reverse | ナノ
reverse
name change


「くそっ!」


 ペダルを回しすぎてがくがくする脚で壁を蹴ると、かすかすな音がでて余計に苛立った。その場に座り込んで、怒りに任せてタオルを首から乱暴に抜き取る。
 また負けた。荒北靖友という男にまた負けた。これで何度目か数えるとそのぶん自分が弱いことが証明されるようで、頭に浮かんだ数字をむりやり消した。レースでしか盗めないもんもあるだろうと挑んだが、盗めると思っても結局は自分のものにできるかは練習次第だ。結局いつものように負けて、だんだんとタイムが僅差になっていっているから余計に悔しい。
 勝負が終わったあと「まァだエリートが抜けねえのか?」と言われたのにも腹が立った。エリートと呼ばれると無性にイラつく。ふらついた脚で立って、タオルを握りしめて歩く。あいつをぎゃふんと言わせるには、こんな状態だろうが練習するしか道はなかった。

 名前という女子のことが頭に浮かんだのは偶然だった。寮に帰って飯を食って、それでもまだ負けた悔しさやなにも盗めなかった自分への苛立ちが抜けなかったとき、ふっと思い出したのだ。「いつでも愚痴聞くから」というやわらかな声がよみがえると、不思議と心が穏やかになった気がした。どちらかというと低い、カシミアみたいになめらかな声。
 紙を捨てた覚えはない。適当に丸めてポケットに突っ込んだことをなんとか思い出して制服を探ると、それは簡単にでてきた。くしゃくしゃになって制服の糸くずと一緒になった紙を手でのばす。
 携帯電話を持ってきて、ちまちまとアルファベットを入力した。こんなことなら赤外線でアドレス交換をすればよかったと思ったけど、あの場で言われても携帯を持ってきていないと言って断っただろうから、結局は背中を丸めてアルファベットと格闘することになっただろう。入力し終えたアドレスを何度も見返して間違いがないことを確認して送信しようかと思ったところで本文を書いていないことに気付いて、本題はむしろここからだと紙を放り投げた。めんどくさい。
 だけどここまで来てメールを送らないのはしゃくだし、なにも書いていないメールを保存するなんて恋する乙女みたいで気持ち悪かった。本文に名前と、荒北さんに言われたことを書いて送信する。すぐに「このアドレスは使われていません」というメールが返ってこなかったから、アドレスは間違えていないようだと安心した。これだけ時間をかけたのにアドレスが間違っていたなんて笑い話にもなりゃしない。

 なんとなくそわそわしながら携帯をいじって返信を待つ。5分後、名前さんから返事がきた。
「今日もお疲れ様。靖友がそういうのは、ある意味心を許してるってことなんじゃないかな。私なんてずっとブスって言われてるし(笑)」
 笑い事じゃない。ブスなんて言われてるのになんでそれを笑ってオレに言えるのか、よくわからなかった。名前さんは見ただけで、外見には最低限以上気をつけて、時間も金もある程度かけているとわかるのに。

 名前さんのメールは、予想していたようなデコデコでキラキラなものじゃなく、携帯に最初から入っている絵文字を使ったものだった。必要以上に使われない絵文字は、むしろそっけなく見える。
 メールの文から、慰められているんだとわかってかすかな苛立ちを覚えた。あんたに慰めてもらうことなんかじゃない。だけど荒北さんに言われたことと、それについてのわずかな愚痴のようなものを書いたものを送られたら、誰だって同じような反応をするだろう。
 メールを送り返して数分して、またケータイが鳴った。返事を待っていた事実に気づかないふりをしてメールを開く。
「ユキちゃんは、どのスポーツもすごく上手だって聞いたよ。だからきっと自転車も、すぐに靖友を追い抜けるようになるよ」
 そのあとも何か書いてあったけど、目に入らなかった。いつもならただの会話だと受け流せたそれは、鋭く尖った形になって胸をえぐった。今日荒北さんに言われたことを思い出すような言葉を、荒北さんの彼女に言ってほしくはなかった。バスケでどんなにスリーポイントを決めたって野球でホームランを打ったって、ロードバイクが早くならなければ意味がない。
 激情に駆られたまま、あの人なら何を言っても大丈夫だろうという、名前さんをよく知らないくせにわきあがった根拠のない自信に任せて文字を打って送信した。
「荒北さんのこと、よくわかってるんですね」

 自分にしかわからない皮肉だった。荒北さんのことは知っていても、オレのことはなにも知らないだろうと、エリートだなんて言えないだろうという思いを込めて憂さ晴らしをする。自分がどれだけ小さな人間かわかって余計に落ち込んだが、送信したものはもう取り消せない。名前さんは皮肉に気付いてしまったのだろうか。謝ったほうがいいのか、でも気付いていないのに謝ったら不自然すぎる。
 自己嫌悪で落ち込みながらメールの返事を待っていると、30分後にようやく返事がきた。飛びつくようにしてメールを開く。
「ごめんね、お風呂に入ってたよ。靖友のことはそこまでよくわかってないけど、靖友は私のことわかってるだろうな。わかりやすいってよく言われるし」
 一気に気が抜けて、ケータイをベッドに放り投げた。さんざん待たされた挙句、返ってきたのはノロケだ。時間はかなり早いけどもう寝たことにしてしまおうと、返信はせずに目を閉じた。荒北さんにふれてしまいそうだった胸と、やわらかな声と細い脚を思い出す。
 その夜は、自己嫌悪でなかなか眠れなかった。


return


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -