名前からもらった深緑色のマフラー越しにしのびよってくる寒気に身を震わせて、銅橋はよく晴れた空を見上げて白い息を吐いた。分厚いコートに、身に馴染んだジーンズとスニーカー。時刻は午後12時45分。一緒に初詣をする約束をしていた銅橋は、名前がやってくるのを待っていた。

 事の始まりはクリスマスイブのことだ。銅橋のあげたプレゼントに名前は泣きそうになりながら喜び、さっそくその場で飾りのついたゴムで髪を結んでみせた。なにがいいかわからず三つ包んでもらったどれもを可愛いと名前が本心から言うので、銅橋は内心ほっとしながら名前を見つめた。きらきらした夢であふれている店で、場違いなのを承知しながら一時間もかけてプレゼントを選んだ甲斐があるというものだ。
 名前から銅橋へのプレゼントは、深緑色のマフラーだった。さわってすぐ上質なものだとわかるそれに、銅橋は慌てて自分が贈ったものを見た。どう見ても釣り合わない。自分の用意したものは千円に満たない程度だったが、名前のこれは千円札が何枚も飛んでいくものだ。なんとかこの差をうめようと銅橋がだした答えは「プレゼントのお礼に自分がなにかできることがあったら言ってほしい」だった。
 名前が目をぱちぱちと瞬かせ、その茶色がかった澄んだひとみの美しさに銅橋がはじめて気づいたとき、そのひとみは睫毛によって遮られた。首をふって、プレゼントをもらえただけでじゅうぶんすぎると言われた銅橋へ助け舟を出したのは真波だった。

「いいじゃん、せっかくだしバシくんになにか言いなよ。オレ、あとで名字さんの泣き言聞かないよ」

 名前が言葉につまったのは、じゅうぶんに泣き言を聞いてもらっている自覚があるからだ。銅橋と話した日は必ずといっていいほど「どこか変じゃなかったか」「こうしたほうがよかったんじゃないのか」と真波に尋ね、ついでとばかりに本日の銅橋のかっこよさについて語る名前は、真波に頭が上がらないのだ。

「……お正月明けの練習は四日からはじまるから、三日に帰ってくるよね? そのときに一緒に初詣に行ってほしい、んだけど……」

 名前の声が尻すぼみになって消えていって、銅橋がなにか言おうものならすぐさま謝って取り消さんばかりの雰囲気が漂う。銅橋は名前を見下ろして、純粋に不思議に思った。
 名前が部活で指示をだすときや普段の働きで、こんなふうに自信がないような、歯切れの悪いことを言うのを見たことがないからだ。目立たずめったに意見など言わないが、口に出したことは撤回せず、先輩相手でも順序だてて理詰めで説明した。
 銅橋は自身を根拠なく信じこんだり高評価したりしない。いつだって自分を支えるのは毎日の積み重ねだ。だが、このときばかりは自惚れるしかなかった。告白の返事を待たせている自分を、モテるどころか人に好かれることさえ通常より少ないであろう自分を、この世の誰よりなによりかっこいいと好いてくれているのだ。

「……いいぜ」
「えっ」
「三日は午前に帰ってくる予定だから、午後からでいいだろ。名字は何時に帰ってくる予定なんだ?」
「ま、まだ決めて……る! 午前に帰る!」
「無理しなくていいんだぜ」
「してない!」
「んじゃ、午後一時に寮の門のとこで待ち合わせな」

 名前は何度も頷き、信じられないように真波を見た。自分の都合のいい幻じゃなく真波も聞いたかと問う視線に、真波はへらっと笑って頷いた。ほとんど流しつつも名前の「本日の銅橋の報告」を聞いているのは、ふたりの会話は、聞いているだけでなんとなく嬉しくなるものだからだ。
 名前が銅橋を見上げる。そのひとみの美しさに気づいてから、ようやくふたたび見ることのできたそれは、嬉しさで潤んでいた。

「ありがとう銅橋くん!」

 あれ、名字ってこんなに可愛かったっけか。
 銅橋の胸にぽつんと落ちた疑問を知る者がいれば、全力で叩いて伸ばして大きくしていただろうそれは、小さいけれども落ちることなく染みついた。

 こうしてふたりで初詣することになったのだが、自分から言い出したことなのに、銅橋は落ち着きなく見慣れた景色を見ていた。名前は10分前にはきているだろうと15分前に来たのだが、はやく来ると緊張して時間を持て余すばかりでいいことがない。とはいえ、時間ぴったりに来るとしても待ち合わせ場所ではなく自室でそわそわするだけなのだから、場所が変わるだけの話だが。
 銅橋にとっては倍以上の時間に思えた三分後、名前が小走りでやってきた。コートから見えるスカート丈は短く、いつも見ている制服のスカートよりは長いはずなのに、私服というだけで新鮮にみえる。黒いタイツにブーツ、髪には銅橋にもらった髪飾り。いつもと違う名前の姿に、迷わず慣れたスニーカーを選んだ自分が急に恥ずかしくなったが、そんなことを気にしている余裕はない。

「ご、ごめんね、待たせちゃって」
「まだ待ち合わせ時間になってねえだろ。走らなくていい」

 乱れた前髪をかるく整えた名前と並んで歩き出した銅橋の目的地は、学校前のバス停だ。ふたりが初詣にいく神社はここからすこし遠く、ロードバイクでいけばすぐだが、持っていない名前のことを考えてバスで行くことにしたのだ。もしこの話をきいていれば、名前がロードバイクを持っていなくてよかったと心から安堵する者は多かったに違いない。
 バス停についたふたりは時間を確かめ、バスに乗って30分ほどの場所にある神社について話しはじめた。箱根には非常に有名な神社があるが学校からは遠く、常勝箱根学園が負けたインターハイのコースの近くで、縁結びで有名なのだ。いろいろと気まずいしなにより往復に時間がかかるということで名前が提案したのは、有名ではないがそこそこ大きく地元のひとに愛されている神社だった。

 バスが到着し、ふたりが乗り込む。席は八割ほどうまっていて、ちょうど二人がけの席があいていた。名前がそこまで歩いていって、銅橋に問いかける。


「ここ座る?」
「おう」

 名前が窓際に座ったが、銅橋は座る気配がない。バスのドアが閉まり、発車する。

「銅橋くん?」
「オレはいい」

 バスの座席はせまい。体の大きい銅橋はどうやったって名前にふれてしまうだろう。銅橋は構わなかったのだが、そう、銅橋自身はべつに構わなかったのだが、名前の腕につねに腕がふれている状態になろうが、顔がかつてないほど近くにあろうが、銅橋は構わなかったのだが、名前がどう思うかは別だった。
 もしふたりしてぎこちない空気になって気まずくなってしまったらという、銅橋の恥ずかしさを盾にした言い訳を吹き飛ばしたのは、名前の悲しそうな顔だった。
 傷ついて悲しくさみしい、でもとなりに座ってくれないのも当たり前だ。名前がそんな顔をしたのはほんの一瞬だった。銅橋の心情に気づいて思わず出てしまった一瞬をすぐに取りつくろい、名前はいつもと変わらぬ笑顔で銅橋を見上げる。

「うん、わかった」
「……やっぱり座る」

 驚く名前がわけもわからないまま窓際に体を寄せると、銅橋が窮屈そうに席に座った。脚は伸ばせないどころかむりやり折りたたんで押し込めていて、体もみっちりと詰まっている。あきらかに無理をして詰まっている銅橋にうろたえる名前を見ず、銅橋は前をむいたまま頬をわずかに染めた。

「だから……くっつくだろうが」
「え?」
「か、体がくっつくだろうが! だからその……恥ずかしかったんだよ」

 名前の傷を癒し、となりに座りたくないという誤解をとくためには本当のことを話すしかない。腹をくくった銅橋の言葉は、名前の胸にじんわりと広がってあたためた。恋が染み込んでいく感覚は何度味わっても慣れることはない。自分が他人に侵食されるようなのに、それが心地よくて溶けてしまいそうになるのだ。
 名前はただ首をふって気にしていないことを伝えた。言葉はなくとも伝わった銅橋は、窮屈で絶え間なく揺れるこの席が、世界で一番の場所のように思えた。そして、バスがカーブを曲がり名前のほうへ傾くたびにふれる体の柔らかさを、脳が勝手に忘れないよう刻みつけていくのだった。


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