なまえも目を瞑って、安堵の微笑をもらした。

 そしてそのまま体調を崩した。


 チョロ松がなまえの体調不良に気づいたのは、翌日のことだった。
 定時をかなり過ぎても、なまえが職場から出てこない。チョロ松は携帯電話を持っておらず、すぐに確認できないのがもどかしかった。
 心配のあまり遅くに出てきた職員に尋ねると、毎日定位置で待っているチョロ松の顔を覚えていたらしく、なまえは体調不良で欠席だと教えてくれた。

 チョロ松の顔が青ざめる。なまえが努力家なことは知っていたが、自分も兄弟もそうではないため、なまえがどれほど張りつめて遅くまで勉強しているか、知ってはいたが実感はしていなかった。
 慌ててなまえのマンションまで行き、エントランスでなまえの部屋の番号を押して呼び出す。こういうとき、オートロックのマンションがいかにもどかしいかをようやく知った。
 ここでなまえに自動ドアを開けてもらい、さらに部屋のドアの鍵をあけてもらわなければなまえに会えないのだ。
 呼び出して数秒後、ようやくなまえの声がした。かすれていて、聞くだけで熱があるとわかる。

「チョロ松だけど、さっき君の職場の人に休みだって教えてもらって来たんだ。熱あるの? 病院は行った?」

 チョロ松の声は、インターホン越しでもよく聞こえる。熱でぼんやりした頭にすんなりと入ってきて、なまえはようやく今が夜に近い時間なのだと知った。

「来てくれてありがとうございます。嬉しいんだけど、熱がうつるかもしれないから、チョロ松さんは帰ったほうがいいと思う」
「なに言ってるの、僕ニートだよ。風邪がうつっても別にいいよ。入ってほしくないならここで帰るけど、家から冷えピタとか持ってくるから、それだけは受け取ってほしい」

 なまえは悩んだすえ、せめてひと目でいいから顔を見て容態を把握したいというチョロ松の熱意に負け、エントランスのドアを開けた。
 エレベーターの前で右足の爪先をせわしなく床に叩きつけながら、ようやく来たエレベーターに飛び乗ってなまえの部屋まで走ったチョロ松は、ドアを開けたなまえの顔色が想像以上に悪いことに絶句した。
 パジャマ姿のなまえは、いつもは綺麗に束ねてある髪をおろし、息をすることすらつらいように立っていて、顔は真っ青だった。

「ごめんなさいこんな姿で。家は綺麗なつもりなんだけど、手が行き届いていなくて」
「そんなこといいよ」

 噛み付くように言ってしまったチョロ松は、乱暴にも見える仕草で首をふる。こんな状態なのに他人に接しているようななまえの口調に、頭がかっとなってしまった。

 なまえとチョロ松は他人だが、友人より近く家族よりは遠い、そんな関係だと思っていた。松野家の洗濯物が山盛りになった洗濯カゴすら見慣れているなまえが、こんなときに部屋が汚いなどと他人行儀になるのが許せなかった。

「掃除くらい僕がするし、ベッドで横になっててよ」
「チョロ松さんにそんなことさせるわけには」
「いいから早く。病院は行った? 熱はあるの?」
「夜になっても体調が悪かったら、明日病院に行こうと思って。熱はそこまで高くはないから」

 チョロ松はいつになく強引で、反論も聞かずなまえをベッドに押し込めた。
 女らしい白や淡いグリーンで統一された部屋を見てようやくなまえの部屋に来るのがはじめてだということに気づいたが、そんなことを気にしている余裕はない。
 なまえに水を飲ませ、洗い物をし、さすがに洗濯はできないからどこかで着替えを買おうと時計を見たとき、なまえの弱々しい声がチョロ松の心臓を鷲掴みにした。ストーカーを撃退したときも聞いたことのない、内面をさらけだす声だった。

「チョロ松さんにこんなことをさせて、ごめんなさい。もう帰りますか?」

 それがいかにも帰ってほしくない風邪独特の弱気を含んでいたものだから、チョロ松の頭は爆発しそうだった。
 こんなふうに呼び止められるなど、誰かに必要とされることなどあった記憶はない。しかもそれを言ったのは想い人だ。
 釣り合わないと自覚しながら、それでもなまえの凛とした強さに憧れて、内面を知って守りたいと思った、ただひとりの人なのだ。

「一度帰って、母さんに頼んでおかゆを作ってもらうよ。必要なものも買ってくるからね。うちは騒がしいからここにいたほうが休めると思うけど、熱が高くなったりさみしくなったら、問答無用で連れて行くから」

 チョロ松が強引になるのは、いつだって手を差し伸べてほしいときだ。
 自分の気持ちを抑えこんでしまうなまえの性格を熟知して先回りしているような優しさは、はじめて異性に守られる心強さとともになまえに染み込む。なまえの危機にいてくれるのは、チョロ松なのだ。
 なまえは布団を顔まで引っぱりあげ、初めてのわがままを舌にのせる。

「はやく、帰ってきてくれますか?」

 チョロ松に慣れて、ようやく打ち解けたなまえが照れているのがわかった。
 チョロ松はくちびるを噛みしめる。萌えとは、なんて唐突に抗いきれない大きな波となって理性をさらおうとするのだろうか。
 くちびるを噛みしめたまま返事をしたチョロ松は、赤くなった顔を見られないように足早に部屋をあとにした。こうなったら、一刻でも早く帰らなければならない。

 走って帰ってきたチョロ松により、なまえの体調不良は数秒で知れ渡った。松代がうどんを茹でるだけで食べられるように出汁をとって味付けし、おかゆを作っているあいだに、チョロ松が近くの店へ走ってパジャマなどを購入する。
 松代がいざというときのために購入しておいた女性下着のストックを三つと、清潔なタオルをバッグにつめ、チョロ松に持たせる。
 急いで戻ったチョロ松はいそいそとなまえの部屋へおじゃまし、家事をやったことがないとすぐわかるたどたどしい手つきで看病する。そして、その晩は帰ってこなかった。


 疲れから体調を崩したなまえは一週間かけて回復し、そのあいだチョロ松はつきっきりでなまえの看病をした。松野家には夜帰ってくる程度のチョロ松は童貞卒業が疑われたが、あまりにもいつものチョロ松すぎて、三日ほどで誰もがそのことについて興味をなくしてしまった。
 実際、チョロ松は童貞を貫いていた。それがなまえがさらにチョロ松を信頼する結果になったことを知っているのは、なまえだけだ。

 一週間たち、熱が下がったなまえは、休日の昼すぎに菓子折りを持って松野家を訪れて玄関で深々と頭を下げた。

「長い間ご心配をおかけいたしましたが、おかげさまで順調に回復し、来週から出社できるようになりました。いろいろと助けていただき、ありがとうございました」

 相変わらず挨拶だけはきちっとするなまえは、ここからが本題だと、さらに頭を下げた。

「一週間前、大事なご子息を外泊させてしまい、申し訳ありませんでした。チョロ松さんがいてくれることに安心しきって眠ってしまい、気づくのが翌朝になってしまったこと、本当に申し訳ありません」

 全員があっけにとられた。
 まさかいい歳したニートが外泊した程度でこれほど謝るとは、誰も思っていなかった。チョロ松がなまえの両親に謝るのならまだわからなくもないが、今回のことでなまえが謝ることはなにもない。
 松代がなまえの頭を上げさせて笑い飛ばす。

「いいのよ、高校生とかならともかく、いまはもうこんな歳なのよ。気にすることないわ」
「でも、結婚前ですし。それに、毎晩六人で寝ていたと聞いています。きっとチョロ松さんがいなくて寂しかったのではないかと」

 松代と松造は顔を見合わせた。なまえが奥ゆかしいのは知っていたが、まさかここまでとは。

「じゃあ、責任をとってちょうだいな」

 笑って場を和ませようとした松代の目論見は外れた。
 顔を真っ赤にさせたなまえは、目をせわしなく動かす。泣きそうなほど目を潤ませ、ちいさな声で包み隠していた本音をこぼした。

「そんな、わたしなんかにチョロ松さんはもったいないです。チョロ松さんにはもっといい人がいます」

 男を見せるときだった。

 チョロ松が菓子折りを松造に押しつけ、なまえの手首をひいて家を出ていく。
 なまえにふれたのは初めてだった。看病のときもふれないように細心の注意を払っていたチョロ松は、なまえの手首の細さを知った。

 自分の恋はもう知られていると思っていた。これだけ足繁くハローワークに通い、毎日送り迎えをし、看病までした。どう考えたって下心や恋心があると考えるのが普通で、あとはなまえからの返事待ちだと思っていた。だが、違った。

 なまえといても安心はしないだろう。劣等感に苛まれ、自分に失望して落ち込むだろう。相手からの告白を待つという、ノーリスクでいい思いをしようという考えは、心から焦がれる恋においては吹き飛ぶことを知った。
 気持ちは言葉にしないと伝わらない。勝算があろうとなかろうと、ここまできたらもう気持ちを伝えるしかなかった。

 はじめてチョロ松にふれられ、家をあとにしたなまえは、ようやく混乱がおさまってきた。もう見慣れた住宅街を照らす太陽が、あたたかく背中を支える。
 突然立ち止まったチョロ松にどうしたのか尋ねようとしたなまえのひとみに映ったのは、さきほどのなまえに負けないくらい真っ赤になったチョロ松だった。

「好きなんだけど」

 前置きなど一切ない、飾り気のない率直な告白だった。

「きみのこと好きなんだけど、きみは僕のことどう思ってるの?」

 突然のことになまえは驚き、心臓が耳の横にきたような感覚におちいった。体中が脈打って熱く、感覚は耳と掴まれた手首に集中し、それ以外の部分はなくなってしまったように思える。
 チョロ松が緊張しきった顔で、なまえから目をそらさずに返事を待つ。チョロ松はなにも言わなかった。自分を売り込んだり、言い訳をしたりしなかった。

「……それって、結婚するということですか?」

 なまえが男女のお付き合いにたいしては古い考えを持っているということを、今の今までチョロ松は忘れていた。
 突然の結婚という発言に驚き、無職や不釣り合いという単語が頭を回るが、なまえの可愛さには勝てなかった。顔を赤く染め上げ、上目遣いで嬉しいと言わんばかりの表情で見上げられ、体中が愛しいという思いで埋め尽くされる。

「もちろん。結婚しよう」

 チョロ松のはっきりとした返事に、なまえの顔が輝く。潤んだひとみでチョロ松を見つめ、はしたないと思われないかとすこしばかり怯えながら、細く白い指をチョロ松の指に絡ませる。
 こうしてチョロ松は、図らずも孫保証という道を一番に乗り出した。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -