宣言通り、チョロ松は一週間に二度はハローワークを訪れた。
窓口をなまえで指名しているので待つ時間が長くなることもあったが、その時間すら至福に思える。
なまえはチョロ松のやる気をうまく引き出し、面接しては落とされるチョロ松を励ました。
ニートを満喫していた時間は会社にとって好ましくなく、面接官に長い空白の期間に何 をしていたか聞かれて言いよどんでしまうと、たいていすぐにお断りの書類がくる。それが足繁くハローワークへ通える理由になっていたので、チョロ松は落とされてもそこまで気にしていなかった。
数ヶ月もするとなまえもだいぶ打ち解け、すこしばかり笑うようになった。それがまたチョロ松の心を簡単に鷲掴み、蹂躙し、なまえの色に染め上げることを、なまえは知らない。女に慣れていないチョロ松は、名前のとおりチョロかったのだ。
女に慣れていないチョロ松もなまえには慣れて緊張することがなくなったころ、チョロ松にひとつ心配なことができた。なまえの顔色が悪いのだ。顔や体も、細くなったというよりは痩せこけた印象を受ける。
暑ければ夏バテだと思うのだが、いまは冬でコートが手放せない季節になっている。窓口でチョロ松と話しているときも物音に敏感に反応し、どこか怯えたような顔をする。
チョロ松がいくら聞いてもなにも言わず、チョロ松の就職だけが気がかりだという姿勢を貫くなまえは、凛としていたが脆く感じた。なまえが、チョロ松を仕事で接する相手としか見ていないのはわかっていた。それでもなまえを助けたかった。
なまえが仕事場から出てきたのは、ハローワークの入口が閉まってから一時間半後のことだった。もう日が落ちて数時間たっているため昼間のわずかなあたたかさは消え失せ、体を芯から冷やすような寒さが忍び寄ってきている。
次々とでてくる職員のなかになまえがいないことを確認していたチョロ松は、ようやく出てきたなまえに声をかけるべきか迷った。
いくらなまえのことが心配だったとはいえ、約束もしていないのに明日から休日であるなまえの仕事が終わるのを待っているなんて、完全にストーカーだ。
なまえがチョロ松に気づき、驚いて顔を上げる。チョロ松はできるだけ平静を装いながら、用意していた言い訳を舌に乗せた。
「ちょっと人と会う用事があって、ここで待ち合わせしてたんです。いま終わりなんですね」
「あ、はい。待ち合わせの相手、はやく来るといいですね」
「それがさっきドタキャンされちゃって。だからその、最近元気ないですね」
あまりに下手な切り出し方だった。
チョロ松となまえのあいだに沈黙が横たわり、存在を主張する。やっちまったと頭を抱えたいチョロ松の耳に入ってきたのは、ふと恐ろしい事実に気づいたような、怯えたなまえの声だった。
「ここで誰かに会いましたか? 職員じゃなく、誰かを待っているような男に」
「いえ、会いませんでしたけど」
「じゃあ早く帰ったほうがいいです。たぶん、できるだけ早く」
「もしかして彼氏ですか?」
想定していなかった事態にショックを受けながら尋ねたチョロ松に、なまえは勢いよく首を振った。いつも綺麗に束ねている髪が乱れるのも気にせずチョロ松を見上げた顔には、怯えがはっきりと刻まれている。
チョロ松の顔つきが変わる。これは彼氏に自分を会わせたくないだとか、職場で恋愛が禁止されているだとか、そういった類のものではない。なまえが心底恐怖するなにかがいまから歩いてくるのだ。
チョロ松が身構えたのが伝わったように、路地の闇から男が姿を現した。男はよくプレスされたスラックスにコートという服装で、なまえより十は年上に見えた。
どこにでもいる中肉中背の男がいたって普通に出てきたことに、チョロ松の体を緊張が駆け抜ける。この闇の中、自分のことを話していたとわかっていながら笑いながら出てくるのは、どう考えても普通の人間ではない。
チョロ松はなまえを守るように前に立ち、男となまえのあいだに自分の体を入れた。男から目を離さずに、小声でなまえに話しかける。
「怯えていたのはあの男のせいですか? あいつは誰です」
「たぶん、お見合い相手です。母と相手のご家庭が乗り気で、わたしとあの人を結婚させようとしていたんです。断ったんですが、向こうは断られると思っていなかったみたいで、その直後から見かけるようになったんです。声はかけられたことはないし見られているだけで実害はなくて、写真で一度見ただけの人か確信が持てないうちに、いつの間にかこういうことに」
「いつの間にかって、絶対なにか兆候あったでしょ」
「やたらマンションのインターホンを鳴らされたり、変な手紙が入っていたり、そういうことはありましたが」
「それストーカー!」
チョロ松がツッコミを入れると、数メートルのところまで近づいていた男が首を振った。
「まさか、ストーカーなんてことは。僕とその人は結婚するんだから、妻のことをよく知りたいと思うのは当然でしょう」
「結婚なんてしません。お断りしました」
「女から断るなんて恥知らずな。そんなこと無効ですよ」
なまえが毅然と言い返すものの、男は妻のヒステリーを受け止めるのは夫の役目だと言わんばかりに受け流した。こんな性格だからいままで結婚できなかったのだと、チョロ松が自分のことは棚に上げて思いながら、なまえを守るために相手を見据える。
「あいつ、ぶっ飛ばしていいんですか」
「いいです」
即答だった。
チョロ松は、自分が最も動きやすい位置に重心を落とした。背負っているリュックが邪魔にならない重さであることと、ジーンズとチェックのシャツが動きを制限しないことを確認する。
男は油断していた。
喧嘩などしたことがないようなチョロ松が、柔道をかじっている自分に勝てるはずがないと油断した。
チョロ松はその隙を見逃さず素早く動き、男のみぞおちを抉るように下から拳をめり込ませた。体を折り曲げて突然の苦痛にもがく男の髪を掴み、膝で顔面に蹴りを入れる。
地面に倒れこみ、鼻血を出してのたうちまわる男の股間をトドメとばかりに踏みつけたチョロ松は息も乱れておらず、いつもなまえと話す顔で振り返った。
「血とか飛んでないですか?」
突然のことで、まだ一連の流れを飲み込めていないなまえが頷く。安心させるように笑ったチョロ松は、男の荷物をあさり免許証と保険証を取り出した。
「これ預かっておくから。今度彼女の前に姿を現したら、これヤクザにあげるからね。ストーカーの証拠もたまってるし、なまえさんの半径100キロ以内に入らないだけで身の安全が保証されるんだから簡単でしょ。いつまでも呻いてないでさっさと姿を消しなよ」
チョロ松は兄弟のなかでは喧嘩が強いとは言えなかったが、同じ年齢のたいていの男よりは強かった。兄弟が五人もいれば揉めることは日常茶飯事で、拳が出ることも当たり前だった。
いまではそんな喧嘩は頻繁にしなくなったものの、本気の殴り合いだって何度もしたことがある。すぐ騒ぎを起こし事件に巻き込まれる兄弟のおかげで、ある程度は喧嘩慣れしていた。
男はよろよろと立ち上がりチョロ松を恨めしそうに見たが、自分が満足に動けないことに気づき、なにも言わず暗闇の中へ消えていった。
数分たって男が戻ってこないことを確認したなまえは、ようやく自分の脚が震えていることに気づいた。
「ごめん、怖いところを見せちゃって。大丈夫?」
チョロ松が敬語ではなくなっていることにふたりは気づかなかった。
今はそんなことはどうでもよく、チョロ松は震えるなまえをいつでも支えられるように腕を伸ばす。それでもなまえの体にふれないのは、たったいま男に怖い思いをさせられたなまえへの気遣いであり、フォークダンスくらいでしか異性の体にふれたことのない童貞ゆえの尻込みだった。
