その日カラ松がいつもは行かない公園で散歩していたのは、ただの気まぐれだった。
いつもの場所でカラ松ガールに声をかけられるのを待っていたが当然のごとく不発で、カラ松はひとり「シャイなんだな」と笑っていた。春のやさしいそよ風に控えめに咲きはじめた花のかおりが混じるあまりにもいい天気で、家に帰ろうとしていたカラ松は気を変えて遠くまで足を伸ばしてみることにした。
塀の上であくびをする猫や道ばたに咲くシロツメクサ、はしゃいだこどもの声。そういったものを道しるべにしながら偶然たどり着いた公園で、カラ松はとりあえず大きな木の下でポージングした。
それを見ていたのが、木の近くにあるベンチに座っていた女の子だった。彼女は、カラ松と目が合ったと思った。サングラス越しなのではっきりしないが、きっと目があったに違いない。そう信じて、なまえはふるえる喉を空気でふくまらせ、思いきり口を開いた。
「助けてください!」
なまえが叫んだ拍子に手に持った袋から菓子パンがこぼれ、なまえのまわりにひしめいている鳩がいっせいに飛びかかる。
ちいさな悲鳴をあげたなまえの白くやわらかな脚に鳩の羽が容赦なく当たり、手に持っている袋にまだ菓子パンが残っていると見抜くやいなや、野生の瞳がなまえを睨みつける。
「動けないんです、助けて」
しぼりだすような悲鳴に、状況を飲み込めずぼんやりしていたカラ松がようやく我に返る。こんなとき、カラ松はお気に入りの革ジャンやスパンコールがついたパンツを気にするような男ではなかった。
鳩を踏まないように気をつけて走ってなまえのもとへたどり着き、菓子パンの入った袋をとると遠くへ投げた。鳩がいっせいに移動する。
「いまのうちだ!」
「待って、脚が」
なまえの脚はかすかに震えているだけだったが、怖さのあまり立ち上がれないのは向けられた表情を見ればすぐに理解した。
とっさに横を見れば、もうパンは食べつくされそうだった。これがなくなれば、一度エサをもらった人間にもう一度群がってくるだろう。
カラ松はなまえの手首をにぎった。付き合ってもいない婚前の女子にふれるということを気にしている場合ではない。
「立てる。走れる。もう鳩はいない。きみの脚は走れる。大丈夫だ」
根拠などない励ましは、手を引かれるまま立ち上がった脚とともに事実となった。ふたりが走ると、鳩がいっせいに避けて飛んでいく。手をとってすべてのものを引き受けて走るカラ松の姿は、なまえの瞳にくっきりと映った。
それはまるで、映画のワンシーンのようだった。
ふたりが息をきらしてひざに手をついたのは、公園を出てしばらく走ったあとだった。立ち止まったあと自然と手は離れ、持ち主の汗をぬぐったり膝について傾く体を支えたりという仕事に変わる。
息が整ってバッグを受け取ると、なまえは深々とカラ松に頭をさげた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「たいしたことはしていない。それより怪我はないか」
「怪我はないです。本当にありがとうございます」
「いや、オレも勝手に菓子パンを投げてしまったし」
いつも上がっている眉が情けなく下がる。さきほどの先陣をきって走っているときとのギャップに、なまえはこわばっていた顔をようやくほころばせた。
「いえ、それくらいいいんです。それよりわたし、なにかお礼をしないと」
「フッ、レディを助けるのは当然のことだ」
そんなことを言う人はドラマでしか見たことのないなまえは驚いて後ずさった。もしや、このサングラスもやけに光り輝いているパンツも、もしかしたらかっこいいのではないだろうか。
そんな気の迷いに頭がふらふらしているうちに、なまえのスマホが鳴り響いた。驚いてスマホを見て、時間に気づいて飛び上がる。
「すみません、わたし講義に行かないと。後日お礼させてください」
「気にするな、鳩もレディの魅力に気づいたというだけのことさ」
