なまえとトド松がもう一度出会ったのはそれから二ヶ月後の、散歩をすると気持ちいい天気が続いていた五月の中旬のことだった。
なまえのことをすっかり忘れていたトド松はいきなりかけられた声に驚きはしたが、前になまえと出会った場所だったこともあり心臓はすぐに元の速さに戻った。頭を回転させてなまえの名前を思い出したトド松は、笑顔を浮かべながら走ってくるなまえに近づく。
「久しぶり、大学はどう?」
「トド松くん、よかった、いつか会えると思ってた。トド松くんのおかげで友達もできたよ、ありがとう」
出会ったころより自然な笑顔になったなまえを見て、トド松の肩の力が抜ける。
そういえば、なまえとは女の子受けする自分を演じて肩肘をはるような関係ではなかった。あまりのセンスのなさに初対面から兄弟にするような容赦ないツッコミを入れたし、仮面をかぶることもしなかった。
「トド松くん、いま時間あるかな? 良かったらまたちょっと付き合ってほしいんですけど」
おそるおそる切り出したなまえに、トド松の頭にあの日の疲れがよみがえってきたが、今日は約束していたデートをドタキャンされたばかりだ。
家に帰ればニートしかいないことを知っていたトド松は、答えはもう決まっていながら迷うふりをして必死ななまえを見上げる。
「このあいだ服を全部通り雨で濡らしちゃって、トド松くんに選んでもらった以外の服を着ていくしかなかったの。それで大学に行ったら、センスがないとかどうしたのとか通り越して、ヤバイって言われちゃって」
しょんぼりとすがるように見られたトド松は、その光景を想像して吹き出す。なまえのセンスが発揮されていたなら、たしかにヤバイというしかないような服装に仕上がっていそうだ。
お洒落な人ならば引きつって幽霊でも見たような顔をしていそうなのを思い浮かべて笑いがとまらないトド松は、笑いすぎて浮かんできた涙をぬぐいながら頷いた。
「いいよ、付き合ってあげる。その代わり、お昼ご飯おごってよね」
すこしばかり遅い昼食の提案に頷いたなまえは、喜びを隠さずにトド松に何度もお礼を言った。スマホを出して時間を確認したなまえがトド松に尋ねる。
「お昼ご飯はなにが食べたいですか? トド松くんの行きたいところに行くよ」
「んー、じゃあラーメン」
デートでは絶対に行かないところを指定すると、なまえは頷いておすすめのラーメン屋に向かって歩きはじめた。
トド松は生クリームがたっぷりのったパンケーキだとかスイーツだとか野菜たっぷりのパスタだとか、そういったものはもちろん好きだったが、それと同じくらいラーメンや餃子や焼肉も好きだ。デートでは女の子が喜ぶところしか行かないため、女の子とふたり並んでラーメンを食べに行くというのは新鮮だ。
大学での話をする隣のなまえを見上げたトド松は、前より視線を上にしないとなまえの顔が見られないことに気がついた。まだ背が伸びているのかと思ったが、すぐになまえが猫背をやめたせいだと思い至る。
髪がぼさぼさなのは変わらなかったが、ネガティブなイメージが軽減され、体のすみずみまで若さを行き渡らせて生を謳歌しているように見える。大学に行っていい友人ができ、明るくなったのだ。
他人事ながら嬉しくなったトド松は、どこかで何かが引っかかって、なまえの話が途切れるのを待って尋ねた。
「服装をヤバイって言ったの、男?」
「女の子だけど」
「そう、それならいいよ」
何がいいのか自分でもわからないまま目的地に到着し、ラーメン屋のドアを開けたトド松は、カウンター席に座ってなまえとのあいだにメニューを置いた。餃子も食べたいが奢られる立場だからそんなに注文できないし、なによりにんにくのにおいを気にするトド松の左耳に、なまえの明るい声が通る。
「ここ餃子がおいしいのでひと皿ずつ頼みましょうね。チャーシューも追加しましょう」
なまえの前ではいろいろ気にしなくていいのだと、トド松の心に新たに刻み込まれた瞬間だった。
ラーメンを食べ終わり、満腹になったお腹を抱えながら店を出るころには、久しぶりにトド松と会い緊張で敬語混じりになっていたなまえもだいぶリラックスして話せるようになった。来た道を戻りながら、あたたかくなってきたから新しい服が必要なのだと語るなまえは、眩しい日差しを全身に浴びるように伸びをする。