「ありがとうございます。助かりました。松野さんが復讐されないといいんですが」
心底申し訳ないと謝るなまえの顔を上げさせ、チョロ松は笑った。
あの程度の男が来てもいつでも返り討ちにできるし、なにがあっても五人の兄弟がいてくれれば何にも負けることはないとチョロ松は確信していた。
「ずっと思ってたんだけど、僕のことチョロ松って呼んでくれませんか? 兄弟が多くて、学校でもどこでも名字で呼ばれることがなかったから慣れなくて」
「チョロ松さん、ですか」
「もちろん嫌だったらいいんだけど、窓口で松野さんって呼ばれてもなかなか気づけないんだ。だから良かったらってやつで、気が乗らなかったらもちろん無視してくれていいんです」
早口でまくし立てたチョロ松は、まだなまえが震えていることに気づき、元から下がっていた眉をさらに下げた。
このままなまえを家まで送り届けようとも思ったが、なまえをひとりにするのは心配だった。もしかしたら家を知っているあの男が来るかもしれないし、何もなくてもひとりきりは怖いに違いない。
「友達とか近くにいる?」
「いえ、みんな嫁いでしまって……」
「じゃあ、よかったら、僕の家に来ない? 家っていっても実家だから父さんと母さんがいるし、兄弟もたくさんいる。もしあの男が来ても、僕より強い兄弟ばっかりだからすぐに返り討ちにできる。誰だって、こんなことがあったあとひとりは怖いからね。だから家に帰って、一緒にご飯を食べよう」
なまえのためらう気持ちが、冬の澄んだ冷たい空気に混じってチョロ松に伝わった。
行きたくないわけではなく、チョロ松やその家族に迷惑なのではという気持ちの揺れが痛いほどわかり、彼女はチョロ松が考えているより気高く自立しているのだと知った。
「いいから行こう。不安だったらスマホ出して、いつでも警察に電話できるようにしておいて」
チョロ松が二歩進んで振り返る。チョロ松の優しさからくる強引さが、いまのなまえにはちょうどよかった。
なまえの気持ちを知ってわざとそうしているとしか思えない、普段のチョロ松からは考えられない行動が体に染みていく。
チョロ松を信じていいのかと考える前に脚は動いていた。この窮地からヒーローのように助けてくれたチョロ松を疑うことなど、初めからなかったのだ。
数十分歩いて慣れ親しんだ家につくと、チョロ松は玄関に手をかけて振り返った。
「実は僕、六つ子なんだ。驚くかもしれないけど、みんなニートでクズなんだよ。隠しててごめん」
玄関を開けると、ほわっとしたあたたかさと賑やかな話し声が聞こえてきた。ちょうど夕飯の時間で、いいにおいが漂ってくる。
チョロ松が声をかけると十四松が居間から顔を覗かせ、おかえりと言う前に停止した。数秒たっていつもより大きな声が松野家を揺らす。
「チョロ松兄さんが彼女連れて帰ってきた!」
途端に足音が響き、兄弟ばかりか松代と松造まで玄関に転がりでてきて、なまえが幻じゃないかとっくりと見つめた。なまえが幻ではなく、二次元の住人でもないことを確認しているあいだに、チョロ松が簡単になまえを連れてきた理由を説明した。
物珍しくあますことなくなまえを見ようとしていた雰囲気が、やわらかく包み込むものに変わる。松造が一歩踏み出した。
「よくやったチョロ松。そいつをぶっ飛ばしたんだな」
「うん。警察には突き出してないけど、たぶんもう来ないと思う。世間体を気にするタイプみたいだったし」
松造はなまえに名前を尋ねたあと、笑顔で両手を広げた。
「それは怖かっただろう。さ、入りなさい。あたたかいものを食べて、ゆっくりお風呂に浸かって、ぐっすり眠るのが一番だ。よく頑張った」
歓迎する両手の向こうに、なまえが靴を脱ぐのを笑顔で待っている五つの同じ顔と、スリッパを用意する松代がいた。
久しぶりに人のあたたかさにふれ、ぬくもりがある家に足を踏み入れたなまえは、息を吸うことすら出来ないような恐怖からようやく解放された。なにか言おうと思ったが口を開けば涙が出そうで、黙って深く頭を下げた。
なまえはチョロ松に案内されて居間に通された。畳の上に使い込まれたちゃぶ台と、その横の台所にはテーブルクロスがかけられたダイニングテーブルがある。
どうすればいいのか振り返ったなまえを、チョロ松がちゃぶ台に案内した。六つ子がいつものようにちゃぶ台に座り、チョロ松と十四松にかこまれたなまえは、出されたお茶をすすった。
あたたかいお茶がゆっくりと喉を潤して流れ落ちていき、なまえの体から緊張が抜けていくのを見た松代は、出来上がったばかりの料理をお皿へ取り分けた。
「さあ、夕食よ。運んでちょうだいニートたち」
なまえは慌てて立ち上がり、松造と松代に向かって深々と頭を下げた。
「夕食の時間に突然おじゃましてしまって申し訳ありません。混乱していたとはいえこんな時間に、手土産もなく押しかけるなんて非常識でした。後日改めてお詫びに伺いますので、今回はこれでおいとまいたします」
松野家で使われたことのない丁寧な言葉と姿勢に、夕食を食べていくものと決め付けていた面々は驚いたが、松代だけはほがらかに笑ってみそ汁をお盆に並べる。
「引き止めたのはこちらなんだから、気にしなくていいのよ。それでも悪いと思うなら、ぜひ夕飯を食べていって。そのあとニートたちと銭湯に行って、仮眠して帰ってちょうだいな。わたしたちは、家に帰ってもろくに眠れないとわかっているうら若いお嬢さんを放り出せるほど悪人じゃないって、行動で示させて。そうしないと、今日はきっと眠れないから」
松代は本心で言ったが、こうまでして強気に出るのはチョロ松のためだった。なまえを気遣う声や、ささいな変化に気づけるよう追う目には、たしかに恋慕が宿っている。
家に帰れば怯えるとわかりきっているなまえを帰らせるよりも、ここで少しでも眠って気力を回復させ、あわよくばチョロ松と仲を深めて帰ってほしかった。
なまえの前にも、炊きたてのご飯、みそ汁、お漬物、焼き魚に煮浸しといった、みんなと同じ食事が並べられる。
松代にここまで言われては帰れないと、なまえはもう一度お礼を言った。笑って頷いた松造が声をかけ、予定よりすこしばかり遅い夕食がはじまる。
いつも外食でこんな食事は久々だったなまえは、ひとくちひとくち噛みしめるように食べ、お世辞ではなく本心で松代の料理を褒めた。
食事が終わってしばらくすると、もう銭湯に行く時間だった。トド松が予備のシャンプーや洗顔料、化粧水などを貸し、まだ遠慮しようとするなまえを十四松が引っ張る。
ここまでくると、もうみんななまえが恐怖を押し殺してなにもなかったような顔ができる人物だと気づいていた。
松代が化粧落としをなまえに渡し、申し訳なさそうにチョロ松のパーカーとジャージを差し出す。
「ごめんなさいねえ、新品の服がなくて。きれいに洗ってあるけど、チョロ松のでもいいかしら。引き止めたのはこっちなんだから、もう少しいいのを貸してあげたかったんだけど」
「十分です、ありがとうございます。チョロ松さん、お借りしてもいいですか?」
チョロ松は何度も頷いた。うしろで一松がぼそりと「彼シャツ」とつぶやいたのを、チョロ松は聞き逃さなかった。
こんな夢みたいな状況を断るなどあるはずがない。
六つ子と一緒に家を出たなまえは、並んだチョロ松といろいろ話しながら、下着を買うために途中のコンビニに寄った。
兄弟がコンビニに入るのを命懸けで阻止したチョロ松の死闘は、出てきたなまえが道路に転がる五人に驚いた声で終了した。
チョロ松の下手な言い訳を聞きながら、なまえは起き上がった五人と銭湯へ行き、ゆっくりと広い湯船に浸かり、松野家の客間で仮眠をとる。
一ヶ月ほど恐怖でろくに眠れなかったなまえは、翌日の夕方までぐっすりと眠りつづけた。