毎日急かされるように生きていたように思う。
スマホのアラームで無理やり目覚めて会社へ行き、上から怒鳴られ、下から恨まれの板挟み。流れに乗せられてインスタを始め、よくわからないままに写真をのせ、いいねで幸せをはかる日々。
履き慣れたぶん、擦り切れたヒール。なまえは疲れていた。疲れていることが自然となったため、体が重いことにも気づかない。
休みなのにいつもどおりの時間に目覚めたなまえは、あくびをひとつして、二度寝ができない程度に目覚めた気だるい体をおこした。会社から連絡があったら気づくようにスマホのマナーモードを解除し、コーヒーを一杯。
ニュースを見ながらコーヒーをゆっくり飲み干して、たまった家事を片付けると、ようやくなまえの休日がはじまった。
ヒールをならして外へ出ると、春らしいやわらかな日差しがなまえを照らした。
春は新しいものが欲しくなる。新作のバッグ、服、化粧品。ほしいものは片手ではたりないが、心もとない財布がそれを許してはくれない。
ひとつひとつ消していって、最後に残ったふたつを見比べて、迷った末ひとまず今日の目的のひとつであるパンを買いに行くことにした。
おいしくておしゃれでインスタ映えするとすすめられたパン屋は、朝早くから賑わっていた。おしゃれなパンをひとつとコーヒーを買うと、なまえはのんびりと歩き出した。
途中で大きめの公園を見つけて中へ入ってみると、ちいさなこどもが遊んでいたり、散歩をしている人がいたりと、窮屈に感じない程度に混んでいる。
芝生のゾーンはキャッチボールをしている親子がいるだけで、人が少ない。木陰のベンチに腰をおろしたなまえは、パンとコーヒーを様々な角度から写真を撮り、納得がいくものが撮れると、インスタのアプリを起動した。
思いつくかぎりのタグをつけて投稿すると、ようやく一息つく。頭をまっさらにして、春らしい淡い空を仰いだ。見上げた葉桜の合間から雲が流れていく様は、なまえの知らぬ間にささくれだった心を、優しく溶かして穏やかにしていく。
どれくらいそうしていたかわからないほど空を仰いでいたなまえが首を元の位置に戻すと、さきほどまでいた親子はいなくなっており、入れ違いに野球のユニフォームを着た青年が笑顔のまま素振りをしていた。
口から出る数字はすでに百を越していたが、笑顔は不自然なほど変わることなく、息がきれる様子もないまま淡々と数を刻んでいく。
見守るようななまえの視線の先で、十四松はバットを振る。千を越えたころ、十四松の脚がすべった。疲れからではなく、同じ場所で足先に負荷をかけすぎ、芝生がえぐれ地面が露出したためだった。
頭から突っ込むように転がった十四松に腰が浮いたなまえだが、上げた顔が変わらず笑顔のままなのを見てとり、ベンチへ崩れ落ちるようにして腰かける。
顔の泥をおざなりに拭った十四松は、自身の足元で折れた花に気づき、汚れることも厭わず膝をついた。
「お花さんごめんなさい。待っててね、いま新しいところに連れて行くから」
わっせわっせ、と威勢のいいかけ声とは違い、ていねいに土のなかで花の根をさぐる手は愛情すら感じられる。なまえには雑草に思えるそれを、十四松は大事に育てた鉢植えのように扱った。
公園を見回し、芝生の端に目当ての場所を見つけた十四松は、土を掘り返して花を埋めた。土を軽く叩き、近くの水道まで走り、手をバケツの代わりにして水を汲む。
何度か往復して花に水をそそいだ十四松は、たちまち花が元気になるのを期待するように覗き込んだ。
花は依然として元気なく萎れたままだったが、十四松は花の声に耳をかたむけるように顔を寄せる。何度か相槌を打つように頷いて笑顔になると、両手を握りしめた。
「ハッスルマッスル! また明日くるね。踏んじゃってごめんなさい」
腰を折り曲げて丁寧に謝罪した十四松が、なまえの視界から消える。二度見する暇もなく、視界の下からにゅっと十四松が出てきて、なまえは短い悲鳴をあげた。
「おねーさん、ずっと見てるけど野球したいの? 一緒にしようよ」
飛び出しそうな心臓を押さえ、唯一動く視線だけが、先ほど十四松がいた場所と目の前を何度か往復する。一瞬で移動したのだとなまえが飲み込むのに数秒かかるあいだ、十四松はおとなしく待っていた。
「おねーさん、パン食べないの? おいしそうなのに」
十四松に指摘され、なまえは食べることを忘れていたパンを思い出した。コーヒーもすっかり冷めて、おいしさを失ってしまったようにベンチに腰かけている。
「よかったら食べて。買ったけど食欲がなくて」
思わず言ってしまってから、見知らぬ人に食べ物をもらうわけがないと思い直した。謝ってもう立ち去ろうと口を開くなまえの目に映ったのは、少年のようにひとみを輝かせ、嬉しさを隠さない十四松の笑顔だった。
「本当にいいんでっか。ぼくお腹すいてるから、一口でぺろりだよ」
なまえをこわがらせないように、ベンチの前に小さくうずくまる十四松は、警戒などしなくてもいいように見える。
なまえが頷くと、十四松は飛び上がって喜び、水道で手を洗った。一人分あけてなまえのとなりに座った十四松は、きちんと手を合わせる。
「いただきます。うんまっ、これうんまいよ! おねーさんも、はい」
パンを少しばかりちぎって差し出され、なまえは困惑する。食欲はなかったが、自分が食べられないパンを押し付けた罪悪感もあり、数秒ためらってから手を差し出した。
パンを受け取り、咀嚼して飲み込むまで逸らされない視線を感じて、口に押し込んだ。
含んだとたん、香ばしいパンの香りがふわっと広がる。飲み込んだあとも幸せが口の中を満たしているようだ。
「おいしい」
「よかった、おねーさん元気になった」
笑う顔は、道端で咲き誇る花のよう。
なまえは、手に持ったままだったスマホを見た。いいねの数を確認する気にもなれない。会社からの電話も気にしなくていいように思えた。
スマホの電源を切り、なまえは晴れ晴れとした気持ちで空を仰いだ。こんなに清々しい気持ちが心身をめぐるのは久しぶりだ。深呼吸すると、いままで気付かなかった緑のにおいが肺を満たし、内部から清浄にしてくれているように感じる。
「野球、しよっかな」
なまえのつぶやきに、十四松が両手を上げた。
「しようよ! ぼくね、バット持ってるよ。一本だけど、野球できるよ」
ボールもミットもないとどう考えても野球にはならなかったが、なまえは微笑んで頷いた。警戒をさせない十四松は、なまえの曇った心にスライディングで滑り込んできて、あっけらかんと照らし出した。
休日に誰かとしゃべることすら久しぶりだったなまえは、十四松に急かされるまま立ち上がって伸びをする。
一歩踏み出して、奮発して買ったパンプスのヒールが邪魔だと思った。そう感じることが新鮮で驚きを含んでいて、公園なのに汚したくないパンプスをはいてスカートでいることが、なんだかおかしくなる。
「誰もいないし、靴脱いじゃえ。素振りのやり方教えてほしいな」
素足で踏んだ芝生は足の裏を刺激したが、それすら真新しく面白かった。こどものようにはしゃぐなまえが、嬉しさに動かされ、喜びを頬に浮かべて振り返る。
ひるがえるスカート、押さえる手、風に慈しまれたように踊る毛先。
映画の重要なワンシーンのようにすべてが当てはまったそれは、十四松の目に焼き付いた。花を踏まないように睫毛を伏せて確認し、手を広げて日の光を浴びるなまえが、十四松の前でほがらかに笑う。
「野球、しよ」
十四松がひかれるように立ち上がると、バットが転がり落ちた。それを拾って差し出すと、なまえは慣れない手つきで受け取り、見よう見まねで構えてみせる。
手本を見せる十四松の手のひらが、マメができて皮膚がかたくなった男性のそれだということに気がついたのは、なまえの心を満たした笑顔が向けられたときだった。
次の休みの日、なまえは動きやすい服装とスニーカーで公園を訪れた。入口から離れた芝生の上では十四松が素振りをしており、なまえは顔をほころばせて駆け寄る。
「十四松くん、お待たせ。今日はバット持ってきたよ」
振り向いた十四松の手にはふたつバットが用意されており、片手にはなまえと同じ新品のボールが握られている。合計三本もあるバットとふたつのボールを目にしたふたりは、数秒後、目が合って吹き出した。
「考えることは同じだね!」
「どうせだからバット三本とも使ってみようよ」
野球の道具を使った野球ではないそれは、ルールに縛られず自由で、なまえにとっては野球をするより楽しかった。
十四松はしきりになまえを気にかけ、笑わせようと努めた。なまえもその気遣いをありがたく受け取り、鬱々とした気持ちを吹き飛ばそうと明るく振舞う。そのうち本当に楽しくなってきたものだから、些細なことでも笑ってしまう。
十四松がわざとらしく滑ってみせればなまえはお腹をかかえて笑い、なまえがおどけてボールでお手玉をすれば、十四松も一緒に楽しむ。
十四松だからとしか説明ができない不可思議な人体の謎を見て驚いていたなまえもじきに慣れ、笑顔を見せるようになった。十四松は、それが嬉しかった。
十四松と数回会うころに、なまえはお弁当を持ってきた。
お弁当箱にはすこし焦げた定番のおかずが詰められており、水筒には氷が入れられ、運動したあとの体に心地いい冷たさをもたらす。十四松は早く食べたいがもったいないと葛藤しながらひとつひとつ食べ、一口ごとに、大げさに見えるほどおいしいとなまえを褒めた。
十四松が本心から言い、喜んでいることが伝わったなまえは、頬を染めて賛美を受け取った。早起きして眠く、冷蔵庫に失敗作が入っていて今日一日同じものを食べ続けることになろうとも、十四松の笑顔で帳消しになってしまう。
十四松の口のはしに米粒がついているのが見え、なまえは自然に手を伸ばす。くちびるにふれそうな場所を指先がかすめ、十四松は顔をこれ以上ないほど染めてかたまった。
なまえの心の奥底に沈めていた、もう二度とそんな思いをすることはないと封じ込めていた気持ちが、たくさんのあたたかいものを詰めた気球にのって浮かび上がる。
十四松といるあいだ、どんなに頑張っても浮かび上がるそれは、もう無視できないほど大きくなっていた。
「十四松くん、すき」
十四松が耳まで赤くなるのを、なまえはどこか冷静に眺めていた。このあと断られても、この染み入るように大事な時間は汚されないと、どこかで確信していたからかもしれない。
「わたしと付き合ってほしい」