「ったくあの女ははよォ……くそっ」
荒北さんの機嫌が悪いときは、3年の仲がいい人を除いて近付かないというのが部内の暗黙の掟である。
この場からすぐに移動しては荒北さんの目にとまるから、そっと目立たないように立って移動をはじめるが、あいにく今日は午後から自主練で練習している部員は10人もいない。ここが出入り口に近い場所で、むしろほぼ外だから出られると思った自分が甘かった。
荒北さんが後ろを向いている隙にと歩いた瞬間に振り返られる。ただでさえ目つきが悪いのに、それに輪をかけていた。
「黒田ァ!」
「失礼します」
「待てコラ」
数歩外に出たところで、素早い動きで肩をつかまれる。痛いけどあざが出来ない程度の力の込め具合で、動きたくても動けない。しぶしぶ向き直って、何スかと声をかける。不機嫌そうだなァと言われたのを否定せず黙秘を続けると、荒北さんが動物のように口を開けて牙を見せた。
「いいこと教えてやるよォ」
「結構です」
「名前はな」
名前さんの名前が出てくるとは思わず、歩きだそうとした足が止まる。それがわかっていたように、荒北さんはもったいぶってから話し始めた。
「あいつはなァ、お前が入部してきてまだガッチガチの鼻持ちならないエリートチャンだったころ、一目惚れに近い感情で惚れたんだとよ」
「え……いや、まさか。はじめて話したの秋ですよ」
「それまで優等生が服着てたような名前チャンは、黒田チャンが好きな女の子になるために、ダイエットして雑誌読んで化粧してスカートあげて、そんでようやく話しかけたってワケ」
いきなりそんなことを言われても、頭がついていかない。まさか、という言葉が頭のなかをぐるぐる回る。
荒北さんはオレを見て満足そうに笑ってから、ようやく肩を離した。してやったりという顔で口を歪める姿は、なんとなく悪役っぽい。
「それ、勝手に言っていいんですか。名前さん怒るんじゃないですか」
「いーんだよ。毎日毎日お前とのノロケ話ばっか聞かされてウンザリだ。ノロケるなら本人に言え」
「オレに言われてもどうしようもないですよ」
「お前にも言ってんだよ! 毎日デレデレデレデレしやがって! 名前はなァ」
言いかけた荒北さんの顔が歪む。荒北さんが後ろから勢いよく押されて、つんのめりながらも何とか止まった。荒北さんの後ろには真っ赤になった名前さんがいた。
「最低! 靖友最低!」
いつか聞いた台詞である。
名前さんが真っ赤になって抗議していると、荒北さんがぬらりと顔を上げた。怒っている。名前さんも怒っている。挟まれたオレはどうすればいい。
「勝手に人のこと暴露して! なんで言うの!」
「いつかは言わなきゃいけねェんだろ! 毎日ウジウジして決まりきったこと聞かせんな!」
「だからって勝手に言うことないじゃない! だからモテないのよ! デリカシーって言葉知ってる!?」
「おーおー知ってますよ、誰かさんみてェに後ろから人を突き飛ばすやつにはわかんねェだろうがな!」
本気の喧嘩がはじまる。まさか、オレ相手じゃなくて荒北さん相手にマジギレしている恋人の姿を見ることになるとは思わなかった。見るならオレと喧嘩したときだろうと思ってたのに。
「じゃあさっさと本人に言っちまえよ! 胸に詰め物してるってな!」
「最っ低! 言っとくけど成長したのは身長だけじゃないんだからね! もうパッド入れてないし、毎日筋トレしてEカップになったんだから!」
……E。
まさかの単語に驚いていると、荒北さんがハンッと鼻で笑った。
「嘘つけ」
「どうせ靖友にはわかんないでしょ、おっぱいさわったことないから!」
「ッセ!」
「後輩の黒田くんに先越されちゃうもんね!」
「黒田ァ! お前、わかってんだろうなァ!?」
なんでふたりの喧嘩にオレが巻き込まれてるんだ。ふたりの喧嘩の根源はオレで、そりゃ荒北さんの話に釣られて聞いたのはオレだけど、蚊帳の外のように感じるのはどうしてだ。なんで荒北さんにオレの童貞卒業を阻まれなくちゃいけないんだ。
