文化祭の華やかな空気が充満している廊下を歩くふたりのあいだは、ちょうどひとり入るほどあいていた。右を歩く銅橋の顔は緊張しきって前を睨みつけるように見ており、左を歩く名前は嬉しさで顔を赤らめてうつむいて廊下ばかり見ていた。 嬉しい、けれども何を話せばいいのかわからない。せっかくだから楽しみたいが、初めてのことでどうすればいいかわからない。 些細な気持ちの変化さえ肌で気づいてしまうほど神経をとがらせている銅橋に、名前は意識してやわらかに微笑みかけた。銅橋が大股ではやく歩くのはいつも緊張しているときだ。 「真波くん、すごかったね。文化祭にまでファンが来るとは思わなかった」 「あ、ああ。そうだな。名字との仲を疑ったときは怒鳴ってやろうかと思ったけどよ」 銅橋の歩幅が狭まる。名前の息がわずかに弾んでいるのを見て、一度立ち止まり、深呼吸してからふたりのペースで歩き出す。それは丸一年かけて掴んだ、ふたりの歩幅だった。 他校の生徒や、生徒の親などがやってくる文化祭は賑やかで、どこを見回しても人がいる。 さきほど、名前が交代の時間を見計らってクラスへ迎えにいった銅橋は、サボる口実とばかりについてきた真波の人気を思い知らされたばかりだ。名前とふたりきりで歩くと注目されるかもしれないと思っていたが、今日ばかりは真波を連れて歩いたほうが注目されそうだった。 「どこか行きたいとこはあるか? 友達と行く約束してるとこは外しとくか」 「そんな具体的に約束してないから、どこにいっても大丈夫だよ」 廊下の端で立ち止まり、ふたりでひとつの地図を広げる。銅橋は、名前と一緒ならばどこでもよかった。だからこそ行く場所に迷うのだが、名前とてそれは同じだった。銅橋といろんな思い出を作りたいが、笑う銅橋を誰にも見られたくない気持ちもある。 だが結局は、銅橋と文化祭を回れるという魅力には逆らえず、気になっていたお化け屋敷を指さした。体育館すべてを貸し切って行われるお化け屋敷は、かなり早い段階から噂になっていたのだ。 「こわいのは苦手だけど、銅橋くんと一緒なら」 見上げて笑いかけてくる名前のあまりに可愛さに、銅橋の息がつまる。これは早々に自分の気持ちを伝えてしまわなければ、あふれて身動きがとれなくなるだろうと、予知にも近い感情がこみあげた。 「んじゃ、そこに行くか。あと、黒田さんのクラスがたこ焼き出してるから、時間が合えばよってくれっつってたな」 銅橋が時計を見て、黒田から聞いていた時間と照らし合わせる。黒田が店番をするのはまだ先なことを確認して名前に伝え、先にお化け屋敷に行こうと提案した。 名前は頷いて、自分の希望が銅橋に受け入れられたことに安堵した。こういったことは初めてで、どうすればいいのかまったくわからない。 廊下を行き交う生徒たちは男女で歩いているものも珍しくはなく、名前たちが浮くことはなかった。だが、あきらかにお互いを意識しているぎこちない距離なため、察してしまうものも多かった。 実際、ふたりの近くを通りかかった悠人がクラスメイトに尋ねられ、お得意のひょうひょうとした笑顔ではぐらかしたばかりだった。自転車部の何人がこの質問をされているかと考えると、悠人はなんだか笑いたくなった。興味本位で尋ねるこのなかの何人が、この遅々として進まない恋を知っているというのだろう。 もちろん悠人とて、ふたりの歩みをすべて見てきたわけではない。だが春先から秋まで、ふとした拍子にふたりの視線が絡み合う様や、ふれそうでふれない手、なびく髪を愛しげに追う銅橋の雄弁に語る目を見てきたのだ。ふたりが恋を実らせたときにはぜひ祝って、ふたりを驚かせたいと計画していた。 そんな悠人の秘められた思いにこたえるように、ふたりはお化け屋敷の列に並んだ。人気だが、ちょうど昼をすこしすぎたということもあり、列はすいていた。早めの昼ごはんを、真波と三人で名前のクラスの喫茶店で食べてきたことが幸いした。 さほど待たずにお化け屋敷のなかに入ったふたりは、体育館すべてを使った大掛かりなものに圧倒された。暗幕を使って仕切られた体育館は、窓にも暗幕を貼って光を遮断しているため、外よりも蒸し暑かった。 「よかった、これならそんなに怖くなさそう」 暗幕を使っているとはいえ、漏れる光を完全に防いだとはいえない。ほのかに明るい体育館は、行く先で楽しそうな話し声や、笑いの混じった悲鳴などが聞こえる。 安堵する名前とは反対に、銅橋はすこしばかり落胆していた。高校生の文化祭だ、そこまで期待したわけではない。だが、ありがちな、飛び出してきたおばけに驚いて名前が抱きついてくるラッキーハプニングは起こらないだろうと、静かに諦めた。 ふたりが歩き出し、案の定、飛び出してきたおばけに驚きながらも笑って楽しんでいる名前を見て、銅橋は体育館を見回した。迷路のように仕切られて体育館のなかを順路どうりに進んでいるふたりは、いま壁際にいた。すぐ横の暗幕をめくってみると、銅橋の予想どおり、壁と暗幕のあいだは1メートルほどあいていた。 ちょいちょい、と手招きしてから暗幕の向こうへ消えた銅橋の行動に驚いたが、あとを追う名前に迷いはなかった。後ろの生徒に追いつかれる前にと、自分も向こう側へとすべりこむ。そこは何にも遮られていない日の光があり、眩しさに目を細める。壁の下に窓がついて、わずかに通る風が心地よかった。 「ちょっと休憩しようぜ」 「秘密基地みたい」 わくわくしながら名前が座ろうとして、銅橋とどれほど距離をとっていいものか悩む。ふたりの秘密基地はそれほど広くはなく、あまり暗幕の近くにいると誰かと接触するかもしれない。 名前はためらってから、いつもの部活の昼食より近い位置に腰をおろした。壁に背中を預けてとなりを見上げると、銅橋はいつもよりリラックスした表情で名前を見て微笑んでおり、名前も自然と笑い返した。 ここはふたりきりの秘密の小箱だ。まわりの目を気にする必要もない。いまだけは、自分の気持ちに素直になっていいような気がした。 それからふたりは、小声でいろいろなことを語り合った。誰かがそばを通ると声をひそめ、視線だけで会話してくすくすと笑った。 いままで、こんなに自然体で銅橋と接したことがなかったのではないかと、名前は光を受けてあわく輝く髪を見つめながら思った。これは、恋心を持つ者ではなかなかたどり着けない心境だ。 昨日の寮の食事に対する感想から、部員への辛口な意見まで、銅橋の声帯をふるわせてこの世にうみだされる言葉は、どれも甘美なものに感じられた。 名前も、会話が流れるまま、クラスのことや後輩のことなど、思いつくままにしゃべった。それらすべてを銅橋は心に刻みつけ、自分と違って細くやわらかな首を見つめた。ふれれば折れてしまいそうな存在が、このうえなく愛おしかった。 名前と銅橋が気が済むまで語り、喉が渇いたことをきっかけにまたお化け屋敷のなかへ滑り込んだ。先程まで明るい場所にいたため、目が慣れるまで時間がかかる。 ふたりの手の甲がふれあう。銅橋が、意を決して名前の指を握った。力をこめると折れてしまいそうで、わずかしかふれあっていないそれは、手をつないだというには惜しいものだったが、ふたりにはじゅうぶんだった。 お化け屋敷を出る直前までつないだそこは、数日のあいだ熱を持ち、お互いの頬をゆるめる結果となった。 名前とのあまりに甘く充実した時間に心を奪われてしまい、この日に告白する予定だったと銅橋が気づいたのは、文化祭が終わって数日後のことだった。 ← → return ×
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