「それで帰ってきたわけ? お金を渡してそれっぽっちしか奢ってもらわずに」

 トト子が怒りに体を震わせるのを見て、なまえは身を縮めて後ずさりした。
 魚を買うついでにデートは成功したと報告したときは機嫌がよかったが、なまえが詳細を話すにつれトト子の機嫌はみるみる悪くなり、ついにはなまえが買ったばかりのサザエを素手で粉砕した。
 ちいさく悲鳴をあげるなまえの手首を掴んで店の端に連れていったトト子は、ビニール袋に新しいサザエとドライアイスを入れながらお説教をはじめた。

「それじゃ彼氏じゃなくてヒモじゃない、ヒモ! ただでさえ六つ子全員ニートなのに、そこにヒモなんて肩書きまで加わったらクズなんて通りこしちゃうわ。もうお金を渡しちゃだめよ」
「わかった、渡さない」
「彼女なんだから全部奢ってもらうくらいでちょうどいいの。次は自分の財布出さないようにね。上目遣いでちょっとだけ近づいて、トト子これ食べたいなって言うだけでいくらでも奢ってくれるんだから。もちろん体にさわらせちゃだめよ、それじゃ自分の価値が落ちちゃう」

 実行可能かどうかは無視してなまえは頷いた。ここで反論でもしようものなら、またトト子の怒声がふってくるに違いない。
 なまえが頷いたのを確認したトト子は、おまけでサザエをもうひとつ入れながら尋ねた。

「次のデートはいつ、どこでするの」

 次など考えていなかったなまえはうろたえた。トト子の言うとおりにデートして、これからは今までの日常が戻ってくると思っていたなまえは、それではトト子の目的が果たせないことに気がついた。
 おそ松の恋人になることを引き受けたからには、自主的におそ松と会い、愛を育み、クリスマスとバレンタインにはトト子ではなく自分に会うように仕向けなければならない。

 隠し事ができないなまえを見て、トト子がため息をついた。明らかに男性に慣れておらず、恋人との付き合い方どころか片思いを成就させる方法さえも知らないようななまえが、トト子のように先を思い描いて計画をたてることは考えていないということは重々承知していた。

「いま次のデートに誘ってみればいいじゃない。はやくしないとせっかく成功したデートが無駄になっちゃうわよ」
「おそ松くんの連絡先知らなくて」

 想像していたとおりの返答に、トト子はサザエの入った袋を渡してから一度奥に引っ込んだ。
 数分して出てきたトト子の手にはメモが握られていて、これが連絡先だと渡されたなまえは、並ぶ数字を見ておそるおそる尋ねた。

「これ、実家の番号じゃないの?」
「そうよ。だっておそ松くん、携帯電話なんて持ってないもの」

 なまえは恐怖のあまり出そうになった悲鳴を喉の奥でなんとか押し殺した。
 男性の実家に電話をかける行動は、なまえにとっては恐ろしく自分を傷つけるものでしかない。いくらかりそめの恋人とはいえ、実家に電話をかけることだけはしたくなかった。

「そんなに怖いなら一緒に家に行きましょ。直接誘えばいいじゃない」
「それこそ無理だよ。おそ松くんの家なんて知らないし、いきなり行っても迷惑と思われるだけだよ」
「ニートの一日の予定なんてだいたい決まってるんだから大丈夫よ。ついでに軽くデートでもしてくればいいわ」

 言いだしたらきかないトト子に引きずられるようにしておそ松の家についたなまえは、目の前の家を見上げた。
 ここでおそ松が生まれ育ったかと思うとどことなく感慨深かったが、いまはじっくりと家を見ている余裕はない。兄弟が五人もいれば誰かしら家にいるだろうし、いつ玄関が開けられてもおかしくない。

 受け答えすら満足にできない自信があるなまえはトト子の腕を引っ張ったが、トト子は帰るどころかチャイムを押そうとしていた。

「やめて、お願い!」

 なまえの叫び声が大きかったのか、トト子がチャイムを押す前に玄関が開いておそ松が顔をだした。突然の出来事でなまえが対応できないでいるうちに、おそ松の顔がでれっとだらしなく崩れる。

「あれっトト子ちゃん、どうしたの?」

 語尾にハートマークがついているおそ松のことは気にとめず、トト子はさらっとここにいる経緯を説明してなまえとおそ松を残して去っていってしまった。
 なまえが気づいたときにはもうトト子は振り向かず歩いているところで、呼び止めようとも決して戻ってきてはくれないことを経験から知っているなまえは、絶望とともにトト子の姿を見送った。

 なまえが自分から話しかけることが苦手だと気づいていたおそ松は、用事は聞かず散歩でもしようと提案した。
 なまえが頷いて、出会ったときよりは近く、競馬場のときよりは遠い距離で並んで歩きはじめる。夕方になりかけている空は曇っていて、秋の弱い夕日に照らされて雲がオレンジに染まっていた。