さっきまで目を釣り上げていたのが嘘のように、目をうるうるとさせて名前さんがこっちを向いた。必死だ。
「本当だからね! なにも詰めてないから!」
思わず胸に目がいく。力を入れた腕によって強調された胸は、冬の制服越しでもわかるほどには大きかった。Eという単語がよみがえって頭を振る。いったんEのことは忘れよう、Eのことは。
「わかってます。それと、荒北さん」
名前さんを引き寄せると、軽い体は簡単にオレの横にきた。肩がふれあって、空気を伝って細い体が緊張したのがわかる。
「すみません、お先に」
「黒田ァ!」
怒声が響くのを聞いて笑う。名前さんの手を引っ張って、追いかけてくる荒北さんから逃げる。なんだかおかしくて笑っていると、さっきまで怒っていた名前さんもようやく笑った。オレのせいで怒る名前さんもいつか見るだろうけど、できるだけ笑顔でいてほしい。
握った手に力をこめて、名前さんが振り向く。
「靖友! ありがとう!」
結局荒北さんは彼女のために言ったんだろう。本人は絶対に認めようとしないだろうけど。手荒で、ほかの人だったら怒って許さないかもしれないやり方で。名前さんが言えないことを代わり言ったというほどではないけど、背中を遠慮なく蹴って後押ししたのは確かだ。
走る速度が落ちて、耳を冷やす風が弱まる。アァ?と器用に片方の目を細めた荒北さんの手を取って、名前さんはくすぐったそうに笑った。休日に母親と父親にはさまれて手をつないでいる子供のように無邪気に嬉しそうにされると、この状況に文句をつけたくてもつけられなくなる。
荒北さんと目が合う。口を歪めてしかめっ面をして、文句を飲み込んでいるような顔をしている。オレと同じ、いや、オレよりもっと早くこの状況をなんとかしたいと思っているんだろう。
「ユキくん、私ね、今よりもっとでぶっちょで髪はもさもさで、ニキビだってあったし、お洒落なんかできないセンスがないって決めつけて、努力しようとしない人間だった。だからユキくんに話しかけてもらえたとき、とっても嬉しかった。だけど、昔の私を見たり知ったら嫌になるかもしれないから、そのときは言ってね」
恋人になって呼び始めた「ユキくん」という名前はしっくりきて、名前を呼ばれるたびに心の恋を司るところが大声でわめきたてた。オレは特別なんだ、名前さんが恋人なんだと学校中の人に自慢したい気持ちでいっぱいになった。クラスメイトに、あの可愛い先輩が彼女なのかと聞かれたら、自尊心と誇らしさでいっぱいになった心で頷いていた。
「いまより鼻持ちならないエリートで、世界は自分のために回ってると思ってたオレを好きになってくれた人を、そんな簡単に嫌いになれませんよ」
ゆっくりと目が開かれる。瞳がゆれて、冬の淡い太陽の光に照らされて透き通った。目が細められて、頬に赤みがさし、動くたびに軽やかに髪がゆれる。
「ありがとう」
「礼を言うのはこっちですよ。オレ、もっと強く速くなりますから。荒北さんなんてすぐ追い越しますよ」
「言うなァ。さすが、女子寮の前でキスしただけのことはあるじゃねェか」
からかいながらもどこか嬉しそうに荒北さんが片目を細める。いい雰囲気だけど、いい加減この状況をなんとかしたい。ふたりでこのままキスしたり抱きしめたりするには確実に荒北さんが邪魔だし、はやく名前さんの手を離してほしい。
オレの気持ちがわかっているように、まだ名前さんと手をつないだままだった狼が意地悪く笑う。
「先越せなくて残念だったなァ」
「根に持ってたんですか。意外としつこいっすね」
青い火花でも散っているような冷戦に、オレたちを繋いでいる名前さんは気付かない。言えばすぐに解決するだろうけど、踊るように幸せを描く名前さんの黄色い時間を壊したくないと思う程度には、恋人に心を奪われているらしかった。
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