「実は初めてトド松くんに会った日、誕生日だったんだ。高校での友達は新しい生活の準備をしてたからわたしの誕生日なんて忘れてる子も多いし、高校のときみたいにプレゼント交換なんかしなくてメールだけでのお祝いばっかりだった。中途半端な時期だから、いっつもクラスの子と仲良くなる頃には誕生日なんてすぎてたし、仲良くなってもクラスが変わって、やっぱりプレゼントはあげるばっかり。今年の家族からのプレゼントはお金で、これで服を買ってきなさいって半分脅されて渡されたんだ。たしかに高額だけどほしいものじゃないしお金だし今年の誕生日はひとりぼっちだって落ち込んでたときにトド松くんに会えた。だから、ありがとう。トド松くんが服を選んでくれなかったらさみしい誕生日だったし、いまの友達も話しかけてくれなかったと思う」
照れて微笑んだなまえは、これでこの話は終わりだとばかりに打ち切って違う話をしたが、トド松はそれに相槌を打つことしか出来なかった。
あの日誕生日だったことをいまさら告白されて、どこかショックだった。
誕生日だと知っていれば、あの日ジュースを奢ってもらうことなどなかった。出会ったばかりの子にプレゼントをあげたかどうかは今となってはわからないが、おめでとうとは言っていたはずだ。そしてなまえのコーヒーの代金を支払っていたのはトド松だっただろう。
ファッションビルに戻ってくると、なまえは歩いて熱くなった体を涼めるため、足早に冷房のきいたビルのなかに吸い込まれていく。それを追いかけるトド松の目は燃えていた。
彼にとっては、今日がなまえの誕生日だった。
ビルに入り服を物色しながら、トド松はレースがあしらわれた可愛らしいワンピースを手にとった。前回なまえがこういった可愛い服に興味を持ちつつ、かたくなに試着を拒んでいたことを思い出し、もう一度なまえにすすめる。
「これなんてどう? いまから秋まで着られるよ」
「わたしには似合わないよ。可愛すぎる」
「それの何がいけないの」
「だってわたし、背が高いから」
ぽつりと自分のコンプレックスを告白したなまえは、熱っぽく服を見たが、手に取ることなく視線をそらした。いくつかの服とまとめてそのワンピースをなまえに持たせたトド松は、わざと顔をしかめてみせる。
「いいから試着くらいしてきて。似合うかどうかはボクが判断するから。背が高いのは武器だって言ったでしょ。ジーンズの裾上げをしなくていいっていうのは自慢していいんだから」
なまえはためらっていたが、トド松にせっつかれて試着室へと消えていった。その隙に、色違いのワンピースもチェックし値段を確認する。ワンピースにしては安いが、無職のトド松にとっては高価だ。
だが、値段なんてものは試着室のカーテンから顔を覗かせたなまえを見てどこかへ飛んでいった。
そのワンピースはなまえによく似合っていた。トド松が選んだ服のなかでは一番丈が短くて太ももの半分ほどが出ており、みずみずしい太ももが白く輝いている。眩しかった。
このくらいの丈ならばナンパした子だっていくらでも着ていたのに、なまえが着ると初々しさを際立たせる。これを着させたのが自分で、初めてワンピースを着た姿を披露したのが自分だという事実に、頭がくらくらした。
「可愛いんだけど、やっぱり似合わないよ」
「これから暑くなるんだし、一枚くらい持っていてもいいんじゃないの」
なまえは名残惜しそうに裾をなでたが、やっぱり駄目だと首をふった。試着室のカーテンがしめられ、なまえの着替える音が聞こえてきたトド松は慌ててその場を離れた。
なまえが着ていたワンピースがまだ売り場にでていることを確認し、急いでレジへ持っていったトド松は、店員にあとで買いに来ることを告げる。一連の流れを見ていた店員は快く了承し、急いで試着室へ戻ったトド松は、さもずっとここにいたように振る舞った。
その後ふたりはいくつかの店をまわり、すこしはファッションに興味をもってきたなまえの要望通りの服を揃える。いまから夏まで着回せる服を何着かと一足のサンダルを手に入れて上機嫌ななまえに、トド松がさりげなく確認する。
「どこの店でもワンピース揃えてたけど、どれも可愛かったよね。どれが一番可愛かった?」
