「新開くん、ちょっといい?」

 振り向いた悠人の目に映ったのは、ひとみに色恋を浮かべていない、純粋な後輩として自分を見ている名前の姿だった。

 入部してすこしばかり慣れてきて、新しい友達との関係もまだ手探りの季節。先輩たちの名前を覚え、ぼんやりと関係がわかってきた新入部員のなかで、名前はほどよく話題にあがる人物だった。
 よく会話して一緒に昼食をとっている真波とは恋人だともっぱらの噂だったが、名前を一躍有名にしたのは、サボりがちな先輩を一喝したからだった。洗濯を気弱な新入部員にさせようとしたことを知った名前は部室に乗り込み、いつもの静かな雰囲気とは一転、目を怒りで焦がしながら立ち向かった。

「マネージャーがいる以上、雑用はすべてマネージャーがします。わたしがいるかぎり、今後いっさい、選手に雑用はさせません!」

 次は我が身かと怯えていた新入部員たちの信頼が、一気に名前へと集まった瞬間だった。
 その後、後輩に洗濯をするように命じた三年生は真面目に練習をするようになった。そこでなにがあったかは、主将である泉田と、心を入れかえた当人しか知らない。
 そしてその当人は、バレンタインの日に名前のバッグを奪おうとした人物であることは、名前しか覚えていないことだった。

 今年入部したマネージャーはふたりで、華やかさには欠けるが責任感があり、名前の意思を継ぐことを想像させた。そのふたりにも信頼されている、目立たないが時折誰よりも注目を浴びるマネージャー。
 兄からも存在を聞いていた名前と悠人が話すのは、実はこれが初めてだった。
 入部してから腫れものを触るように扱われていた悠人だが、つい先日、葦木場との勝負によりようやく箱学の一員として歩みだしたばかりだった。だから話しかけてきたのかと振り向いて名前を迎え撃つが、名前は無造作に距離を縮めるだけだった。

「新開くん、毎日残って練習してるよね。自主練の前にボトル出しといてくれたら、新しいの入れておくから」

 淡々と伝える名前は、愛想笑いさえしない。
 悠人の様子をうかがいにきたわけでも、狙いに来たわけでもなく、ただ用事を伝えにきただけ。それを裏付けるように、名前は悠人からの質問がないことを確認してから踵を返した。
 これは兄から聞いていたとおりの人物だとわずかに興味がでてきた悠人の考えを断つように、向かいから声が聞こえた。

「あっ名字さん、いた!」

 真波だ。ぴょこぴょこ跳ねる髪の毛の向こう側に、相変わらずの仏頂面をした銅橋がいる。
 悠人は、立ち去るタイミングを逃した後輩を装い、わずかに名前から離れた。名前の顔が輝き、悠人がいることが頭から抜ける。

「名字さん、これからたこ焼き食べに行かない? 泉田さんにおいしいとこ教えてもらったんだ。バシくんも一緒に行くから」

 なんでだよ。そこは銅橋さん置いて二人で行けよ。
 危うく口から出そうになった言葉を飲みこみ、悠人は視線だけ名前へ向けた。さぞかし複雑な顔をしているだろうと思ったが、名前の顔は喜びできらめいていた。

「わたしも行っていいの? ふたりとも、これから自主練があるんでしょ」
「今日も朝からずっと練習だから、なにか食べないと持たないよ。帰ったらバシくんと山登るんだ」

 わくわくしている真波とは違い、銅橋は心なしかげんなりとしている。ふたりで勝負するとなると基本山で、じゃんけんでコースを決めてみても、そういったときは必ずといっていいほど真波が勝つので、銅橋はもう諦めていた。

「じゃあ、たくさん食べないとね」

 名前がくすくすと笑う。そんな名前を見て、いままで黙っていた銅橋が手を伸ばした。大きくあたたかい手が伸びてきて、名前は驚いて銅橋を見つめる。

「髪、なんかついてるぞ」
「えっうそ、やだ」

 慌てて髪に手を伸ばした名前を止め、銅橋はそっと結わえられた髪へと手を伸ばした。真波がひょいっと覗き込む。

「あ、虫だ」

 名前の肌がぞわりと粟立ち、硬直する。今のうちにと、銅橋はちいさな虫を取り除き、手を何度かふってそれを逃がした。わずかに震えている名前の髪をもう一度調べ、もう何もいないことを確認した銅橋は、すこしばかり迷ったあとほんのすこしだけ髪をなでた。
 名前の髪は、日に焼けても傷んでも気にしない銅橋のものとは違い丁寧に梳かれ、日に当たるとつややかさが際立った。毛先は軽やかに風と遊び、漂ってくるのはシャンプーのにおいだろう。

「もう取れたぞ」
「あ、ありがとう。ごめんね」

 好きな人の前で虫を髪につけてしまったなんて、恥ずかしくてたまらない。赤くなってうつむく名前に、銅橋は眉間にしわをよせた。女心というものがわからない銅橋でも、女子は頭に虫がついているのは嫌だということはわかる。
 人が見れば機嫌が悪いのだろうと敬遠する顔だったが、真波は気にしていない顔で成り行きを見守る。どう言えば名前が立ち直るかと銅橋が思案しているのが、眉間に刻まれた困惑ですぐにわかるからだ。

「あー……たこ焼き、食いに行くか」
「うん」

 名前はうつむいたままだ。

「ちょっと距離あるみてえだから、寮のやつのママチャリ借りてくぞ。名前は後ろに乗れよ」

 勢いよく顔をあげた名前の目が、木漏れ日の光できらめき、驚きで揺れる。
 名前が自転車を持っていないことを話したのは、日常のたわいない会話の、一分程度のことだ。それも、その会話をしたのは、名前の記憶が正しければ去年のことだ。もしかして真波の提案かと名前が納得しかけたとき、銅橋が追い討ちをかける。

「チャリ持ってねえんだろ。あ、もしかして買ったか?」

 名前の瞳に、ぽうっと恋が灯る。心を平穏に保つため、かすかに震えている手を胸の前で組み、なんとか首を振る。それはまさしく恋する乙女だった。
 部活のあいだ、気付けば燃えてしまう恋を漏れないように漏れないように、すべて内側へ包み込んできた。昼休みや部活終了後以外は、用事がないかぎり自ら銅橋へ話しかけることさえしなかった。
 仲がいいように見える三人だが、男同士の会話には入れず、頷くだけのことも多かった。こんなふうに誘ってもらえるなんて思っていなかった名前は、できるだけ平静を装って、声が震えないように注意して口を開いた。

「でも、わたし、重いよ。わたしが漕ぐね」
「オレのほうが重いだろうが」
「えっ、銅橋くんがママチャリ乗るの?」
「こいつが、名字を後ろに乗せてロードバイクの何倍も重いママチャリを漕ぐか?」

 指をさされた真波は、悪びれた様子もなく、そのとおりだと笑いながら頷いた。たしかに真波がそんなことをするわけないと納得した名字は、すぐさま恐ろしいことに気づく。そうなれば、残されているのは、銅橋と二人で自転車に乗るという選択肢のみだ。
 ダイエットなどしていない。そもそも自転車に二人乗りをしたことすらない名前が、いきなり異性の、それも想い人と乗るというのはハードルが高すぎた。

「おっ、重いから! 本当に重いから!」
「重くねえって」
「で、でも」
「本当に重くねえ。初詣んとき言っただろ」

 名前の脳裏に、階段での銅橋の近さや、少年のような笑顔がめまぐるしく駆け巡る。顔が燃えるように熱くなった名前は、頷くことしかできなかった。
 よく考えれば、日々を自転車で速く漕ぐことに捧げている人にサドルを譲ったほうがいいし、銅橋を乗せて漕ぐには名前の脚力が足りなかった。

 この展開に一番驚いていたのは、二人乗りに心臓が壊れそうなほど緊張している名前でも、早く終わらないかとたこ焼きのことを考えていた真波でもない。
 悠人だった。
 そっちかよ! 真波さんじゃなくて銅橋さんかよ!
 名前は真波と話しているところがよく目撃されるが、銅橋と話しているのは見かけなかった。だから真波のほうが仲がいいのだと、恋人なのだと、悠人は噂を信じかけていた。
 違う。逆だ。好きだから、話しかけないんだ。

 いままで黙っていた真波が、自然に、ずっとそこにいたのを知っていたように悠人へ顔を向ける。黙って人差し指を口にあて、しーっとしてみせる真波の目は、こどものように浮かべている笑みとは裏腹に、静かでおだやかだった。
 悠人が頷く。そうっと後ずさりして、ケータイを取り出してから、わざと音をたててジャージのポケットへと突っ込んだ。

「名字さんすみません、いきなり電話がかかってきて向こう行ってました。お話、途中でしたよね」

 大げさなほど体が跳ねたのは名前だけではない。名前しか目に入っておらず悠人がいたことすら気づいていなかった銅橋は、嫌な音をたてて存在を主張する心臓を、服の上から押さえた。まさか見られていたのか、と探るように悠人へ視線をやった銅橋の心臓をなだめるように、名前が出来る限りおだやかな声をだした。

「ううん、もう終わったから。練習するなら水分補給を忘れないでね」
「はい。それじゃあ」

 軽く会釈をして去っていく悠人は、背中に焦げ付くような視線の熱さを感じながら、それを振り払うこともせず堂々と歩いた。
 なんとなく嬉しかったのだ。たまに冷酷に見えるマネージャーが、誰かを一途に想い続けて、二人乗りであれだけ緊張してしまう初々しさが、なんとなく嬉しかったのだ。花屋に並べられた、香りや華やかさで人を惹きつけるようなものではなく、野に咲いているようなそれが、なぜか心地よかった。

 悠人がボトルにスポーツドリンクを詰め終えたころ、三人はようやくたこ焼きを食べに出発していた。ブレザー越しに銅橋の体温さえ感じ取れてしまうような距離に、名字は体も心も思考停止していたが、銅橋の一言で動き出す。

「きちんと座れ。んで、ちゃんと服掴め。落ちるぞ」
「そうだよ名字さん、早くしてよ。オレもうお腹ぺこぺこなんだから」

 掴んだ服の感触も、沈みかけた太陽の光を反射する髪も、前が見えないほど大きく鍛えられた背中も、制服のズボン越しに見たペダルを漕ぐ脚も、すべてを忘れないだろうと、名字は悟った。
 坂道を下る三人の笑い声をすくうように風が吹き抜けて、春の淡い空へと運んでいく。この一瞬は、すぐに過ぎ去る、けれど青春を彩る大切な永遠のひとかけらだった。


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