松野チョロ松の気分は、ここ数年のなかで一番最悪だった。

 六つ子のなかで自分を唯一の常識人とし、いつかは家を出ると豪語しているチョロ松にとって、ハローワークは来なければならない場所のひとつだった。六人で来たときにひとまず登録したはいいものの、窓口で職員との簡単なやり取りしかしたことのないチョロ松は、改めてひとりで来ると何をすればいいかまったくわからなかった。

 ハローワークに入って真っ先に目に付いた総合受付で流れを聞き、窓口へ行ったチョロ松は自意識ライジングを掲げた。さすがに就職に関係ある覚えたての英単語を並べることはなかったが、それでも話す調子は変わらない。
 チョロ松の担当になったのはチョロ松よりすこしばかり年上で、生真面目でかたい印象の女性だった。冗談が通じないようなくちびるは、話すとき以外は引き結ばれている。
 チョロ松が求人を印刷した数枚の紙を差し出すと、なまえはざっと目を通してチョロ松を見つめた。

「就職活動をする場合、同時にできるのは二件までなので、まずこのうちのどれに応募するか決めてください」
「わかりました。これでもかなり絞ったんですが、もしこれよりいい条件の求人があったら教えてほしいんですけど」
「調べるのは基本的にご自身でお願いしているので、もしこの条件でご不満があるなら、無理に応募せずもう一度探したほうがいいと思います。求人は毎日新しいものがきますので」

 なまえの冷たくも聞こえる感情のない声に、チョロ松のなかに不安や申し訳ない気持ちではなく、怒りが湧き上がってくる。
 調べてくれてもいいだろうという考えが甘いことはわかっているので、チョロ松はなにも言わずにジト目で机を見た。口を開くと、いままで就職も受験もせずぬくぬくとニートで育ってきたツケが出てしまいそうだった。

「松野さんの場合、高校を卒業してからいままでの職歴が空白なので、面接でうまく説明しないと書類で落とされる可能性があります。就職活動も初めてとのことですので、まずはたくさん応募して慣れていくのがいいでしょう。どうしても受かりたいところがあるのなら応募するのはもちろんですが、面接に慣れていない状態では受け答えをスムーズにすることは難しいので、その前にたくさん面接を受けられるのがいいかと」

 なまえの、やることを決めてかかっている言い方に、チョロ松はさらにいらいらとした気持ちを懸命になだめた。
 たしかになまえの言うとおりだったが、チョロ松は本気で就職活動をしているわけではなく、就職活動をしているという事実で安心したいということが目的だったので、淡々と進められるとついていけなかった。

 チョロ松は自分がそういった気持ちでいるとは気付かず、本気で就職したいのだと思い込んでいた。そのズレが余計に苛立たせ、そうなる原因がわからずそれにまたいらついた。
 舌打ちしたいのをこらえて、なまえにならそこまで遠慮しないでいいのではと不機嫌に尋ねる。

「確かに面接には慣れていませんが、やってみないとわからないでしょう。もしかしたら一発で受かるかもしれないし。だからいい求人に応募するのは当然じゃないですか」
「もちろんです。この中から応募されますか?」
「まだ決めていないんです。もっといい求人があればそちらにしますし」
「窓口では、企業と松野さんの橋渡しをします。ですからまず応募する求人を決めてもらわないと、窓口ではなにもできません。すぐに決めてもらえるなら手続きが可能ですが、どうされますか?」

 チョロ松の怒りは頂点に達し、もし応募したいものがあってもなまえには絶対に頼まないと決心して立ち上がった。ぐだぐだと言い訳をされ、結局はなにも進まなかったと思うチョロ松と同様に、淡々と対応していたなまえの我慢も限界だった。

 なまえはハローワークに勤めてそれなりの年数がたっており、たくさんの人とこの窓口で接してきた。
 チョロ松のような、口先だけで本当は就職したくない人間など飽きるほど見てきたし、そういった感情を隠して就職活動をしてまともな企業に受かった話は聞いたことがない。
 いくら辛抱強く、窓口ではなく自身で求人を調べてくれといっても聞き入れてくれず、いい企業に受かって楽をしてお金をもらいたいと透ける思いを語られ、窓口の順番待ちの人が増えていく状況はなまえにとって胃が痛い時間だった。
 自分でも冷たく突き放すような言い方をしていることに気づいてはいたが、チョロ松が席を立ってくれて内心ほっとしていた。


