去年仲が良かったクラスメートと離れたが、中学校からの友達と同じクラスになれた名前の二年生としての生活は、それなりに順調なスタートだった。また銅橋と同じクラスになれなかったのが残念だが、同じ教室に銅橋がいるだけで上の空になってしまうだろうから、これでいいのだと自分を慰めていた。
 銅橋は名前のとなりのクラスだった。見かけることも多くなったし、朝練が終わったあと、真波がいないとふたりで教室の前まで来ることもできた。そしてなにより名前の胸を貫いたのが、銅橋のクラスと合同でする体育の時間が定期的にあることだった。
 自転車以外のスポーツをしている銅橋の姿は新鮮で、いくら見ていても飽きなかった。数ヶ月ごとに取り組むスポーツも代わるため、これからバスケットや卓球、テニスなどをしている銅橋を間近で見られることに気づいた瞬間の名前は、頭が真っ白になった。

 はじめての合同体育で取り組んだものは、グラウンドを使ったサッカーだった。
 体格からすぐにゴールキーパーだと指名された銅橋は、名前の目には輝いて映って見えた。そこまでサッカーに思い入れはなかったが、これから先、サッカーでどこのポジションが好きかと聞かれたら迷わずゴールキーパーだと答えるような光景が目の前に広がっていた。
 守護神、とうっとりとつぶやく名前に視線を向けたのは、中学からの友達であるふたりである。名前が銅橋を好きだということを知ったのはつい最近だ。
 なにも言ってくれなかった寂しさと、銅橋に名前をとられたような感覚がしばらく心の片隅を占拠していたが、ヘタをしたら一生言い出さなかった恋を告げてくれたのだから応援しようと決意したのはつい先日だった。

 サッカーボールを蹴るところからはじめた女子と違い、早くも試合をしている男子たちは、体を動かせることが楽しくてたまらないというように、半袖の体操服で雑に汗をふいていた。銅橋もそうしてくれないかと見つめる名前に声をかけたのは、クラスメートの男子だった。
 今しがた試合を終えたらしく、汗でわずかに湿った髪が彼の運動量を物語っていた。名前のクラスは、女子も男子も比較的はやく仲が良くなった。先月末に行われたスポーツ大会が、このクラスに学校が期待した成果をもたらしたのだ。
 気温が上がり、もうすぐ梅雨がやってくる蒸し暑さを受け止め、彼は緑が鮮やかな木陰を探した。だが、どれもグラウンドのまわりにそってぐるりと植えてあるので遠くにあり、諦めて名前たちの前に座る。

「なあなあ、いまの流行の髪型なんだけど、ぶっちゃけどう思う?」

 彼は美容師を目指していた。女子にも髪型のアドバイスや簡単にできるアレンジを教えたりしているので、名前は明るい人気者として認識していた。
 彼は教師がそれぞれ試合に目を向けていることを確認し、雑誌の切り抜きをノートに貼り合わせたものを出した。そこには流行の髪型がずらりと並んでおり、髪色はどれも明るかった。
 友人たちが遠慮なく意見を言うのを聞きながら、名前は雑誌の切り抜きを見つめた。ファッション雑誌はたまに友達が買ったものを見せてもらう程度で、服の流行などもニュースで見る程度しか知らなかった。
 去年の秋から切らずにいる髪は、願掛けのようなものもあったが、銅橋からもらった髪飾りを使いたいために伸ばしているようなものだった。だが、長くてもこれだけ可愛い髪型があるのならば、イメチェンをしてみてもいいかもしれない。
 じっくりと見つめる名前に気づき、彼はさりげなくひとつの髪型を指差した。

「これなんてどう?」

 部活が第一で、手入れに手間がかかるパーマなどはかけないであろう名前にナチュラルなストレートをすすめると、名前は低くうなった。

「わたし、ちょっと毛がかたいっていうのかな、こういうやわらかな感じのは難しいと思う」
「そんなことないって、ブローと切り方次第でいくらでも出来る」

 髪型のアレンジがうまくいった経験のない名前の返事は色よいとは言えなかった。彼が思いついたように、名前の髪をさわって確かめてもいいかと聞くと、名前はしばし迷ったのち頷いた。
 銅橋からもらった髪飾りをはずして軽く髪を整えると、彼の手が遠慮がちにさわる。毛先と、地肌にふれない程度の場所を確認して、すぐに離れた。名前が髪をまとめる。

「言ってたほどじゃないよ。オレのほうがもっとかたい」

 冗談めかして言うと、名前の顔がようやくほころんだ。短い彼の髪が、なだめるのに時間とコツが必要だとわかるほど跳ねていたからだ。
 名前は、どの髪型がいいか決めきれないまま、もしかしたら切るかもしれないという程度の気持ちで授業を終えた。自分の髪型より、銅橋のことで頭がいっぱいだった。

 悩むくらいなら銅橋に直接好みの髪型を聞いてみればいい、というのは名前の友人の提案だった。名前は首を振ったが、大丈夫だと念を押され続けた。だんだんとその気になると、銅橋に話しかける理由ができたのに、それを無視することはできなかった。
 クラスメートに雑誌の切り抜きが貼られたノートを借り、名前がまず顔を出したのは真波のいるクラスだった。休憩時間になって寝ぼけ眼をこする真波が、手招きする名前に気づいてふらふらと出てくる。真波の好みである飴を渡し、一緒に銅橋のクラスに行ってほしいと頼みこむと、真波はあっさりと頷いた。
 ここで断ると、了承するまで名前のお願いが始まるのだ。いつもは真波が名前を振り回しているからか、こういったときの真波は素直だった。
 真波が銅橋のクラスを覗き込んで呼び出すころには、名前の心臓は落ち着かなく跳ね回っていた。どう切り出しても銅橋のことを意識しているということが伝わってしまう問いは、名前にとっては恐怖だった。もしここで冷たくされたら、この恋の行く先がわかるようで怖い。
 指が白くなるほどノートを握りしめた名前の前に現れたのは、不機嫌をなんとか漏れないように押し殺している銅橋の姿だった。名前の心臓が凍る。

 銅橋は、さきほどの体育の授業で、名前が見知らぬ男子に髪をさわられているのを見た。名前と同じように、密かに彼女の体操服姿やスポーツに打ち込む姿を期待していた矢先だっただけに、ダメージも大きかった。
 名前は自分を好きだという揺るぎない自信があった。だが、男子に気安く髪をさわらせるのは嫌だった。それは自分だけの特権のように思っていたのに。
 銅橋はそれが理不尽な怒りだと知っていた。嫉妬をぶつけるのなら、名前の好意を受け入れて恋人になるべきだ。それを選ばない自分が名前に言えることなど何もない。
 今すぐここを去ったほうがいいと直感で悟った名前が口を開く前に、真波のわずかに間延びした声が緊張した空気を震わせた。

「バシくん、名字さんがバシくんの好みの髪型を知りたいんだって」

 銅橋の視線が、名前の持っているノートへと移る。それが体育のときに見ていたものだと気づくと、もう胸にたまった嫉妬を抑えきれなかった。

「べつに、何でもいいだろ」

 突き放すような言い方をしてしまったことに気づいたが、どうフォローすればいいかわからず、銅橋は黙り込んだまま上履きを見つめた。このあいだペンを落としたところが、黒く滲んで汚れている。
 名前はノートを胸に抱き、なんとかショックを受けたことをごまかそうとした。名前の気持ちが手に取るようにわかるくせに、男のノートを抱きしめているのが許せず、銅橋はなにも声をかけなかった。名前が笑う。

「そうだよね。なんとなく聞いてみただけだから、気にしないで。銅橋くんも真波くんも、ごめんね。わたし、帰るね」

 早足で去ったほうがいいのか、それともゆっくり歩いて余裕があるように見せたほうがいいのかわからず、名前はふらふらと歩きはじめた。歩き慣れたはずの廊下が、雲のようにふわふわとして頼りない。踏み出すたび、ぐにゃりと歪むようだ。
 名前が離れたことを確認した真波が、いつもの声色で銅橋を責める。

「バシくん、今のはないんじゃない」

 黙りこむしかなかった。
 授業の暇つぶしに窓からグラウンドを見ていた真波は、事情を知って、それでもここまでついてきたのだ。世話が焼けるふたりだと、黒田が聞けばすかさず言いそうなことをつぶやき、伸びをするように両手を組む。

「はやく行っておいでよ。バシくんがそういう性格なの、名字さんはわかってるんだろうけど。でも、誰もインターハイのために他のことを犠牲にしろって、言ってないと思うよ」

 自由に走れと言ってくれた、最後まで勝てなかった尊敬する先輩のように。
 銅橋が駆け出す。一歩目でバランスを崩して不格好になったが、気にしなかった。息をきらせて、教室に入る寸前の名前の腕を掴む。驚いて見上げてくる名前の目が潤んでいて、銅橋は自分に舌打ちをしたくなった。泣く寸前の名前がどんな気持ちだったかと思うと、くだらない嫉妬で冷たくあたった自分がいかに矮小か、浮き彫りにされるようだ。

「……悪い。悪い、名字」
「そ、そんな、謝らなくていいよ。いきなり聞いたのはわたしなんだし」
「さっきは言い方が悪かった。何でもいいんじゃねえ。名字なら何でも似合うだろうし、もちろん名字が気に入った髪型だったらって意味で、だから、いちいちオレに聞かなくてもいいだろ」

 口早にまくしたてた銅橋は、ここが名前のクラスの出入り口付近だということをすっかり忘れていた。予鈴とともに数多の視線がそらされ、ようやく状況に気づいた銅橋は、顔を赤らめながらも腕を離さなかった。

「あー……名字、ケータイ持ってるか」
「え、あ、バッグの中に」
「だよな」

 自身も持っていないことを思い出し、どうしたものかと思案したが、胸ポケットに入れていたペンを思いだしてキャップを抜いた。何かないかと制服のポケットを探し回った結果、練習メニューが書かれたくしゃくしゃに丸められた紙を見つけた。できるだけシワを伸ばし、電話番号とメールアドレスを書くと、名前に押し付けた。

「オレの番号だ。あとで送ってくれ」
「え……え?」
「さっきの、きちんと言葉にして送る。オレは言葉遣いが悪ぃから、また誤解させちまうかもしれねえだろ」
「え、あ……」
「嫌なら捨てちまっていいから」
「捨てない!」

 前のめりで否定した名前は、銅橋との距離が近いことに気づいて慌てて離れた。一緒に銅橋の腕も離れていく。それを名残惜しく思いながら銅橋を見上げると、思いのほか優しい視線とぶつかって、息と時間がとまった。

「……ずっと言えなかった。オレのプレゼント、毎日使ってくれてありがとな」

 チャイムがなった。夢から覚めたように教室へと走り出す銅橋を見つめた名前は、その場にへなへなとしゃがみこみそうになるのを、手をついて必死にこらえた。やってきた先生が体調を心配したが、名前は首をふって自分の席へ座った。

 アドレスを交換するのは、恋のはじまりにすらならない、わずかな一歩だと考える人もいるだろう。だが、銅橋にとっては大きな意味をもっていた。
 いままで、期待させないようにすべて受け身だった銅橋が、初めて自ら踏み出した一歩。名前を離したくないと思わず踏み出したそれは、いままでの迷いを振り切るように、覚悟と決意を伴っていた。


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