両手で顔を覆った名前の横で、東堂は困り果てて空を仰いだ。

 追い出し走行会が終わって三週間、朝晩は冷えて鼻の奥が痛むような寒さも間近だと感じさせるようになっていた。冬休みはすこし先だが、受験勉強のために学校に来ていない3年も多い。
 そんななか、就寝前に自室でくつろいでいる東堂のもとへ珍しく名前からメールがきた。名前が東堂の連絡先を知っていたのはマネージャーと副主将という関係からだが、名前がマネージャーとして独り立ちしたあとも連絡する用事もないまま東堂が引退したため、メールがきたのは初めてだった。
 内容は、次に学校に来る用事があればその時に相談したいことがあるというもので、次の日先生と話すため学校に行く予定だった東堂はすぐにメールを返した。
 ライバルが海外へ行ってしまってからというものめっきり使用回数が減った携帯を閉じて、東堂は目を閉じて名前を思い浮かべた。名前が自分に相談したいと言い出したからには、かなりの事態だと覚悟して行かねばならない。部活関係で名前が頼るのであれば、泉田かもう引退したマネージャーである篠崎だろう。それなのに東堂に連絡した。つまりは、信頼できる篠崎や先輩、あるいは同級生には相談できないことだ。

 そのあと名前と何度かメールをやり取りして時間と場所を決めた東堂は、メールを見返した。文というものは美しくあとに残る大切なものであり、自分の感情を整理できる人類の英知だ。文字でも礼儀正しい名前のメールからは、それらが何も感じ取れない。
 メールではなく文をしたためてくれれば、という考えにツッコミを入れてくれる人物はここにはいなかった。

 そうして翌日、東堂は空を仰ぐことになるのである。
 東堂も忙しいだろうと、自身の恥ずかしさを抑え出来るだけ簡潔に呼び出した理由を説明した名前は、最後でとうとう耐え切れなくなり顔を両手で隠した。要するに、銅橋に自分の気持ちがバレていることに気づいていなかったらしい。三週間も。
 名前と銅橋の今後は、東堂を含めたあの場にいた3年も気になっていた。福富などは、毎日そわそわと名前は大丈夫だろうかと口にしていたほどだ。
 軽い牽制のつもりだった言葉は、たったひとりになってしまってもマネージャーとして選手を支えてくれた名前を傷つけ、重い鎖で縛り付けてしまっていた。繊細な名前の心は、目で銅橋を追ってしまうたびに自信を戒めていただろう。そんな名前だったからこそ、朝摘みのバラのような恋をそっと差し出したとき、その場にいた者は応援しようと思ったのだ。
 東堂ももちろんそのうちのひとりだ。名前と銅橋と真波の3人でお昼を食べるようになったことも、帰りにたまに3人一緒に帰っていることも聞いていた。だからこそ、すこしは発展していると喜んでいたのにまさかの展開だ。名前は変わらず顔を覆って下を向いている。あまりの恥ずかしさに顔を上げられないのだろう。

「名字さん、そのままでいいから聞いてくれ。男というものは単純で、女子から告白されたら嬉しくなってしまうものだ。それが名字さんのように我慢強く選手を支えてくれるような女性ならなおさらだ。オレは銅橋ではないから気持ちはわからんが、邪険にしていないのだから望みはあるだろう」
「……本当ですか?」
「ああ」
「でも、でもわたし、銅橋くんと話せるようになってまさかお昼ご飯まで一緒に食べられるようになるなんて思っていなくて、浮かれてて、あの時銅橋くんに、こ、告白みたいなことをしてるって、ずっと気付かなくて……」

 名前の声がふるえる。気弱だがはっきりと返事をする名前の声がふるえたのはあの日だけで、嫌な予感であふれていく。名前が泣いてしまっても、うまく慰められる自信はない。名前の心を軽くするのは銅橋ただひとりしかいないのだ。

「銅橋の恋が始まるのはこれからだろう。受け入れるにしろ何にしろ、銅橋はきちんと考える男だ。告白されたからといって安易に付き合うことはしないし、かといって自分の気持ちが定まっていないのに振るような男でもない」

 望みがあるといったのは、なにも名前を慰めるためだけではない。名前の気持ちがわかってから、一緒にご飯を食べたり話したり、以前より親しくなったのだ。迷惑だと思ったり付き合う気がまったくないのなら、そんな期待するような素振りは見せないはずだ。まあ、名前自身が告白をしたと気付いていないからどう接したらいいか迷っている部分もあるだろうが。

「……東堂さん、ありがとうございます。わたし、昨日の夜にこのことに気づいてしまってどうしたらいいかわからなくて……東堂さんに相談してよかったです」
「力になれてなによりだ。篠崎には相談したのか?」
「いえ、篠崎さんはわたしに好きな人がいるって知りません。それに、東堂さんは女のことはオレに聞けっていつも言っていたから、きっとわたしの気持ちもわかるだろうって」

 そういう意味でその言葉を使ったわけではないが、名前の気持ちが晴れたのならわざわざ言うこともあるまい。東堂は黙って立ち上がり、近くにあった自販機でジュースを買って名前に渡した。お金を払おうとする名前を制し、東堂は微笑む。

「相談してくれて嬉しいよ、ありがとう名字さん。名字さんと銅橋のこれからがうまくいくように祈っているよ」
「……東堂さんが祈ってくれると山神の加護がありそうですね」

 ようやく笑った名前に、東堂が胸をなでおろす。そして、この顔を銅橋に見せれば確実に意識させることが出来るだろうにと、銅橋の前では緊張しきっている名前を思い浮かべて笑った。


return
×