テスト前一週間になると部活は禁止となり、校舎に残っている生徒もぐっと減る。もう年越しも目の前のせいか、まだ夕方になりかけた時間なのに教室の窓の外は暗くなりかけていた。
 真波に勉強を教えることを当然と思っていた宮原は、向かい合って寄せられた4つの机を見やった。宮原の前には真波、左横には名前がいた。名前の前には銅橋がいて、それぞれ前に座っている男子生徒に勉強を教えている。
 どうして真波と宮原のクラスで勉強会をすることになったかというと真波の勢いと言うしかないのだが、自分ひとりでは自由な真波をおさえていられなかっただろうから、名前がいてくれてよかったと宮原は思う。それと同時に、ほんのすこしばかり嫉妬していた。

 真波が心を許して懐いている女子。それは本当に珍しく、ほかにそんな人がいたか思い出そうとしても浮かぶのは男子の顔ばかりだ。その位置を勝ち取る名前がうらやましかったが、勉強をはじめて少したつとすぐに理由がわかった。
 名前は銅橋に恋をしているのだ。ていねいに教える声にはやさしさが含まれていたし、ときおり顔をあげては真剣な銅橋の顔を見て嬉しそうに睫毛を伏せる。銅橋の動作ひとつ、消しゴムのカスすら大切なもののように扱っている。
 名前は顔がよく愛嬌のある真波に、恋愛のひとかけらも持たず単純に友達として接している。だから真波も、名前をこの先変わることのない大事な友人として認識しているのだ。
 居眠りをはじめた真波をおこしながら、宮原は眼鏡の位置をあげて時間を確認した。テスト勉強をはじめてから、まだ20分しかたっていない。予測はしていたことだが、もうすこし粘ってほしかったというのが本音だ。こうなった真波がやっかいだということは、長年勉強を教えてきた宮原には嫌というほどわかっていた。

 宮原の心境とは反対に、名前は体が宙に浮いているようなふわふわとした気持ちで椅子に座っていた。部活が休みだと、銅橋に会える確率はぐっと減る。名前と銅橋はクラスが違うため一日に二度見かければいいほうで、部活で銅橋に会えることを心の支えにしていた名前は内心落ち込んだ。
 銅橋のクラスを訪ねる度胸などなく、かといって来るかわからない部室で待っているわけにもいかない。テストが終わり部活がはじまるまで銅橋と話すことはできないと落ち込んでいただけに、喜びもひとしおだった。

 きっかけは真波だった。テストが終わるまでに提出しなければいけないプリントの束をかかえて、宮原は真波の姿を求めて校内を探し回っていた。大量にたまったプリントは、かなり頑張らなければ終わらせることができない量で、真波が頑張らないのを知っているからこそ宮原は必死だった。
 そのころ銅橋は、宮原がどれだけ探しているか知らず気の向くまま校内をふらふらしている真波を見かけた。見かけただけで声はかけず、テスト期間だというのに相変わらず地面に足がついてない雰囲気だとすぐに目をそらした。
 その五分後、宮原と出会った。宮原は銅橋の素行の悪さをきいていたためすこし怯えたが、真波の友人ということを思い出して思いきって声をかけた。

「あ、あの、さんがく……じゃなくて真波くん見なかった?」
「真波なら、さっきあっちのほうへ歩いていったぜ」
「あっありがとう! もし見つけたらわたしが探してたって伝えておいてくれる?」

 頷いた銅橋は、宮原の抱えるプリントを見て持つのを手伝おうかと言いかけて一瞬躊躇した。自分のことを怖がっている相手を余計怖がらせてしまうのでは、という経験からくる不安が胸をよぎったとき、浮かんだのは会ったときからまったく怖がらない名前だった。
 数秒の空白のあいだに宮原はもういちどお礼を言って、スカートをひるがえして走っていってしまった。もう呼び止めることはできない。
 銅橋がいまだに校内にいたのは、ノートを提出するためだった。提出日に寮において持ってくるのを忘れてしまったノートを職員室まで届けにいき、テスト勉強に必要だろうとすぐにチェックして返してくれた教師に頭をさげて職員室をでる。
 そのとき、真波が前を通りすぎた。とっさに腕をつかみ、驚いて目を丸くしている真波を捕獲する。

