十四松との付き合いは順調だった。
毎週なまえの仕事が休みの日にデートをし、ピクニックや野球などこどものような遊びを繰り返す。なまえにとってスマホやネットに関係なくいられる時間は癒されるものだった。
季節が移り変わる。汗ばむ日が多くなってきたある日、なまえがパチンコの前を通りかかると、見覚えのある顔が店から出てきた。
今日は休日だったが、十四松と会う約束はしていない。偶然会えたことが嬉しく、なまえはつまらなそうに頭の後ろで手を組む後ろ姿に声をかけた。
「十四松くん、今日は野球してないの?」
振り返った顔は怪訝な表情をしており、伸ばしかけたなまえの手が止まる。同じ顔をしているが、十四松はなまえにこんな顔を向けたことはない。見慣れたパーカーも黄色ではなく、袖も伸びていない。
これは十四松ではない。
直感が体を電流のように駆け抜け、警戒した顔をみせたなまえに、目の前の男は慣れたように気の抜ける笑みを見せた。
「俺、おそ松。十四松はまだパチンコしてるよ」
「まさかあなた、十四松くんが言ってたお兄さん……? 十四松くんってパチンコするの?」
突然のことに動揺して情報を飲み込めないでいるなまえの前に、次々と同じ顔があらわれる。
「今日は女神が微笑まなかったようだな。自然の恵みが女神へもたらした、人の手の及ばぬそれは」
「カラ松兄さんうるさい。軍資金二千でよくそんなこと言えるね」
「ヒヒっ、勝った」
「たったの三千円だけどな。僕たち全員負けたんだから奢れよ。ビールでいいから」
「ボクも勝ったよ。チョロ松兄さん、飴あげる」
同じ顔が六つ、そのなかに探し求めた顔を見つけ、なまえの口から十四松の名前がこぼれ落ちる。振り返った十四松は、両手をあげ満面の笑みでなまえを歓迎した。
「ぼく、いまおねーさんのこと考えてたんだ! 会えないかなーって。やったあ!」
「俺さっき、十四松と間違えて声かけられたんだよ。十四松、こんなきれいなお姉さんとどこで知り合ったの? 隠し事なんてお兄ちゃんさみしいよ」
「ぼくの彼女」
「え」
五つの声がきれいに揃って、なまえを凝視する。どう反応していいかわからないなまえに寄り添い、注目されることが苦手ななまえをかばって十四松が飛び跳ねる。
「とっても可愛いでしょ。ぼくの彼女、誰もとっちゃだめだからね」
五人が、道行く人が振り返るほどの音量で叫んだのは同時だった。
「いやあまさか十四松に彼女ができるとはねえ。前と反応違ったから気づけなかったわ」
場所が変わって、六人に半ば強制的に連れてこられた松野家の居間で、なまえは緊張しきって正座をしていた。
頼りになるはずの十四松は、なまえを観察することに忙しく動こうとしない兄弟に代わり、お茶をいれに行っていた。見知らぬ人と同じ空間にいることが苦痛である一松もそのあとを追い、台所からは来客用の湯呑みを探す声が聞こえてくる。
「っつかさ、十四松がパチすること知らなかったんだろ」
特になにを込めたわけでもない、いたって普通の声がなまえには恐ろしく感じた。
「そういえば家に電話かかってきた感じもしねぇし、十四松のなにを知ってんの。住所、電話番号、名前、年齢って言えるわけ」
数秒かかって首をふったなまえは、ちいさな声をこぼした。
「年齢は、わたしのほうが上だと思う。十四松くんの前のときって、なに?」
引っかかっていたことをきくと、おそ松はあっけらかんと言い放つ。
「なにって、前の彼女のときだよ。彼女っつーか付き合う前にきれいにお別れしたって感じだけど。あんときの十四松はすげー普通になったしプリクラ握りしめて寝てたから、わかりやすかったんだよな」
なまえの一番やわらかい場所が、針で刺されたように痛んだ。自分とはとったことのないプリクラ、前の彼女とは違う態度。
「中坊じゃねえんだから」
笑いを含んだおそ松の言葉に、なまえの頬がカッと赤くなった。
なまえも、十四松のことをとやかく言える立場ではない。付き合ったことがないという十四松と違い、なまえは短いが恋人というものがいた期間があった。
彼のはやすぎるペースについていけず、キスを拒んで嫌味を言われ振られた、苦い思い出だ。
「いじめないでよ、おそ松兄さん。彼女さん泣きそうじゃん」
「いじめてないよトド松。確認っつーか、あの十四松の彼女だぜ。いろいろ聞きたいじゃん。十四松のどこが好きなの?」
「十四松くんが、十四松くんだから」
考えたすえ、おそ松が納得しそうにない言葉をなんとか絞り出す。
なまえにとって、十四松が十四松であるからこそ、そばにいると息ができるのだ。その感覚を言葉で説明することは難しかった。
おそ松が悪びれず、さらになまえに追い討ちをかけようとした背後から、身震いだけでは済まないほどの寒気が押し寄せてきた。なまえですらわかる異変に、五人は動きをとめる。
おそ松の背後は台所だ。
「おそ松兄さん。ぼくの彼女になにしてるの。ぼく言ったよね。彼女に危害をくわえる者は誰であろうと何であろうと許さないって」
「いやそれは言ってな」
「おそ松兄さん。彼女、泣いてるんだけど」
視線が集中したなまえの目は濡れていない。それを免罪符にしようとしたおそ松の前に湯呑みが置かれた。
ちゃぶ台の上にお茶が滴る。湯呑みが割れてお茶が漏れていることに気づいたおそ松が顔をひきつらせる。
「ようやく笑ってくれるようになったんだよ。泣きたくても泣けないって顔してたのが、本当に笑ってくれるようになったんだよ。ぼく、おねーさんの笑顔大好きなのに。ずっと笑っててほしいのに、どうしてそんなことするの!?」
おそ松が慌てて言い訳をするが、憤慨した十四松には届かない。祝福してくれると思っていたのにどうしてだと叫ばれると、おそ松を止めなかった面々は口をつぐむしかなかった。
「十四松のこと本当にわかってるか聞きたかったんだって。おまえのことわかってねぇやつなら別れちまえって思ったんだよ」
「クソ長男、オブラートに包めや」
チョロ松がつっこみを入れるが、十四松は反応しない。困りきったチョロ松の目にとまったのは、まだ正座したままで、見たことのない十四松の姿とその兄弟の喧嘩に怯えているなまえだった。
こうなればなまえに頼るしかない。
真面目系クズの本領を知らぬ間に発揮したチョロ松が、なまえへ必死にアイコンタクトを送る。数十秒後、なまえはようやく気がついたが、視線の意味がわからずうろたえるだけだった。
目ざとく気づいたのは十四松だ。
「チョロ松兄さん。ぼくの彼女に何をさせようとしてるの?」
「そっんなわけないだろ。ただ、彼女の気持ちを聞いたほうがいいんじゃないかって思ったんだよ。僕たちだって十四松のこと理解できないのに、他人の彼女ができるわけないだろ。十四松の不思議なとこ知らないで付き合ったらびっくりするんじゃないかって心配してたんだよ、なあ」
話を振られて、驚きで体を揺らしたなまえは、ようやくこの場をおさめてほしいと言われていることに気がついた。どう考えても荷が重いそれに、首を振りたくなりながら、何かしゃべらなければいけないプレッシャーに負けて口を開く。
「朝食に食べた魚が生きて耳から出てきたり、花と会話できたり、たまに分身みたいなこと出来る程度しか知らないよ」
「それじゅうぶん知ってるよね!」
思わずというチョロ松のつっこみに、なまえが首をかしげる。
出会って日が浅いなまえが知っている程度のことは、兄弟たちにとっては日常茶飯事なのだと思っていたが、そうではないらしい。
「十四松くんあのね、おそ松くんの言葉にちょっぴり傷ついたけど、それは十四松くんのことなにも知らなかったって気づかされたからだよ。みっともないんだけど、十四松くんのきれいな思い出にも嫉妬しちゃったし」
「ぼくもおねーさんの年齢知らないよ。住所も電話番号も知らないけど、笑うと世界一可愛いって知ってる。ぼく、おねーさんのこと大好き!」
飾り気のない素直な告白に、なまえはこそばゆい感覚を持て余しながら照れる。照れが去ると、残るのは嬉しさだ。
「それって、ぼくがおねーさんのことひとつ知ると、とっても嬉しくなって駆け回りたくなるのと一緒だってことだよね。たくさん知りたいけど、大切にしたいから、いっこいっこ忘れないように大事なとこにしまっておくの」
「うん、一緒」
「だったらダイジョーブ! 知らないことがたくさんあるってことは、お楽しみがたくさんあるってことだよ。おねーさんと出会ってからこんなに毎日楽しくて嬉しくて雲の上を散歩したくなるくらいなのに、まだたくさんの嬉しいが残ってるんだ。宝箱みたいだね!」
「十四松くんは、十四松くんだね」
こんな素敵な考えができる人間を、なまえは十四松のほかに知らなかった。
そしてふと、いまなら聞けるかと、ずっと疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「わたしの名前知ってるのに、どうしてお姉さんって呼ぶの?」
十四松の顔が、服のなかに沈み込んだ。目にも止まらぬ早業に驚くが、服の隙間から覗いてみた十四松の肌が赤かったので、いつもの照れ隠しの新しいバージョンだと理解する。
「それは刺激が強すぎでっしゃろ」
十四松の照れる箇所は相変わらずわからなかったが、十四松を完全に理解できる日など来ないことを知っているなまえは追求しない。
そうして、なんとなくいい雰囲気で終わりそうだと成り行きを見守っている同じ顔を見て、しばし考えたのち、くすりと笑った。このあとの十四松の行動を予測しているのは自分だけで、一歩リードしたような気分になったのだ。
なまえが助けてほしいときに来てくれたのは、十四松だった。台所に行った一松を除いては見ていただけだったのだから、自分も同じことをしていいだろうと、いままで考えたこともない意地の悪い気持ちがわきあがる。
なまえは生まれて初めて、意地悪をする人の気持ちがわかったような気がした。
十四松が先ほどのことを根に持って会話に刺を混ぜるのを、なまえはすっかり冷めたお茶をすすって聞くのだった。