「泉田! ちょっといい?」

 廊下で声をかけられた泉田が振り返り、声の主を確認して頭を下げた。泉田を呼び止めたのはもう引退したマネージャー、篠崎だった。
 音楽室から教室へ戻るところだった泉田は、話す時間はたっぷりあるのを確認して廊下の隅に寄った。並んだ篠崎とふたりで、外との温度差で白く濁っているガラスの前に立つ。足先から忍び寄ってくる寒さのため、用もないのに休み時間に教室から出ている生徒は少なかった。

「このあいだようやく名字さんと銅橋のこと聞いてね。名字さんに好きな人がいるのはなんとなくわかってたけど、まさか銅橋とは」
「ボクも驚きました。名字さんに好きな人がいることすら想像していませんでしたから。……よく考えるとこの年頃だとふつうのことで、好きな人がいないほうが珍しいですよね」
「あの部活にいたんじゃ仕方ないよ。みんな恋なんかより自転車に夢中だもん」

 眩しい夏のことを思い出して篠崎が笑うと、そのまわりだけあたたかくなったような気がした。泉田が長いまつげを伏せて、あの夏の苦さがまだ舌の上に残っているような感覚に抗っていると、篠崎は真剣な顔をして泉田を見つめた。

「その話を聞いて思ったんだけど、泉田、名字さんのこと気をつけて見てあげてね。選手じゃなくてひとりのマネージャーを贔屓にするようなことは言いたくなかったからなにも言わずに引退したんだけど、名字さんはかなり限界がきてたんだと思う」
「はい。ボクもそう思います」

 名前がなにも言わずに我慢して、誰も名前と親しくなかったから気付かなかったという最悪の状況だった。
 あれから気をつけて見てみれば、部活中名前は軽口をたたけるような相手もおらず、ひとりでお弁当を食べ、ひとりで最後まで残り、ひとりですべての後片付けをし、ひとりで帰る。そんな生活を続けていたのかと気付いたときゾッとした。ボクならそんな生活が出来ただろうか。

「名字さんって意外と頑固なの。決めたことは曲げないし、おとなしいふりして全然おとなしくない。ある意味、真波よりめんどくさいよ」
「それでいいんです。箱根学園自転車競技部は、そういう生徒の集まりなんですから」
「さすが主将、頼もしい」
「いま名字さんは、銅橋と真波とお昼をとっています。名字さんに懐いたせいか真波も遅刻も少なくなっていますし、かばんを放り出して山に登ってそのまま帰宅することもなくなっています。名字さんのおかげですよ」
「名字さんを頼むよ、主将さん。こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、あの子の恋を後押ししてあげて。きっと入学してからずっと好きだった。一年近くも好きな人のそばに近寄らないようにしていたのは、すべて選手のためで……。選手もたまにはマネージャーに貢献してあげてもいいじゃない?」

 なんてね、と茶化して話を終えた篠崎は、笑って泉田の背中を叩いた。ファビアンが驚いて飛び跳ねる。

「はい。もちろん部活中はそんなことは出来ませんが、銅橋の気持ちによっては後押しすることが出来るでしょう」
「うん、ありがと。そうだ泉田、駅前のドラッグストアでプロテインがすごくお買い得になってたよ。これを伝えようと思って」

 じゃあね、と去っていく篠崎にお礼を言って頭を下げた泉田は、さきほどより曇ったガラスを見つめた。自分が早くなるためなら自身の肉体と向き合えばいいが、人の恋路ともなるとこのガラスのように不透明でよく見えない。部内の人間関係も同じだ。
 ガラスから離れて歩き出す。いまはまだ未熟でも、そのうち色々なことがもっとうまく出来るようになる。泉田はそう信じていたし、そう思っているからこその主将なのだ。

・・・

 その日の部活後でのミーティングは、マネージャーである名前も参加していた。翌日の部内レースの打ち合わせで、補給場所や選手のサポート、様々な事態への対応も細かく決めていく。泉田、黒田、葦木場のほかに真波と銅橋がいたのは、二年生をまとめる役回りを頼んでいるからだ。
 打ち合わせが終わると、外はもう真っ暗になり自主練をする時間も残されていなかった。練習後特有のゆったりした空気の雑談が交わされるなか、銅橋はお腹に手を当ててひとりごちた。

「腹減ったな……」
「ど、ど、銅橋くん!」

 名前が両手を握りしめて椅子から立ち上がった。突然のことで銅橋含め全員が驚いていることに気付かず、名前は瞳に銅橋しか映さないままさらに手を握りしめた。顔は真っ赤だ。

「よかったら焼豚食べませんか!」
「お、おう……」

 照れよりも驚きが勝った銅橋は、名前の発言の意味もわからないまま返事をした。銅橋がどういうことか尋ねる前に名前は焦りつつも迅速に動き、銅橋の目の前にタッパーが差し出された。きちんと割り箸もついている。
 開けてもいいのか、むしろ開けたほうがいいのか迷っているあいだに、ふたりの恋を見守る全員から開けろと目で脅された銅橋がタッパーの中身を覗く。そこには名前の言葉通り、焼豚が入っていた。

「これもらっていいのか?」
「う、うん! 昨日たまたま焼豚作って、よかったら……」

 寮生活で昨日たまたま焼豚を作るなんてことは、3年間で一度もない生徒のほうが多いに違いない。何度も味見や試行錯誤をして作ったであろう焼豚を差し出すのにどれだけの勇気が必要だったのか、泣きそうなほど震えている名前を見れば伝わってきそうだ。
 それなのに銅橋は「自分のために作った差し入れを渡された」ということに気付かずに立っている名前を見上げた。お小遣いが残り少なく、焼豚を食べられない日々が続いていた銅橋は単純に喜んだ。

「これ作ったのか? すげえな!」
「わ、わたしも焼豚好きだから」
「オレは好きでも作ろうと思ったことなんかねえよ」
「でも意外と料理上手そうだよ」
「意外とは余計だ。まあ、調理実習で作ったやつは普通に食えたな。今度食ってみるか?」
「たっ食べる!」
「んじゃ次の調理実習のときな。いただきます」

 きちんと両手を合わせて一口かじった銅橋は、素直に「うまい」と感想をもらした。名前が喜びに震える。何気なくもらした「うまいから一気に食っちまうのもったいねーな」という言葉にさらに震える。
 黒田は驚愕した。女子が、いや人類がこんな状態になるのを初めて目の当たりにした。しかも大抵の生徒に怯えられている銅橋相手にだ。

「わ、わたし、着替えてきます! 真波くん来て!」
「えー着替えるのにオレがいていいの?」
「真波くんはいいの!」

 手を引っ張って有無を言わさず出て行く名前は、部屋を出るときにきちんと「失礼します」と言ってお辞儀をした。そういうところを忘れないのが名前らしい。
 部室を出て行った名前を見て、銅橋は「やっちまった」と頭を抱えた。ようやく名前の行動の意味に気がついたのだ。そしておそらく、興奮を沈める話し相手として真波を引っ張っていった名前の気持ちも。
 名前のことが気になっていないわけではない。好意は嬉しいし、ただのマネージャーから気になる存在へと格上げされた。
 だが、まだ自分の気持ちが固まっていないのだ。まっすぐな好意を向けられることも慣れていない。どうしていいかわからないまま、このままずるずると名前に引っ張られそうな予感だけが銅橋の胸にうずまいていた。


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