「わっバシくん、どうしたの」
「どうしたのじゃねーよ、なんでまだ校内にいるんだよ」
「んー……勉強が嫌でちょっと散歩してた」
「んなことだろうと思ったぜ。おまえを探してるやつがいたぞ。眼鏡かけてて髪をふたつに結んだやつ」

 すぐに自分を探している人と探されている要件がわかった真波は、考えているようで考えていない顔を銅橋に向けた。見逃して、と雄弁に語る目に銅橋はだまって首をふる。
 しかしこういうとき幸運の女神はきまって真波の味方をする。職員室のドアが開き、銅橋がさきほどノートを提出した教師が銅橋の名前を呼んだ。ゆるんだ腕を見逃さなかった真波が風のようにすり抜け、笑いながら手をふって廊下をかけていく。
 追えば逃げる、捕まえようとしても逃げる。それはクライマーのことを言い表しているようでもあり、真波の本質のようでもあった。追いかけっこのように悪意のない笑顔で駆けていった真波は、もう捕まえることができないほど遠くにいる。

 まだ真波を探していた宮原が職員室のまえを通ったのは、わずか一分後だった。
 さすがに罪悪感を覚えた銅橋が、今度こそプリントを持つことを申し出て真波を一緒に探しはじめると、図書館からでてきた名前と鉢合わせた。
 銅橋に事情をきいた名前はすぐさま一緒に探すことを申し出た。普段からこつこつと勉強をしている名前にとって、いま必要なのはわずかな勉強ではなく銅橋である。
 ふだんの真波をよく見ていた名前は追えば逃げる真波の性質をよく理解しており、3人で違う方向から追いつめていって確保することに成功した。

 そうして真波を交えて勉強することができたのだが、開始20分で居眠りをはじめたのである。あれだけ真波を探してくれたのに申し訳ないという顔をする宮原に、名前はできるだけ優しく微笑んで首をふった。真波の肩を控えめにゆらし、言葉で起こす。

「真波くん、おきて。プチテストが終わったら山に登ろう」
「山!?」
「うん。いまから10分間の英単語覚える時間のあと、5分のテスト時間があるから。銅橋くんと真波くんで、点数が高かったほうが好きなコースを決めていいよ。一問間違えるにつき10秒スタートが遅くなるペナルティがあるから気をつけて」

 オレもテストをするのか、という銅橋の視線に謝った名前は、きっぱりと言いきった。

「だってこの中で真波くんと争えるの、銅橋くんだけだから」

 こいつはオレじゃなくて真波が好きなんじゃ、という銅橋のわずかな懸念はすぐに消えた。
 テストに出す教科書の範囲を決めたあと、テストを作るために遠くに座った宮原と名前は向かい合って座った。今日はじめて会話した同士だというのにどこか同じ空気を感じたのは、お互い同じ空間にいる男の子に片思いをしているからだろう。真波と銅橋が声を抑えているとは言い難い音量で会話しているのを確認したあと、宮原は真波に視線をやってからそうっと自分の秘めたものを差し出した。

「わたし、好きなの」
「うん」
「名字さん、銅橋くんが好きなの?」
「うん」

 その声は小声だが芯が通っていて、銅橋の耳にきちんと届いた。自分の名前が出るとつい拾ってしまう話はたいてい悪口や怯えがふくまれていて、そういうときはいつも前をにらんで舌打ちをしてやり過ごすしかなかった。だが、今回は違った。
 それは耳を心地よく溶かし胸をほんのりあたためた。名前の変わらぬ想いが嬉しかった。真波に赤い頬をからかわれるのも単語が頭に入ってこないのも理由はわかっていたが、いまはこのあとのレースで不利になろうともこの気持ちをあたためていたかった。


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