バスはこまめに停車し、人が降りてはまた乗っていく。正月だからかバスのなかはわずかに浮ついたような空気が漂っていて、ふたりの会話も気にされることはなかった。
 ふたりきりだというのに自然体に近い状態でいられるのは、銅橋が本心を語ったからだ。名前は銅橋とふたりきりのときには珍しく、緊張しすぎずやわらかな笑みを浮かべて、ゆったりとした時間を紡ぐように話した。

「お正月に実家に帰ったら、久しぶりだからってたくさんわたしの好物を用意してくれていて、食べすぎちゃった。お正月太りってあるんだね」

 たいして気にしていないように語る名前は、銅橋の目から見て太っているようには見えなかった。
 銅橋は、テレビに出ているタレントや女優などの細さは好みではなかった。ジッパーを壊す自分の力であんなに細い腕を掴んだら、きっと折ってしまう。それに、臓器がきちんと入っているかわからない体の薄っぺらさを見ると、スタイルがいいだとかそういうことを考える前に「きちんと食え」と思ってしまうのだ。
 だから、太ってしまったという名前の体型が、銅橋にとっては好ましかった。これが、名前のような体型が好きなのか、名前だからこそ好きなのか、本人は自覚しないまま口を開く。

「べつに太ってねえだろ」
「ありがとう」

 名前の返事はなめらかで、さきほどの言葉をお世辞ととっているのが、こういうのに疎い銅橋でもわかった。だが、ここで言い募ればとんだセクハラである。
 どう言えば正解なのか銅橋が悩んでいるうちに、名前が銅橋に正月の生活についてたずね、話題が変わっていく。今晩になっても思い出すであろうわずかなしこりを残したまま、バスは目的地へと到着した。
 ふたりでバスをおり、すぐ目の前にある神社への道を歩きはじめる。まだ三が日だからか人も多く、はじめてくる神社だが人にあわせて歩けば迷うこともなさそうだった。
 こういうシーンに慣れていない銅橋だが、名前を気遣うことは忘れなかった。慣れない靴で歩く名前にあわせて進む速度は遅く、ひとに抜かされようとも気にしない。名前にそれを気づかせないように、銅橋は話が途切れないよう気をつけた。

「正月ももう終わりだけど、振袖のやつもいるんだな。オレは袴なんて着ようと思ったことねえけど」

 銅橋の言うように、少し前にあでやかな振袖がみっつ見えた。友達で示し合わせて着てきたようで、三人のうら若い娘が、冬の暗い色合いのなかひときわ目立ってみえる。
 名前が自分の服装を見下ろす。どれもお正月休みとお年玉を利用して、この日のために揃えてきたものだ。だが、振袖にはどうやったって敵わない。着ようと思えば着れたかもしれないが、振袖なんて気合いが入りすぎた格好をしてくれば引かれるのは明白だった。
 あんなにうきうきと選んだ服が、とたんに沈んで見える。浮かれているのは自分だけだと、わかりきっていたことを改めて突きつけられたような気分になった。

 階段にさしかかり登りはじめると、いままで名前の右横にいた銅橋が斜め後ろに移動した。わざと一段さがって登る行動に、名前はますます落ち込んだ。もしかしたら、並んで歩きたくないのかもしれない。
 名前の内面をそれなりに理解し、頑固だということもよくわかっている銅橋には、名前が落胆しているのが分かった。なぜ落ち込んでいるかはわからないが、自惚れるなら、自分が並んで階段を登らないこと以外思い当たらない。
 鼻までマフラーに埋め、すぐそばに人がいないことを確かめてから、いつもより一段ぶん近くにある名前の顔を見つめた。今日はふたりきりだからかやたら気恥ずかしいことが多いが、それを飲み込んででも、今日の出来事を気まずく嫌な思い出にしたくはなかった。

「……今日、名字はスカートだろ」
「え? う、うん」
「学校の階段より長ぇし、コートで隠しきれなかったら、その……」

 自分が恥ずかしいことを言っていることにようやく気づいた銅橋の言葉が、聞き取れないものになってマフラーに沈んでいく。名前もようやく銅橋が自分のスカートを気にしてくれていることに気づいた。恥ずかしさはなく、驚きと、銅橋の優しさにふれた喜びに包まれる。

「ありがとう。制服のスカートより長いし、大丈夫だと思うよ」
「んなのわかんねえだろうが。覗き込むやつがいたらどうすんだよ」
「そんな変質者、すぐに捕まるよ。でもそんなに気にしてくれるなら、やっぱり……」

 振袖のほうが、と言いかけた口を慌ててつぐみ、名前は階段を一歩登った。銅橋も一段登る。

「やっぱり、なんだよ」
「えー、と……振袖、可愛かったなって」

 観念してさきほどから気にしていたことを話すと、銅橋はあっさりと頷いた。

「名字も成人式のときに着るんだろ?」
「たぶん着ると思うけど」
「オレもそのときは袴でも着るか。そんときのお楽しみとしてとっとこうぜ」

 銅橋は笑った。ロードバイク関連で見せる、不敵でぎらついた勝利を得た男の顔ではない。高校生らしい、友達との会話のなかで見せる少年の笑顔だった。
 よろめいた名前を銅橋が支える。どうかしたのかと慌てる銅橋に「笑顔にやられた」と言えるはずもなく、名前は首をふって「成人式、楽しみだね」とだけ言った。
 しっかりしているくせにどこか危なっかしい名前の一面を思い出し、銅橋は内心後ろに陣取っていたことに安堵した。危なっかしいのは自分の前だけだということが薄々わかりかけているからなおさらだった。しっかりしていて頼れる名前が時折みせる、この危うげで支えないといけないと思わせる言動をしたときに名前を守れるのは、自分しかいないのだ。

 名前の動悸もおさまり、なんとかふたりで賽銭箱の前までたどり着くと、さすがにそこは人が多くごった返していた。はぐれないよう注意しながらお賽銭を投げて手を合わせると、今日の目的は終了だ。
 人の多さにおみくじを買うことを断念したふたりは、慣れてきた寒さのなかゆったりと歩いた。銅橋がふと尋ねる。

「なに願ったんだ?」
「人に言うと叶わないんだよ」

 くすくすと笑う名前は、自分でそう言ったくせに願いを言うことに抵抗はないようだった。銅橋ではなくまっすぐ前を見て、凛とした声は人ごみのなかよく通った。

「箱根学園自転車競技部のインターハイ優勝。何事もトラブルなく、選手が全力を出せますようにって」

 銅橋の願いも同じだったが、いまはそれを言うどころではなかった。頭を思いきり殴られたようなショックに、銅橋の目の前がちかちかする。
 なんとなくだが、名前は自分との恋がうまくいくようにと願うような気がしていた。そう願うと根拠なく信じて疑いもしなかった。恥ずかしさで顔もあげられない銅橋に気付かず、名前が付け足す。

「とはいっても、神頼みで優勝したくはないし、トラブルがあっても乗り越える強さをみんな持ってるし……ううん、違うかな。トラブルや全力を出せない場面があっても、それを力に変えていく選手ばかりだから、本当はわたしの願いなんて必要ないものなんだと思う」

 銅橋も前を向いた。恋愛のことばかり考えているわけではないから、名前を好ましく感じるのだ。自分の勘違いは恥ずべきことであっても、それを名前に悟られてはいけない。

「そうだな。今年は優勝する」
「うん、信じてる」
「ゴールで待ってろよ。オレはインターハイメンバーに選ばれてやる。マネージャーひとりだと山ほどやることあるぞ」

 にやりと笑って言うと、名前も同じように笑った。まるで選手のような貪欲な目に、銅橋がブハッと吹き出す。それは間違いなく好敵手に向けるもので、恋している相手に向ける目ではない。それが面白いと感じるあたり銅橋と名前は気があっているのだが、恋愛に疎いふたりはそのことに気づかない。
 来た道を戻る途中で階段をおりる場面になると、来たときとは逆で銅橋が先におりはじめた。エスコートされているようでこっそりと喜ぶ名前の背中を、急いでおりてきた参拝者が押した。平坦ならばよろける程度で済むが、いまは慣れない靴で階段をおりている途中だ。
 落ちる、と名前が直感的に悟った未来は、銅橋の手によって救われた。太く鍛えられた腕はやすやすと名前を支え、銅橋は舌打ちしながら押した犯人を睨みつけるが、名前に危害をくわえたことすら気づかない背中は急いでおりていく。階段を一段おりただけで済んだが、名前の心臓はまだ嫌な音をたてて危険が去ったことを受け入れられずにいた。

 銅橋の腕に支えられていると気づいたのは、名前と銅橋をよけておりていく参拝者の視線が集中していたからだった。まだ怒りがおさまらない銅橋は追いかけていって怒鳴りたかったが、名前をおいていくことも出来ずにその場で歯ぎしりをしていた。
 銅橋の怒りが溶けて消えたのは、名前を支えている腕に、そっと控えめに手が添えられたからだ。最初はなんの感触かわからなかったが、振り返って名前の手が置かれているとわかると、頭が爆発した。嬉しいような恥ずかしいような、あとから思い出せば分厚いコートが邪魔だと思うような瞬間は、銅橋の怒りを消すのにこれ以上ないほど有効な手段だった。

「ありがとう。わたしなら大丈夫だから」
「でもあいつ謝りもしねえで」
「だから、次会ったらぶっとばそ」

 名前の口からそんな言葉がでてくると思っていなかった銅橋は、目を丸くしたがすぐに笑いだした。爆笑ともいえるそれに名前は驚いたが、銅橋の笑いに釣られて控えめに笑いだす。
 ひとしきり笑った銅橋は、まだ腕が名前にふれたままだと気づいて慌ててのけた。名前は残念に思ったが、顔には出さずもう一度お礼を言った。
 ふたりのあいだに気恥かしさが漂う。それから銅橋は、ハッとして名前に詰め寄った。

「重くねえから!」
「え?」
「全然重くなかったぞ! もっと食え!」

 バスのなかで言った正月太りのことを気にしていると気づいた名前は、思いきり吹き出した。
 こうして、ふたりを知る者からすればお互いの心情が手に取るようにわかるデートは、肝心の本人たちがデートだと認識しないまま、確実に距離を縮めて終わったのだった。


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