なまえは少しばかりためらったが、買い物を終えてもうワンピースを買うことはないことを思い出し、小声で願望を口にした。
「最初の店の、試着したやつ」
やはり自分の目は正しかったと、トド松はどこか誇らしいような気持ちになる。なまえにはあのワンピースが似合うのに、自分を卑下しているばかりに真実を曇らせているのだ。
トイレに行くといってなまえと別れたトド松は、最初に入った店に行き、取り置きしてもらっていたワンピースを購入した。プレゼント用に包装をしてもらって小走りで帰ると、なまえが目ざとくショップの袋を見つける。
「あれ、トド松くん何か買ってきたの?」
「トイレに行く途中にすごく可愛い帽子があって。待たせてごめんね、行こうか」
ショッピングで疲れた体を休めるためふたりは前回と同じカフェに入ったが、今度は椅子に座っているのはトド松ではなくなまえだった。トド松が注文を聞いて席まで飲み物を運び、なまえへ差し出す。
「アイスブラックコーヒーと、サンドウィッチでよかったよね」
サンドウィッチは頼んでいないとうろたえるなまえに向かって、トド松はウインクした。
なまえの前の席に座り、ほどよく混んでいる店内に紛れる音量で話す。もう夕方になっているせいか、客もそこまで多くなく、トド松となまえの両隣の席には誰も座っていなかった。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう。甘いもの苦手って言ってたから、ケーキの代わりにサンドウィッチ買ってきたんだ。これ、ボクからのプレゼントだよ。開けてみて」
サプライズになまえは目を丸くしたが、トド松に急かされて包装紙を開けてプレゼントを覗き込む。そこにはなまえがほしかったワンピースがあった。
顔を上げると嬉しそうに微笑んでいるトド松がいる。服を抱きしめて感動の波がおさまるのを待ったなまえは、感極まった声でトド松にお礼を言った。
「ありがとう。本当にありがとう。わたし、今年の誕生日ではじめて現金以外のプレゼントをもらった。いままでのプレゼントのなかで一番嬉しい」
泣きそうななまえの気持ちが、トド松にはほんの少しだがわかるような気がした。
ないがしろにされているわけではないが、トド松は誕生日のお祝いもプレゼントも六分の一になる経験がある。自分だけのために誕生日を祝ってくれるというのは、それだけで嬉しいものだ。
「トド松くんの誕生日はいつなの? もうすぎていてもお祝いさせてほしい」
「ボクは来週だよ。十日後が誕生日なんだ」
「まだ過ぎてなくてよかった。当日は無理でも、時間があればお祝いしてもいいかな」
「いいよ、その日は空いてるし」
「トド松くんの誕生日、今年は平日だね。トド松くんも学校があるだろうし、夕方から待ち合わせでいいかな。あっもしかして就職してる?」
純粋な問いかけに、トド松は自分の動悸がはやくなっていくのを感じた。手足の先が冷えて顔は笑顔のまま停止し、どう言えばいいか考えながら頭は冷えてかたまっている。
なまえには嘘をつかなくていい。自分を偽らなくても受け入れてくれる人だ。
そう思っているのに、そんなふうに女の子と接したことがないため、それが正解なのかわからない。ニートだと告げたときのなまえの反応が恐ろしかった。なまえが心配そうな顔でトド松を覗き込む。
「トド松くん、どうしたの? 体調が悪い?」
「ううん。そうだね、夕方からにしよう。楽しみにしてるね」
はっきりと言わないことで自分を保ったつもりだったが、時として沈黙は肯定となることをトド松はよく知っている。
なまえが自分を大学生だと思ったことを空気から察して、それでもなにも言わないでいる自分が嫌いになりそうだった。なまえとはいい関係が築けそうだったのに、越えられない溝を自分で作ってしまったことを、トド松は冷える指先とともに感じていた。
心が薄闇に浸り、これから人生を謳歌していく輝いているなまえを見上げる。自分がまだヒエラルキーの底辺にいると思い知らされたとき、いままで言えなかったことがすんなりと言えた。
「せっかく背筋を伸ばしてるんだからさ、髪も整えてみたら? 実はワンピースと一緒に飾り付きのピンも入ってるんだ。きっとよく似合うよ」