荒北さんに頭を下げたくはなかったけど、そんなことは言っていられない状況だった。電話してもメールしても返事はなく、名前さんが今どこでなにをしているかすらわからない。
終業式をしている広い体育館のなかで探してみても、人が多すぎて見つけられない。ホームルーム前に名前さんのクラスに行っても、荒北さんすら来ていない状況でどうすることも出来なかった。
せわしなく人差し指で机を叩きながらホームルームが終わるのを待つ。長々とした担任の話と、それを聞いていない浮かれたクラスメイト。いつもならそれに混じっているはずなのに、いまは日常の光景が憎らしく思えた。
ようやく担任の話が終わり、様々なものを渡されて教室を飛び出した。ひとつ上の階はすでに話し声がしていて、半分のクラスはもう帰りはじめているようだった。
やや乱暴に名前さんのクラスのドアを開ける。ホームルームは終わっているらしい。名前さんの姿はない。
「荒北さん!」
「んだよ黒田、今度は何やらかしたんだよ」
「名前さんは!?」
「さっさと帰った」
急いで電話をかけてみたが出てくれない。やっぱりと思いつつ、どこかで期待していたから落胆してしまったが、そんな暇はないと顔を上げた。勢いよく頭を下げる。
「名前さんを呼び出してください!」
「テメェで呼び出せ。オレを巻き込むな」
「電話に出てくれないんです。メールも返してくれなくて、お願いします!」
荒北さんはじっとオレを見ていたが、やがて面倒くさそうにケータイを取り出して電話をかけてくれた。女子寮の前で、という言葉が聞こえて顔を上げる。荒北さんからの電話には出るってことは、やっぱりオレを無視していたのか。
ずくりと胸が痛むが、オレに痛いだなんて言う資格はない。
「10分後に女子寮の前。なにやったか聞きたかねェんだから、さっさと行け」
振り返りもせず教室に入ってしまった荒北さんにもう一度お礼を言って頭をさげて走り出す。
靖友は、気付かないふりしてくれるから。優しいよね。
名前さんの言葉が蘇ってくちびるを噛んだ。名前さんの教室だって、この廊下だって、グラウンドだって、名前さんとの思い出にあふれている。出会って数ヶ月なのに、名前さんがいないと寂しくて仕方ない。
必死に走って女子寮について息を整えていると、泣きはらした目をした名前さんが出てくるのが見えた。まだオレに気付いていないらしく、まぶしさに目を細めて風でゆれる髪をおさえて歩いてくる。逃げられないように走っていって細い手首を掴んだ。
「名前さん!」
「っ黒田くん……! は、離して!」
「離しません! すみません……オレが悪いです。ぜんぶオレが悪いですから、お願いだから話を聞いてください」
懇願する声がでた。かすれて情けない声を聞いて、名前さんがゆっくり顔を上げる。泣いてすこし腫れた目。震えているくちびる。
「オレ、名前さんが荒北さんと付き合ってるって、勘違いしてて……でも、惹かれていくのを止められませんでした。好きになってないって思い込もうとしてたけど、認めるしかないほど好きになってました。名前さんを荒北さんから奪おうって思って、だから……付き合ってないって聞いたとき、そんなこと言ってられない状況だったけど、嬉しかったんです」
名前さんの目が丸くなる。抵抗していた手から力が抜けて、信じられないと見てくる顔に触れたくてたまらなくなる。
すこし迷って、手首を掴んでいない手をそろそろと伸ばす。さわったら壊れてしまうなめらかなガラスをさわるように、指先で頬にふれる。12月の風にさらされた肌は、やわらかくて冷たかった。
「好きです。名前さんが好きなんです。オレ、いっぱい名前さんを傷つけて泣かせて、こんなこと言う資格なんてないと思います。だけど、好きなんです」
返事だとか名前さんの気持ちだとか、不思議とそういったものを気にする気持ちはなかった。ただ、一度は拒絶された思いを伝えたくて、名前さんの誤解をときたくて気持ちを口にする。
ずっと荒北さんの彼女だと思っていた。この思いは誰にも知られたらいけないし、こんなに素直に本人に言える日がくるなんて思っていなかった。
そのささやかな喜びを噛みしめていると、名前さんがそうっと顔を上げた。震える睫毛の下から大きな目が覗いて、まっすぐオレをとらえる。いつもの、どこか芯のある優しい目だった。
「本当に……? 罪滅ぼしとか、嘘とか、そういうのじゃなくて……?」
「違います。嘘なら、こんな寒いのに十日もマフラーを探すなんてことしません。罪滅ぼしなら、こんなに悩まずに、誰の彼女でも気にせず告白してました。名前さんが好きなんです」
「黒田くん……あの、私……」
「……すみません、こんなこと言っても迷惑だってわかってるんです。オレ、もう行きますから。せめてこのマフラーだけ受け取ってもらえませんか?」
かばんの中からマフラーを取り出す。ぐちゃぐちゃになった包装紙やリボンも全部突っ込んだせいで、それらが絡まったマフラーを丁寧にたたむ。
渡そうとしたとき、しなやかな指がそっと下からマフラーを受け取った。まだかばんから覗いている包装紙やリボンもつまんで一緒に持っていく。
「バレッタももらっていい?」
「あ、はい」
バレッタを包んでいたチェック柄の包装紙ごと渡すと、名前さんはそれを腕に抱えた。向けてくれる笑顔は綺麗で、目を細めた拍子に涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう。本当は、とっても嬉しかった。本当に……」
泣かれるとどうすればいいかわからない。告白が気持ち悪かったのかと謝ったけど、それは違うと首を振られた。
ぽろぽろと綺麗な涙が次から次へとあふれでて、やわらかな頬を伝っては落ちていく。慌てるオレを見て名前さんは笑った。
「好きです。私も黒田くんが好きなの。ずっと、ずっと前から……」
信じられない思いで見つめるが、名前さんから嘘だとか冗談だといった類いの言葉はいつまでたっても出てこない。喜びがじわじわと足の先からのぼってくる。
「……本当ですか? 両思いだって、思っていいんですか?」
「黒田くんが、私を好きでいてくれるなら」
真っ赤な頬を隠したいのに両手のプレゼントのせいで出来なくて下を向いてしまった名前さんのあごを、すくいあげるようにして上を向かせる。緊張しきった顔に、ふっと気が緩んだ。
「好きです。オレたち、両想いですね」
「はい……」
「もう、ユキちゃんって呼んでくれないんですか?」
「だ、って、いつも緊張して呼んでたから、いまそんな余裕がなくて……」
可愛すぎてこのまま食べてしまいたくなる。
プレゼントを抱えていて抵抗が出来ないのをいいことに、あごに置いていた手を頬に移動させる。細い体がびくりとした。
いままでほかの男のものだと思っていた想い人が、実はずっと自分を好いていてくれたという高揚。両思いになったという満たされた気持ち。近付くだけで余裕がなくなるという言動。すべてが男のプライドと幸せを満たして、この可愛い人が彼女なんだと世界中に自慢して回りたい気持ちだった。
「実は今までキスしたことないんです。オレのファーストキス、もらってくれますか?」
彼女がいなかったのは、非常にくだらない理由だった。中学のときモテていたオレは、一番可愛い女子と付き合おうとしていたが、高校生の彼氏がいると発覚してさっさと諦めた。二番目に可愛い女子は一年のころから爽やかイケメンと付き合っていて無理で、三番目なんてオレのプライドが許さなかった。
今なら、それがどんなにくだらないものだったか笑い飛ばすことができる。あのこだわりも、名前さんに出会う前に興味本位や見栄ではじめての彼女という特別な存在を作らないようにするための、意味があるものだったように思えてくる。
これ以上ないというほど顔を赤らめて、うるんだ目を綺麗な茶色にきらめかせながら、名前さんは頷いた。
「私も、ファーストキスなの。それでもよければ……」
「それがいいです。名前さんのはじめては全部、オレがもらいます」
いままで我慢していた反動か、独占欲が頭をもたげてくる。ゆっくり顔を近付けると、名前さんの目がそっと閉じていく。
失敗するなんてかっこわるいことがないように、慎重にくちびるの位置を確認する。緊張して浅い呼吸を繰り返すくちびるが近くて、名前さんのにおいがして、体がふれそうになる。緊張と興奮で心臓がうるさい。
目を閉じたのとほぼ同時に、くちびるにやわらかなものがふれた。名前さんのくちびるだ。やわらかくて、口を閉じているのにそこから甘い吐息が流れ込んでくるみたいだ。
数秒か数十秒かわからない永遠を切り取ったような一瞬がすぎて、そっと離れる。名前さんは耳まで赤くなって、ほうっと息をはいた。緊張からか、声はわずかに震えていた。
「はじめて、もらっちゃったね」
「オレのはじめては、全部あげます。だから、もう一回」
あの甘さを味わいたくて、もう一度顔を近付ける。目を閉じる名前さんがこれ以上ないほど愛しく思えて、体中の血液が歓喜で踊った。世界中で一番可愛いこの人を傷付けて泣かせることはもうしないと誓いのキスをしているようだった。
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