 しばらく歩いてさきほどよりずいぶんリラックスできたなまえは、おそ松がなにも聞かないでいてくれたことに感謝しながら、いきなり家に押しかけた理由を説明した。

「おそ松くんの連絡先を知らないって言ったら、トト子ちゃんがせっかくだから会えばいいって家に連れてきてくれたの。いきなり来てごめんなさい」
「べつに、暇してたからいいよ」
「男の人の実家に電話するのが苦手で、電話のほうがいいってわかってたんだけど、どうしてもできなくて。それで、次のデートなんだけど、おそ松くんはいつなら空いてるかな」

 いつもの調子で軽く返事をしたおそ松は、いつでも空いていると返した。実際おそ松の予定といえば、競馬パチンコ居酒屋という、いつでも予定をずらせるものばかりだった。
 対してなまえは大学生だ。まだ就職活動はしていないとはいえ、レポートやゼミなどでそれなりに忙しく、今週もレポートを仕上げなければならなかった。

「今週はレポートをするから、さ来週の土曜でいいかな。それで、おそ松くんが行きたいところがなかったら、行きたいところがあるんだけど」

 このときなまえがどれほど勇気を振り絞ったか、知っているのはなまえ自身だけだった。
 長年誰にも言わずひそかに自分のなかであたためていた思いを口にするのはこわかった。

「ネズミの遊園地に行きたいんだけど」
「いいぜ」

 なまえの苦悩はあっさりと肯定された。顔をあげて何度も確認するなまえに、おそ松は笑いながら頷く。
 なまえの心が晴れ渡り、もう夕日が沈んで暗くなっている景色が輝いて見えた。上機嫌で鼻歌でも歌いだしそうななまえを見るのは初めてで、遠回りして家へ帰る道を選びながら、おそ松は隠しきれない喜びをにじませたなまえの顔を見た。

「そんなに嬉しいのかよ。女ってやたらあのネズミの国好きだよな」
「ずっと夢だったの。もしいつか恋人ができたら、一緒に行きたいって。一緒に乗り物に乗ってご飯を食べて、パレードを見て、写真を撮って」

 歌うように語ったなまえは自分が浮かれているのに気がついて黙ったが、喜びは消えなかった。
 こんな性格ではお見合いでもしないかぎり男の人とデートすることはないと思っていたのに、まさかこんなにはやく夢が叶うなんて思わなかった。たとえバレンタインが終わるまでの関係だとしても、それまではれっきとした恋人だ。

「浮かれちゃってごめんなさい、おそ松くんは楽しみにしてないのに、わたしばっかり」
「いや、楽しみだよ。だって俺たち六つ子で兄弟はヤローばっかだし、そういうとこ行ってもどこか物悲しいっつーかさ。女連れ見ると誰か殴りかかろうとしたりしてさあ」

 真っ先に殴りかかるのは自分だということを棚に上げて、おそ松は兄弟の奇行を語った。
 まだおそ松以外の名前を覚えていないなまえは合間に兄弟について確認をとりながら、おそ松の口から語られる兄弟の姿を想像して控えめに笑った。

 友達はいるが仲良くなるのに時間がかかるなまえにとって、気兼ねなく話せる友達のような存在が五人もいるのは羨ましかった。おそ松の、人見知りしないところや初対面でも物怖じせず話すところも。
 もうすぐおそ松の家だという十字路に差しかかって、おそ松は歩みをとめた。昔ながらの住宅街で道は細く、街灯も少ない。

「ここから自分の家まで帰り道わかんの?」
「駅はどっちにあるの?」
「こっち。わかんないなら駅まで送るから。ここ右な」

 返事を待たずに右折したおそ松を追って、なまえは小走りで隣に並んだ。先ほどまでと違って会話はなかったが、なまえは自室にいるようにリラックスできた。
 ふたりで並んで歩いて、耳をすませばあちこちから聞こえてくる音が、胸にしまってある宝箱をくすぐる素敵なものに思える。
 こんなことは初めてだが、驚くことはなくなまえは受け入れた。このゆったりとした自然体でいる空気のなかでは、驚くことさえ野暮に思えたのだ。

 おそ松は言ったとおり駅までなまえを送り届け、手をふってあっさり別れた。
 おそ松が見えなくなるまで見送ったなまえは、ようやく一人暮らしのアパートへの道を歩きはじめる。トト子から、おそ松ならきっとすぐ手を出してくるだろうから右手はすぐ動かせるようにしておくようにと言われていたが、手を出すどころか親切に送ってくれたし、トト子の言うようにアパートの場所を知ろうともしなかった。
 自分のなかのおそ松が塗り替えられていくようなすがすがしい気持ちになりながら、なまえはずっと手に持っていたサザエの袋の存在に気づき、急いで帰らなければいけないことを思いだして道を蹴った。
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -