「そんなこと無理だよ、わたし恋人いたことないんだよ」

 しぶるなまえをトト子がむりやり説得し、店の商品をすべて割引するという条件をつけて頼みごとをしたのは、コートが手放せなくなった秋のことだった。

 なまえはノーと言えない典型的な人間で、頼まれると断れない自分の性格が嫌いだった。断って嫌われることがこわいのではなく、気弱で断りの言葉を口にするにもかなりの勇気が必要なのだ。
 頼まれたことを断ろうかずいぶん迷ったあげく「それはちょっと」と控えめな、頼んだほうからすればゴリ押しでいけると思われる態度をとり、結局は頷くということを数え切れないほど繰り返してきた。だから今回も、いままでになく強気に断ったとしてもトト子からしてみれば弱気のかたまりで、困ったトト子を助けるという大義名分を振りかざされ、数分で丸め込まれてしまったのだった。

 これはほんのお礼ね、と売れ残りつつあったお刺身のパックを三つほど渡され、なまえはとぼとぼと、日が落ちるのがはやくなった帰り道を歩いていた。
 この性格のおかげで今まで恋人がいなかったのだが、この性格のせいでむりやり恋人を作らされるとは思わなかった。落ちかけている夕日が物悲しく、吹きすさぶ風はコートの隙間をぬって侵入してきてはなまえの体を冷やす。

 トト子は毎年、冬が近づくと憂鬱になる。クリスマスにお正月にバレンタインと、六つ子がやってきては土下座してお帰りを願っても受け入れてもらえないイベントが続くからだ。
 ため息をつくトト子が目をつけたのは、たまに店に来る気弱そうななまえだった。断られることを承知で頼んでみれば、いくつかの条件はつけたものの案外すんなりと了承された。
 万が一なまえが襲われでもしたらトト子が袋叩きにしにいくこと、トト子がそれをおそ松に念入りに言うこと、なまえにトト子直伝ボディブローを教えること、そしてトト子の店の商品が全品半額。
 六つ子の長男であるおそ松に彼女を作り、これからのイベントにトト子の部屋に来ないように仕向けることがトト子の目的だった。
 なまえにはバレンタインが終われば別れていいと言っているし、なまえは大学で忙しくてあまり会う暇がないだろうと目論んだうえでのゴリ押しだった。


 なまえとおそ松が初めて会ったのはそれから一週間後だった。トト子がどう吹き込んだのか、おそ松はなまえのことをすっかり恋人だと思いこみ、今日が初デートだと浮かれていた。
 待ち合わせ場所はふたりの最寄駅の時計台の下で、昼すぎであるせいか行き交う人も足取りもどこかゆるやかだった。よく晴れた秋晴れの空は気持ちいいが、風は冬の寒さを含んでいる。
 赤いパーカーにジーンズといういつもの服装でやってきたおそ松は、所在なげに指を絡めているなまえを見つけて駆けよった。声をかけて確認するとトト子から聞いていた名前で、おそ松は遠慮することなくなまえをじっくりと見た。
 品定めするような視線に、なまえは体を縮めて目を強く閉じた。

 この拷問にも似た時間がはやく過ぎてくれるよう願うなまえの目は薄化粧がよれてしまいそうなほど閉じられており、かすかに震える体と相まって泣きそうな雰囲気を漂わせていた。
 なまえは男と接するのが苦手で、今日もトト子の電話がなかったら、罪悪感にまみれながら、毛布で外の世界を遮断してベッドで一日を過ごしたかもしれない。帰りたいと願うなまえの、男がいない閉じた世界に降ってきた声は明るくて一切いやらしさを感じさせないおそ松のものだった。

「行こうぜ。どっか行きたいとこあるなら言ってよ」

 おそるおそる目を開けたなまえは、冬になりかけている秋のやわい光にすら目を細め、何度かまばたきしてからはっきりと世界を見た。
 ようやくおそ松のことを見れるようになったなまえは、トト子から聞いていたように彼が赤いものを身につけていることに気がついた。
 使い慣れたジーンズにスニーカー、名前にちなんだのかパーカーには松の絵がプリントしてある。そこでなまえは自分がされて嫌だったことを相手にしていることに気づいて謝ったが、おそ松は不思議そうに首をかしげるだけだった。自分と違って強いんだなというのが、なまえがおそ松に抱いた第一印象だった。

 おそ松が、なまえがどこか行きたい場所があると言い出すことを待っているのに気づき、なまえは遅ればせながらデートスポットというものを思い浮かべた。浮かぶのはテレビで特集されるようなおしゃれなスポットで、そういった媒体でおぼろげな知識を得ているだけのなまえは、とても行けそうにないと青ざめた。
 とくに急かさず、待つことが不満だという様子もなく自然体で待っているおそ松を見て、彼から気を利かせて尋ねられることはないと判断したなまえは、怯えながらくちびるを開いた。
 自分から男性に話しかけることは本当に久々だった。

「思い浮かばないの、ごめんなさい」
「んじゃ、俺がいつも行ってるとこ行くか」

 まさか行きつけの店という憧れの場所があるのかと、この日はじめてはっきりと顔を上げたなまえは、電車を乗り継いで到着した場所を見上げた。
 そこはテレビでしか見たことがない競馬場だった。立ち止まるなまえの横を慣れたように通りすぎる人の多さに目を白黒させているうちに、おそ松が振り向いて首をかしげる。

「競馬、初めてか?」

 頷いたなまえを見て、おそ松は簡単に競馬の説明をはじめた。なまえも馬券を買って勝てばお金がもらえるという基本的な知識は知っていたが、おそ松の目にはそう映らなかった。
 馬券という単語さえ知らないような素朴さを漂わせているなまえに、馬券の買い方や種類、簡単な流れを説明していく。それぞれ入場料を払ったあとも説明は続き、なまえの頭がそろそろ限界に近づいたとき、おそ松は唐突になまえを突き放した。

「とりあえず馬券買ってみれば?」
「どれを買えばいいの?」
「どれでも好きなもん買えばいいじゃん」

 心底どうしたらいいかわからないとおそ松を頼るなまえを、おそ松は派手に笑い飛ばした。
 好きなものと言われても、券売機とテレビが等間隔で並び、なまえが苦手な男性が一様に手元の紙や新聞を手にしてテレビを見上げているのだ。見慣れず馴染まない光景のなかに飛び込むにはかなりの勇気が必要で、なまえは立ちすくんで動けなかった。
 このままだとレースに間に合わないと判断したおそ松は、マークシートの置いてある場所までなまえを誘導した。記入したマークシートを券売機に入れ馬券を発行しなければ、競馬の醍醐味が味わえない。
 おそ松に教えてもらいながらなんとか馬券を発行したなまえは、でてきた馬券を持って振り返った。無意識のうちに褒めてもらいたいような態度をとっていたなまえは慌てて自分を諌めたが、おそ松は気にすることなく笑う。

「よく出来たじゃん、上出来。俺も買ってくるからそこにいてよ」

 言われたとおり一歩も動かずひたすらおそ松を待っていたなまえは、数分のちに慣れた様子で戻ってきたおそ松を見て体の力を抜いた。自分ひとりではすぐに逃げ出してしまうであろうこの場所では、おそ松だけが頼りだった。

 おそ松に連れられて外に出たなまえは、広がる景色とともに吹き抜けた風に目を見開いた。
 眼下にはテレビなどで見る、馬が走るコースときれいに整えられた芝生が広がっている。それらを挟んだ向こう側にあるスクリーンは大きく、目をこらさずとも映っているものがつぶさに見てとれた。見上げれば巨大な屋根があり、スタンドも圧倒されるほど大きかった。

 おそ松にうながされてスタンドに座ったなまえは、まだ圧倒されて視覚から入ってくる情報を処理することで精一杯だった。
 座っている人は真剣にオッズを確認したり談笑したりと様々で、レースが始まる前独特の熱気につつまれていた。なまえの手に握られているのは一枚の馬券で、この紙切れにこの先の運命が書かれているのかと思うと、なまえの心臓が勇ましく跳ねた。
 それはレポートを発表する前のものに似ていたが、体は冷たくなるどころか火照り、熱気にあてられて心は高揚した。こんな気持ちになるのは初めてで、どこか心地よかった。

「これ当たったらどうすんの? 俺また馬券買おっかな。あとは家に帰る前に好きなだけ飲み食いして使い果たす」
「当たるかわからないし」
「だからこそ話すんだろー。だいたい外れるんだし、夢みるなら今のうちじゃん」

 買うだけで精一杯で先のことを考える余裕がなかったなまえが、意識をゆっくり爪先から前に向ける。
 百円でもいいから当たったら何に使うか。ほしかった本を買う、気になっていた服を買う、いつもよりいい店で食事をする。なまえの目に芝生の青が映え、微笑とも取れないほどかすかな笑みを浮かべた。

「記念にとっておく」
「んだよそれ勿体無ねーな。どうせなら俺にくれよ」
「当たったらね」

 あれだけ苦手だった男性といつのまにか自然に話していることに気づいたなまえが驚いているうちに、華やかにレースが始まった。
 一番にゴールした馬が優勝というわかりやすいルールに、自然となまえの応援にも熱が入る。

 なまえが買ったのは単勝という馬券で、どの馬が一番かを当てるものだった。いままで優勝したことがないためオッズが高くなっている馬が自分と重なって、応援という意味をこめてその馬券を買ったなまえは、それが万馬券になる瞬間を体験した。
 揺れるスタンドは歓声や怒声が混じり合って、誰も他人のことを気にしていない。こんな空間はなまえにとって初めてで、他人の視線や感情に怯えなくていい開放感は格別だった。

 熱気を吸い込むと、待ち合わせのときはあれだけ寒かったのが嘘のように思えた。紅潮する頬と、自分が走ったわけでもないのに荒い息は、新鮮な酸素を体に送りこむ。
 横でおそ松が悔しがって馬券を地面に叩きつけて踏んづけているのを見て、なまえは笑った。レースが始まる前とは違い、こどものように歯を見せて笑うなまえは、おそ松のパーカーを引っ張った。

「当たったよ」
「万馬券じゃん!」

 驚いて叫ぶおそ松に周囲の視線が集中したが、なまえは気にならなかった。
 やりきったような充実感が心地よく、おそ松には出会ったばかりのときのように怯えなくていいような気がした。

「払い戻しにいこう。そしたらおそ松くんに半分あげるね。今日はここに連れてきてくれてありがとう」
「いいの? マジで!?」
「だって約束したじゃない。わたしひとりだったら、絶対にこんなところに来ようなんて思わなかったから」

 力の限り喜びを叫ぶおそ松を見て、なまえはこの熱気に当てられていることを自覚した。
 普段ならそれで我に返るかもしれなかったが、今はこのままでいたかった。男を苗字ではなくはじめて名前で呼んだことも、レースの醍醐味の前では些細なことのように思える。おそ松に急かされて払い戻したなまえは、半分ほどおそ松に渡した。

 おそ松がお札にキスをしてからなまえを連れて行ったのは、競馬場内にある飲食店だった。
 遊園地でソフトクリームなどを売っていそうな売店だが、のぼりには競馬場らしく「牛丼」「もつ煮」と書かれている。

 おそ松は売店の前にある白い椅子になまえを座らせ、売店で注文したものを運んだ。もつ煮、フランクフルト、ウーロン茶に自分用のビール、馬が描かれている今川焼き。
 それらを白いテーブルに並べ驚くなまえに笑いかけたおそ松は、珍しく太っ腹だった。

「さっきは金あんがとな。これは俺の奢り」

 代金を払おうにも、このお金はもとはなまえのものである。しばし考えたなまえは、ここで断るのも悪いと思いありがたく食べはじめた。
 今日は緊張して朝食は食べる気にならなかったため、お腹がすいていた。

 大勝ちしたあとに晴れた秋空の下で食べるものはどれもおいしくてぺろりと平らげてしまったなまえは、ビールのおかわりをして上機嫌なおそ松と、普段からは考えられないほど様々な話をした。
 おそ松は無遠慮に人の過去に踏み込んでこないし、なまえが言葉をにごすとそれ以上追求しなかった。大学と、日々のことと、ニートの日常と、五人いる同じ顔の兄弟の話は尽きることはなかった。
 自分と同い年の男と、これほど話すことも一緒に食事をすることも奢ってくれることも、もちろんデートすらはじめてだということを、なまえは帰ってから思い出したのだった。
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