 ハローワークを出たチョロ松は、秋も深まってきて落ち葉が踊る地面を強く踏みしめながら、家の近くの居酒屋へ直行した。冷たい風が服の隙間から忍び寄ってきては体を震わせるのも、余計チョロ松を苛立たせた。
 夕方からあいている居酒屋は開店したばかりで、店員がまだ仕込みをしている。チョロ松以外に客はおらず、カウンター席に座ったチョロ松はビールと適当なつまみを頼んで口をさらにへの字に曲げた。


 そうして怒りがおさまるまで酒を飲み、すっかり日も暮れて店もいつもの賑わいになったころ、チョロ松はようやく落ち着いて自分の言動を思い出すことができた。
 落ち着いてみると、なまえの言い分は正しかった。あれほど怒ったのは図星だったからだ。この歳になって就職活動が初めてで、職歴が高校卒業後真っ白で、それが原因で落とされると言われたから怒ったのだ。
 残った日本酒を飲み干し、酔って赤くなった顔で机に突っ伏すと、なまえの顔が浮かぶ。真顔で淡々と接してきたなまえは、きっと笑ったことや怒ったことなどないのだろう。勝手に決めつけたのは、正論ばかり吐くなまえへのささやかな仕返しだった。

 やっとある程度の心の平穏を取り戻したチョロ松が、代金を払って店を出る。外の寒さに身を震わせ、もう暗くなった道を数分歩いたところで、チョロ松は驚いて立ち止まった。
 チョロ松の目に映っていたのは、さきほどまで想像のなかで憂さ晴らしをしてやっつけていたなまえだった。


 一方のなまえは、まさかチョロ松と会えるとは思っておらず、チョロ松と同じように立ち尽くすことしかできなかった。
 仕事が終わって一息ついたなまえの頭に浮かんだのはチョロ松だった。いくら忙しく後ろがつまっていたとはいえ、あんな言い方をしたのは悪かったと、ずっと心に引っかかっていた。明らかに怒って、もうあなたには頼みませんとだけ言って立ち上がったチョロ松に、最初に向けてくれた笑顔の面影はなかった。
 一人暮らしのなまえは自炊が苦手で、たいてい外食ですませるのだが、今日はいつも行かない場所へ行ってみようと思い立った。一度見ただけだが、チョロ松の住所はおおまかに覚えている。
 こういうことをしてはいけないとわかっていたが、家まで行くわけではないし、チョロ松の家の半径五キロ以内のどこかで食事をするだけだ。チョロ松に会えないのはわかっている。ただ、なにもしないまま家には帰れなかった。

 そんななまえの想いが引き寄せたのか、本当に偶然出会ったふたりは、数メートルの距離で向かい合っていた。衝撃が過ぎ去ったあと、チョロ松は露骨に「しまった」という顔をする。
 気づかないふりはできなくとも、立ち止まらなければ会釈程度で済んだはずだ。こうして立ち止まってお互いじっくり顔を見てしまったあとでは、なにも言わずなにもせず歩き出すことはできない。
 口を開いたのはなまえだった。こんな偶然がおこるとは思っていなかったが、このチャンスを逃すはずもない。

「松野さん、今日はごめんなさい。苛立って冷たくあたってしまったこと、悪いと思ってたんです」

 思いがけない純粋な謝罪にチョロ松がたじろぐ。
 なまえが謝るなんて、あるはずがないと思っていた。謝られただけで驚くほど、なまえのことをなにも知らないのだと、改めて認識させられた思いだった。

「いや、こっちこそごめんなさい。僕もいらいらしていて」
「また来てもらえますか」

 不安そうななまえの顔が、やけに新鮮だった。こんな社会のクズの自分がハローワークに行ったなんて、それだけで笑い者にされそうなのに、なまえはまた自分に会いたいとばかりに聞いてくる。
 たったそれだけでなまえへの好感度がぐんぐん伸びていくところはさすが童貞だった。

「もちろん、また明日行こうと思っていたんです。もしよければ、またあなたに頼んでもいいですか? どれに応募するか決めておくので」
「わたしがしてもいいんですか……? だって」

 なまえが言いよどみ、チョロ松が慌てて二歩進んだ。

「あなたの言い分が正しかったんです。だから、僕が言ったことは気にしないでください」

 なまえが、本心はどこにあるのかと探るようにチョロ松を見て、それからほっとしたように笑った。
 思いがけないあどけない笑みに、チョロ松の心臓は簡単に鷲掴みにされたのだった。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -