鳴子章吉にとって名字名前は古臭すぎる定番ネタの宝庫であり、それを本人が自覚していないために鳴子のツッコミの的になっていた。
関西に来てツッコミの腕が鈍りつつあった鳴子は嬉々としてツッコミを入れた。もちろん名前が不快にならないようにだが。鳴子のそんな努力を汲み取ったのか知らないのか、名前はいつも分厚い眼鏡の奥で目を細めて笑っていた。
一年生レースも終わったころ、なぜ自転車競技部のマネージャーとして入部したのかと何気なく聞かれたときの名前の答えは、一年たっても語り継がれるものだった。
きっちり編んだおさげと膝まであるスカートを揺らし、厚いレンズの黒縁眼鏡を指で上げながら、名前はやわらかな声で答えた。
「お兄ちゃんもロードバイクをやってるから。あっお兄ちゃんって言っても従兄弟だから、本当の兄妹じゃないんだけど」
名前はいつもすこし高めの、ゆっくりした心地いい声でしゃべった。鳴子はその声が好きで、なんとなくその声に姿が釣り合っていないように見えてもったいないと思っていた。
「なんやそれ、随分仲いいんやな」
「お兄ちゃんは世話焼きだから、わたしのことも気になるみたい。だからお母さんたちが騒がしくなるんだけど」
「騒がしく?」
「お兄ちゃんとわたしは、親同士が決めた許嫁なの。冗談で決めたようなものだけど、仲良くしてるとたまに言ってくるんだ。お兄ちゃんとわたしは兄妹みたいなものだってわかってるのに」
くちびるをとがらせて少し拗ねながら言う名前に、部室にいた人々は驚いた。まさか漫画みたいな「親同士が決めた許嫁」という存在がいる人が身近にいるなんて、思ってもみなかったからだ。
それに、名前はつい先日「バナナの皮ですべって転ぶ」というツッコミどころしかない場面をみんなの前で披露したばかりである。なぜ部室の前にバナナの皮が落ちていたのか、なぜ見たらすぐにわかるそれを踏んだのかわからないが、踏んだだけでツルツルとすべり、転ぶ直前にスカートの隙間からいちごパンツが見えた。
あまりの出来事の連続に部員は部室の中からぽかんと口を開けて、痛そうにお尻をさする名前を見るしかなかった。小野田さえも照れる前に驚いている。
「なっ……なんでやねーん!」
鳴子も細かくはツッコめなかった。誰よりも先に我に返って、走って名前に駆け寄って助け起こしながらせわしなく口を動かす。
「なんでバナナで滑るねん! 見たらすぐにあるってわかったやろ! それにバナナであんなに滑らへん! 最後の最後までベタや、ベタすぎや! 怪我はないか?」
「大丈夫……ありがとう」
「ほんまか? 尻にアザ出来とるんちゃう?」
「たぶん大丈夫だと思う。あの、聞きたいんだけど」
「なんや?」
「鳴子くんってバナナの皮ですべらないの?」
「……は?」
部員全員に聞いた名前は、そこでようやく人はバナナの皮で滑らないことを知ったのだった。
そんな名前だったから、ベタにベタを重ねて「親の決めた許嫁がいる」という事実も、バナナの皮で滑ったときよりは冷静に受け止めることができた。いまもお兄ちゃんから数日に一度は心配してメールがくるだとか、恋人が出来たらまずお兄ちゃんに会わせる予定だとか、ツッコミどころしかない話をなんとかさばいていく。
「ちょお待って、ワイもう限界や。オッサン代わりにツッコんでや」
「なんでオレが。別にツッコまなくてもいいだろ」
「こんな話ツッコまずにおれるかい!」
鳴子がぎゃんぎゃんと子犬の喧嘩のように吠えていると、椅子から立ち上がろうとした名前がつまずいてこけた。驚きながら頭のどこかで冷静に「こんなんだからその兄ちゃんも心配してるんやろな」と思う鳴子の前で、名前の眼鏡がはずれて頭の上に落ちた。それだけでも衝撃映像だったのだが、名前はそのさらに上をいった。
とりあえず眼鏡をかけなおして状況を把握しようとした名前が、いつもの位置に眼鏡がないことに気付く。眼鏡がないとなにも見えない名前は、あせって床に眼鏡がないか手探りで探し始めた。
「め、眼鏡眼鏡……」
「……マジかいな」
思わず出た言葉は、この光景を見ていた部員全員の心を代弁したものだった。しばらく名前を見ていた鳴子は、立ち上がって名前の手を取った。床をさわって汚れてしまった手を軽くはたき、頭の上にあった眼鏡をとって名前に渡す。
「ほい」
「あ、ありがとう」
眼鏡をしていない名前を見たのは鳴子だけだった。顔を上げて微笑んだ一瞬で目が奪われる。
いつもはレンズのせいで小さく見えてしまっている目は大きくて黒く、まるで星屑を散りばめた満天の星空のようだった。いつも眼鏡を支えている鼻はよく見るとすっと通っていて、その下に赤くて小さなくちびるがある。
