「最低!」
名前さんの大声が響いて、何事だと外を覗いた。今日は部活は半日しかなくて、いまはもう夕方だ。こんな時間まで残っているのはインハイメンバーといつかメンバーに選ばれると認識されている人ばかりで、人が少ないからか名前さんの声はよく通った。
名前さんは顔を真っ赤にして荒北さんを叩いていて、荒北さんは「イテッ! イテェっつーの!」と言いながら腕で頭をかばい、反撃したくても出来ないというように攻撃をうけていた。その横には新開さんと東堂さんがいる。気になるけど、あそこにオレが入っていくのは違う気がする。
またローラーでも回すかと部屋に戻ろうとしたとき、目ざとい荒北さんに見つかった。あの人こういうときは本当に外さないな。
「黒田ァ!」
「嫌です」
「なにも言ってねェだろ! いいからこっち来い!」
ぎゃんぎゃんとうるさい荒北さんに負けて、タオルを首にひっかけて名前さんのところまで歩く。名前さんはまだ顔を赤くして荒北さんをにらんでいて、何事かと東堂さんを見た。
説明してくれるかと思ったけど「これはさすがに言えんな」と言われてしまった。何でオレを呼んだんだ。
「間違ったことは言ってねえだろ」
「いまのは荒北が悪い」
「いまのは靖友が悪い」
「東堂くんも新開くんもこう言ってるじゃない。4対1で靖友が悪いことに決まりました」
「4対1って、名前新開東堂……てめっ黒田を入れやがったな」
「黒田くんは絶対にこっちの味方です!」
「んなことねェだろ! 黒田はこっちだって! なァ黒田、お前だって」
全部言う前に、名前さんのこぶしが荒北さんのみぞおちに吸い込まれていった。ひねりを効かせた見事なパンチに、油断していた荒北さんが崩れ落ちる。
「名前、てめ……」
荒北さんが名前さんを見上げる。パンツが見えるんじゃないかとハラハラしているのはオレだけのようで、荒北さんはスカートがそこにあることすら気にしていないように名前さんを睨んだ。
くんくんと鼻が動いて、細い目が見開かれる。
「名前、おまえ処女かヨ!」
静寂があたりを支配した。
名前さんは真っ赤になってぷるぷると震えていて、荒北さんはまだ驚いている。
赤くなってしまった顔を手で隠しながら、誰かがなにかを言うのを待つ。名前さんが処女というのは、嬉しい情報だった。とっくに荒北さんに食われてると思ってたからだ。
それを想像するたび嫉妬や悲しみやいろんなものがごちゃまぜになった感情が頭を支配して胸をかきむしりたくなっていた日々から、やっと卒業できる。
安堵したあとは疑問が浮かんできた。名前さんが処女なことを、どうして荒北さんは知らないんだろう。知っていて当然のような気がするけど、オレが名前さんの彼氏だったらなかなか聞けないから、そういうことなんだろうか。
いや、それでもおかしい。もしかしてふたりは──。
「あー確かにな。あれじゃ彼氏なんて出来ねェわな。そこのワンコちゃんのためにわざわざ」
「っ靖友のばか!」
名前さんの平手が荒北さんの頬を襲った。「最低! ばか!」と言い続ける名前さんの肩を新開さんが掴んで、オレの前まで連れてくる。
新開さんと東堂さんが名前さんと荒北さんのあいだに入るように移動して、一言。
「いまのは荒北が悪い」
「いまのは靖友が悪い」
真っ赤な名前さんに手を掴まれた。名前さんは新開さんと東堂さんに荒北さんをたっぷり絞ってくれるように頼んだあとに歩き出した。行こ、と言ってオレの意見を聞かない名前さんを見るのは初めてで、どれほど怒っていたか、頭に血が上っているかがわかる。
名前さんに引かれるまま歩いて、自販機の前のベンチまで来てようやく止まった。
「連れ出してごめん。練習中だったのに」
「ちょうど休憩してたんで。大丈夫ですよ」
名前さんをベンチに座らせてジュースを買う。冷たいのよりあたたかいほうが増えていることに季節の移り変わりを感じながら、名前さんに缶ジュースを手渡した。
お金は受け取らないことを最初に言って押し付けると、名前さんは思ったより早く受け取ってくれた。オレが頑固なことを、ようやくわかってくれたらしい。
「……ありがとう」
「すこし落ち着きました?」
「うん。靖友がひどいこと言ってきて……あの、再来週にまた休みがあるんだよね?」
「はい」
運動部は月に何度休まなきゃいけないという決まりがあるらしく、それは常勝のうちも例外ではない。この学校で部活をやる限りでは、守らなきゃいけない決まりごとだ。
「なにか買いに行くって聞いて……一緒に行ってもいいかな?」
「いいですけど、行くのはスポーツショップですよ?」
「私もそこに行きたいから」
さっきまでの、怒りとは違う意味で赤くなっている顔。さきほどの荒北さんとの会話のなかで違和感を覚えたことを思い出す。もしかして、もしかすると── 。
「なに、買うんですか」
かすれた声が出た。もう認めるしかないオレの恋を肯定してくれという願いをこめた質問に、名前さんは照れながら答えた。
「プレゼントを買うの」
プレゼント。誰に、と考えて冬の一大イベントを思い出した。……クリスマスだ。
すうっと心が冷えて、冷たい真冬の海に沈み込んでいく気がした。荒北さんにプレゼントを買うために、オレと出かけるのか。そりゃ、プレゼントする相手と一緒に出かけたら買えないもんな。
「ユキちゃん? どうしたの?」
「 ──いえ。いいですよ、行きましょう。オレ、ちょっと部室に忘れ物してきて、すぐに取りに行かなきゃいけないんです。悪いんですけど」
「あ、うん。ユキちゃん……あの……」
「詳しいことはまたあとでメールしますね。帰ったら荒北さん殴っときましょうか?」
「うん、お願い」
名前さんはオレの様子がおかしいことに気付いて戸惑っていたけど、荒北さんを殴るという提案にはためらいなく頷いた。よっぽどお怒りらしい。会釈をしてその場を離れて、ようやくため息をつけた。
さすがに荒北さんの彼女を奪う気なんてない。名前さんは荒北さんの横だと、オレのそばにいるときのような緊張した素振りは見せない。距離だって近くて、あれが名前さんの素なのだと思う。
そう思うと諦めることはまだ出来なくても、せめて気持ちが大きくふくらんでいくのを遅くしようと思うしかなかった。
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