「ありがとうございました。お礼を考えておいてくださいね」
恥ずかしさのあまり逃げるように駆け出すなまえの後ろ姿を、カラ松はサングラスをずらして目に焼きつけた。注意してみればたしかに若々しく、おしゃれに目覚めた大学生らしい服装をしている。
遠くでなまえが振り返って、まだカラ松がそこに佇んでいるのに驚きつつ頭をさげる。それにサングラスを外してまたかけるという行動でこたえたあと、カラ松は自分の手首を掴んでみた。比べるまでもなくなまえのほうが細く、つかんだ手のひらから伝わってきた骨の感触は、すぐ折れるような儚さをもっていた。
なまえが大学の教室に飛び込み、カラ松が家にたどり着くころ、ふたりはほぼ同時に大切なことに気づいた。お礼をするといいながら、お互いの連絡先どころか名前すら知らないということに。
カラ松は後悔した。あの日適当に歩いたせいで公園への行き方をすぐに思い出せず、何日も公園への道を探して歩き回ったのだ。
朝早くから日が暮れるまで外出しているカラ松を、兄弟たちはとくに不審に思わなかった。カラ松が毎日鏡のまえで何時間も髪を整えて出かけるのは、日常のなかに溶け込んでいるからだ。
四日後、ようやくあの公園にたどり着いたカラ松は、今度こそ忘れないように道順をメモをし、あの日なまえが座っていたベンチに腰かけた。出会いの日からもう四日もたっているというのに、なまえのわずかなぬくもりが残っているような気がする。
時刻はもう昼にさしかかっていて、いつもなら家に帰り昼食をとる時間だが、カラ松はそこを動かない。前に会ったのも昼の時間帯で、もしここですれ違ったらと思うと動く気になれなかった。
いつもはポジティブなカラ松も、このときばかりは悪い考えが浮かんだ。もしなまえが来なかったら、自分のことを忘れていたら、お礼なんて嘘だったら。
そこまで考えたカラ松は激しく首をふった。こんなことを考えるのは、なまえにたいしてとても失礼なことだ。今日は寄ってこない鳩に向かってかっこいい脚の組みかえを見せつけながら春の淡い空を見上げていると、待ち望んだ声が聞こえた。
慌てて立ち上がったカラ松はあたりを見回し、近くに鳩がいないことを確認してからなまえに向き合う。わずかにはずむ息を整えながら見つめてくる瞳はまっすぐで、きっとパチンコや競馬には行ったことがないのだろうという確信が頭をよぎる。
「いてくれてよかった。お礼するって言っておきながら連絡先も聞いていなくて、この公園にならいるかと思ってずっと探してて。本当によかった」
カラ松が言葉につまる。いままでの人生で、こんなに真摯に女の子に求められたことはない。ただ頭を下げて別れるだけで済むことなのに、わざわざお礼をしたいと言うなまえの生真面目さが垣間見え、カラ松の心にさわやかな風が吹く。
なまえが人を疑うことを知らないというのは、距離の近さでわかった。ただ鳩から救い出したというだけで、知らないうちにカラ松に全面の信頼をおいているなまえは、会って二度目の男と話すにしては近い位置で笑った。
「名前、教えてくれませんか。連絡先も」
彼女の名前は、いままでカラ松が聞いたなかで一番美しい名前だった。
カラ松がスマホを持っていないため、なまえのルーズリーフをもらって連絡先を書きとめる。今週の日曜に、とあっさり決まったデートに動揺を隠せないでいるカラ松と違い、デートなどと思っていないなまえは無邪気にたずねた。
「そういえば、歳はいくつですか? 同じ大学だったりして」
「オレは自由と窮屈を味わっている男。就職にとらわれたりはしない」
「フリーターなんですね」
自分よりひとつ上の男がまさかニートだとは考えもせず、なまえは勝手に答えを決めつけた。就職に失敗したり会社をやめたりしてフリーターになる人は数多くいれど、こんなに堂々とニートでいる男がいるとは思いもしていなかった。訂正するまえになまえが自分の口を押さえる。
「面接とかありましたか? 就活してるなら日曜が休みとか関係ないですよね」
「その日は大丈夫だ」
もうニートなどと言い出せる雰囲気ではない。ましてや、いまだに母親からお小遣いをもらって過ごしているなんて、口が裂けても言えそうになかった。
「じゃあ日曜に出かけましょうね。どこか行きたいところありますか。お礼ですから、どこにでも付き合いますよ」
カラ松の行動範囲はせまく、行きたいところといっても特に思いつかなかった。兄弟がよく行くところなら思いつくが、絶対に鉢合わせしたくない。だが、ここでどこでもいいだなんて答えてしまったらなまえが困る。
「きみが行きたいところは? もしふたりの行きたい場所が合ったら最高だろう」
「最近新しくできたカフェがおいしいみたいで、行ってみたいとは思ってますけど」
「ならばそこへ行こう」
「わたしじゃなくてカラ松さんの行きたいところですってば」
はじめて呼ばれた名前にこそばゆくなった心を体の中心に据えながら、カラ松は白い歯と目をきらめかせた。サングラスで目が隠れていたのが幸いである。
「いまの話を聞いて行きたくなった。もし不満なら、そのカフェに行ったあとでまた違うところへ行こう」
わずかにふくれながら了承したなまえは、待ち合わせ場所と時間を決めたあと、時間を確認して慌ただしく去っていってしまった。振り返ったとき、今度はお辞儀ではなく親しげに手をふられる。
またもなまえの後ろ姿を見送りながら、カラ松はひとり考えた。なまえは初対面でいろいろすっ飛ばして手を握ってしまったからか、緊張せずむやみに格好をつけたりせず話すことができた。兄弟にさんざんやめたほうがいいと言われ続けたファッションにも文句を言わない。
もしかして特別な存在なのでは、とカラ松が意識するのを見越したように、なまえはするっとカラ松の心にすべりこんだ。
デート当日、カラ松は緊張しきった顔で待ち合わせ場所に立っていた。ファッション誌に、デートの時にもらうと困ると書いてあったバラの花束を買うことを断念したため、両手をどの位置におけばいいのかわからない。
腕を組む位置をひたすら変えながら待っていると、雑音のなかでもよく通る声がきこえた。
「カラ松さん、遅くなってごめんなさい!」
「いま来たところだ」
ゆれるスカートがまぶしい。サングラスをかけなおしたカラ松は、一時間前から待っていることは言わずになまえへ歩みよる。ようやく自然な位置におさまった両腕にほっとしながら、なまえの案内に従って歩き出すことにした。
女と並んで歩くという事実に緊張して昨夜寝れなかったカラ松だが、用意してあった話題を慌てて差し出すことはなかった。なまえといると自然と話がはずんで、もっと知りたいと思ってしまうのだ。
五人の兄弟のなかで言わなくても伝わる楽な空気に浸かりきっていたカラ松は、慣れていない人と話すとき特有の緊張やわずかな人見知りというものが、なまえのあたたかな雰囲気のおかげでかき消えていく。なまえの語る大学や一人暮らしの話は、どちらも未経験のカラ松にとっては新鮮でおもしろいものだった。
スマホのアプリで迷うことなくたどり着いたカフェは、混んでいたものの待たないと入れないわけではなかった。昼をすぎて、お茶の時間には早いのが幸いしたらしい。
透明なガラス張りの入口に、なんとか雨がしのげる程度の屋根の鮮やかな赤色が映える。おしゃれなカフェの代名詞ですというような外観にカラ松はたじろいだ。こんなおしゃれなところに入ったことはない。
知らず後ずさるカラ松の横で、なまえは慣れているように自動ドアをくぐって店員に人数を伝える。なんとかかっこ悪いことにならないようにと踏み出したカラ松は、閉じかけた自動ドアに大きく体を震わせた。誰にも気づかれなかったが、自分を保つため無意味にポーズをきめた。振り返ったなまえが吹き出す。
「なにやってるの、カラ松さん。はやく席にいきましょうよ」
店員に案内されたのは、ふたりしか座れない小さな木のテーブルと椅子がある席だった。座るときフィットするように絶妙な丸みをもった椅子は、手すりもなめらかであたたかみがある。
ようやく落ち着いてきたカラ松が店内を見回すと、オレンジと黄色と白を足して混ぜたような色合いの間接照明がいたるところにあった。カウンター席には若々しい緑色のカウンターチェアが等間隔でおいてあり、いたるところに観葉植物や小物が散りばめられている。場違いではと焦るカラ松の前にメニューが広げられた。
「カラ松さん、なに頼みますか。今日はお礼ですから、遠慮せず頼んでくださいね」
言われるままメニューをめくると、カフェらしく力の入ったドリンクの数々やランチメニュー、ケーキなどが写真つきで並んでいる。緊張のあまり朝からなにも食べられずにいたカラ松だったが、ここにきてようやくお腹がすいてきた。
「きみはランチを食べたのか」
「じつは寝坊しちゃって食べてないんです。食べてもいいですか?」
「もちろんだ。オレも食べよう」
ひとつしかないメニューをふたりで見るとなると、自然と距離が近くなる。心臓が破れそうになっているのはカラ松だけのようで、なまえはメニューに釘付けだった。どうやら本当にお腹がすいているらしい。
「わたし、日替わりプレートにします。サラダも頼むから、ふたりで半分こしましょうね」
半分こ。女の子と半分こ。
奪い合いが基本の兄弟のなかでは、したことはおろか聞いたことすらない言葉なのに、いきなり女子と実践するにはハードルが高すぎた。返事ができないでいるのをごまかすために、自分も注文するものを決めたとだけ言い、なまえの興味がドリンクに移ったことに安心する。
ひとり落ち着くために深呼吸しているうちに、なまえが飲み物を決める。回されてきたメニューには舌をかみそうな飲み物の名前が並べてあって、カラ松はフッと笑ってサングラスをとり、革ジャンのポケットにいれた。
「ブラックコーヒー、ホットで」
舌をかまない、かつかっこいい男の飲み物といえば、カラ松のなかではブラックコーヒーのホットひとつだけだった。店員を呼んでふたりで注文をすませ、なまえはカラ松を見て花がゆれるように笑う。
「やっとサングラスとってくれましたね」
「すまない。不快だったか」
「カラ松さんの目、見たことなかったから。店内でもとらなかったらどうしようかと思いました」
口を隠してくすくす笑うなまえは、どう控えめに見ても可愛かった。カラ松の目になまえの笑顔が映りこむ。
「ここ、ケーキもおいしいらしいので食べましょうね。甘いの平気ですか?」
「ああ。パンケーキもあるんだな」
メニューを覗き込んだカラ松は、テレビでやたらもてはやされている生クリームがたっぷりのったパンケーキを思い浮かべた。あれはとても食べられそうにないが、このカフェの写真を見るかぎりでは生クリームは控えめで、カラ松でも食べられそうだった。
「ご飯を食べ終わったら注文しましょうね」
甘いものを見て目を輝かせている顔は、いくら見ても見飽きない。
いつまでも見ていたいがなまえがメニューに夢中なうちにと、カラ松はテーブルの下でハンカチにお金をつつんで封筒の形にした。カラ松は器用なのである。
ようやくケーキを決めたなまえの前にハンカチを差し出すと、なまえは不思議そうにハンカチとカラ松を交互に見た。
「それは食後に開けて、あっなんでいま開けるんだ」
「今日はわたしのおごりって言ったのに! お礼って言ったのに、どうしてこんなことするんですか」
「きみに払わせるわけないだろう。払うのは男であるオレの役目だ」
カラ松の本音が爆発した。言い争っていることで注目されていることにも気づかず、ふたりはお互いを見つめていた。なまえの怒りが嘘のように消えていく。
こうしてふたりは、恋の第一歩どころか五歩ほど進んでからようやく、お互いが恋愛対象だと気づいたのだった。