見惚れた鳴子に気付かず、名前は眼鏡をかけてもう一度お礼を言った。部員がいっせいに笑ったり喋ったりしはじめるなか、鳴子だけはさっきの名前の笑顔が目に焼き付いたまま動けずにいた。そんなベタな、と名前にツッコミを入れられる立場ではなくなってしまったことを、鳴子は静かに感じていた。
・・・
鳴子はいままで名前に話しかけてはいたが、それは選手とマネージャーとして、あるいは新たなベタなところを発見するためだった。しかし今は違う感情で話しかけようとしている。
鳴子のなかでの静かな変化に気付いた者はいなかった。鳴子はいままで自転車が一番で、名前を気にかけたことはなかった。名前をドジだと思い、小野田に言われるまで働き者であることに気付かなかった。
「でも、名字さんはいつもボクたちに合わせたドリンク作ってくれるし、体調悪いときだってすぐに気付いてくれるよ」
小野田に言われて思い出す。名前が部活に入ったばかりの頃、渡されたスポーツドリンクが薄いような気がした。だから会話のひとつとして「なんやこれ薄いような気がするわ。小野田くんはどう?」と聞いたのだ。小野田はそんなことはないと答え、そのまま違う話題になっていく。
その会話に名前は加わってなかったものの、すぐ近くにいた。そういえば、あれから渡されるボトルは、薄いだなんて思ったことはない。名前が調節してくれていたのだ。
そのことにようやく気付いたとき、鳴子はうなだれた。いくら自分のことで手一杯だからといって、部員を支えてくれているマネージャーを知らないうちにないがしろにしていた。ただのボケ要因として扱っていた。
これほど激しく自己嫌悪したことはなかった。うなだれ、自分を責め、心の中で数え切れないほど名前に謝罪し、ようやくひとりの人間として真正面から名前を見たとき、小野田の言っていたことが正しかったと知った。
名前は目立たないものの、細かいことによく気付いた。例えば走ってきたあとにタオルを探している選手がいれば渡し、体調が悪い者がいればすぐに気付いて駆け寄り、鳴子と今泉がいつものように意地を張り合って自転車で勝負するかとなれば、ストップウォッチを持って文句も言わず笑顔でタイムをはかってくれた。
それが霞んでしまうのは、その強烈すぎるボケの数々だ。マネージャーに向いている性格なのに、何もないところでつまずいたりバナナの皮で転んだりと、どこか危なっかしい。だから名前のいいところが霞んで見えなくなってしまうのだ。
名前はそれでもいいと笑うだろう。それがわかっているから、よけいに歯がゆかった。
うっかりしているように思えて意外と世話焼きでしっかりしているというギャップ、そしてダメ押しの眼鏡をかけていない姿。
気付けば鳴子は名前を気にしていた。近くにいれば目で追ってしまうし、いないとどこで何をしているか気になる。
この感情が世間ではなんという名前で呼ばれているか知っているが、鳴子はついこの間インターハイのメンバーに選ばれたばかりだ。そんなことにうつつを抜かしている暇はないと、今日も朝練前に峰ヶ山に登るために朝からロードバイクにまたがる。
「よっしゃ、いくで!」
気合を入れて坂をにらみつけて、ペダルに足を乗せる。今日の目標は昨日と変わらず、速く登れる方法を見つけ出すという、シンプルだが難しいものだった。
登っては降り、登っては降りを繰り返し、何往復したか数えるのも面倒になってきたころ、坂を上に誰かがいるのが見えた。もう朝練の時間かと思い慌てて時計を見たが、まだ早い。
登りきった先にいたのは、名前だった。
「お疲れ、鳴子くん」
「なんでここに……朝練、まだ始まらんで」
「頑張り屋の鳴子くんは、朝練前に水分補給もせずに練習してるんじゃないかと思って」
すべてを見透かしているような言葉に、鳴子は喉が渇いていることを思い出した。そういえば、重くなるとボトルを途中で置いてから水分補給をしていない。
薄くない、鳴子が好きな濃さのスポーツドリンクはよく冷えていておいしかった。座り込んでボトルを傾ける鳴子の横に座り、名前は目を細めて朝の光あふれる世界を楽しんでいた。
いつも三つ編みにしている髪は結ばれていない。朝の眩しい光をうけて黒く艷やかな髪が輝き、目を閉じて清涼な空気を吸い込んでいる。
横から見ると眼鏡をかけていない名前の素顔が垣間見え、初めて見る三つ編みをしていない姿と相まって、鳴子の心臓は高鳴るばかりだった。こんなことをされて好きにならん男なんておるわけないやろ、と心の中で誰かに言い訳をする。
肩に名前の頭が落ちてくる。無理をして朝早く起きたせいで眠りかけている名前の重みを右肩に感じながら、鳴子は空になったボトルを置いた。起こさないように名前の頭を肩から腕へと移動させ、支える位置をずらす。眠っている名前にくちびるを寄せ、そうすることが自然だというように口づけた。
わずかにふれるだけの、くちびるの感触すら満足に確かめられないものだった。鳴子の心は不思議と凪いでいて、気持ちよさそうに眠る名前の寝顔を見て、静かに自分の気持ちを受け入れた。名前が好きなのだ、ごまかせないくらいに。
「眠っているあいだに好きな人にキスをされる」という、少女漫画でしか見ないようなこれまたベタな経験が名前に追加されたのは、キスをした鳴子しか知らない事実だった。
・・・
「あかん!」
鳴子の声が部室に響き、みんな何事かと大声の主を見た。自分の声の大きさに驚いた鳴子は慌てて口に手をやったが、一度言葉にしたものを撤回する気はなかった。
荒ぶる心をなんとか表面上だけでも落ち着かせて、もう一度、今度は静かに言う。
「そんなことしたらあかん」
「どうして? 名前ちゃんすごく可愛いのにもったいないよ。コンタクトにして三つ編みをほどくだけで、すごい美少女になるよ!」
「名字が?」
冗談でも言ってるのかと、今泉が発言の主である寒咲と名前を見る。視線の先にいるのはいつもと変わらない田舎くさく見えるおさげと眼鏡の少女で、どう考えても美少女になるとは思えない。
「寒咲、おまえ目が腐ってるんじゃないか?」
「そんなことないよ!」
「スカシは黙っとれ。とにかく、そんなことしたらあかん。そのままがええんや」
「どうして?」
「どうしてって……」
鳴子と名前の目が合う。あの日の、眼鏡をしていない名前の笑顔。子供のように朝日のなかで眠る名前の睫毛の長さ。くちびるのやわらかさ。
レンズで遮られていない目は大きく光に満ちていて、彼女のこれからの人生も喜びがあふれているのだろうと確信することができた。
「……なんでもや。あかんもんはあかん」
寒咲が口を開く前に、鳴子のうしろから田所が近付いてきて肩を組んだ。重さで鳴子がつぶれる。
「鳴子、お前もしかしてそうなのか? んん?」
「るっさいですわオッサン! そんなんとちゃいますうー!」
「そんなことより、名前ちゃんは胸も大きいし、絶対損してると思う。ね、名前ちゃんいいでしょ?」
「よくわからないけど、お兄ちゃんに三つ編みと眼鏡は絶対にしておけって言われてて」
鳴子の眉がぴくりと動く。いままで名前の口から数え切れないほど出てきた単語は、鳴子の神経を逆なでした。
自転車のことを話せばお兄ちゃん、三つ編みにこだわりがあるのかと聞けばお兄ちゃんが昔編んでくれて嬉しかった、さりげなく恋人がいるか聞いてみればお兄ちゃんがまだ早いって。
名前に常につきまとっているお兄ちゃんの影に、鳴子はいい加減怒りが爆発しそうだった。恋愛はしてこなかったというけれど、名前が中学の入学式の日に遅刻しそうになって曲がり角で爽やかイケメンとぶつかり、その後イケメンと同じクラスで再開し、三年間クラスが一緒だったという話を聞いたのは記憶に新しい。
そのイケメンは絶対に名前が好きだと鳴子は確信していた。そうでなかったら毎年祭りに誘わないし、いまもマメにメールをしてくる理由がない。
名前の話を聞くかぎりでは、一度は告白をしていそうな雰囲気である。名前がそれに気付かなかっただけで。
「……前言撤回するわ。やっぱピカピカのキラキラにしてき」
名前の目に鳴子が映る。赤くて派手好きで、どんなときでも自分の生き様を後悔したりなんかしない、世界で一番かっこいい男の子。
口癖のような「お兄ちゃんが」という言葉は出なかった。鳴子がいつものように、自分を信じきっている顔で笑う。
「ほんまの姿みたら、スカシなんかびっくりして飛び上がるで」
「鳴子くん、でも」
「お兄ちゃんが、っちゅうんはナシやで。そのままでも十分やけど、とびきりのべっぴんさんになってきぃや」
鳴子の言葉に頷いたのは提案した寒咲だけでほかは首をかしげ、名前さえも鳴子の言葉を信じていなかった。小さいときから三つ編み眼鏡で、可愛いなんて言ってくれるのはお兄ちゃんしかいない。
だけど、いつもきらきらしているヒーローみたいな鳴子が言うんだったら信じてみようと、名前は笑った。
「わかった。とびきり可愛くなってくるね!」
宣言通り、名前がとびきり可愛くなって現れたのは月曜だった。部活の休みを利用してほぼ丸一日かけて行われた名前のピカピカキラキラ作戦は大成功だった。
コンタクトをした目は本来の大きさになり、髪は寒咲ほど長くはないが綺麗なストレートで黒く艷やかだった。スカートも短くなり、いままで小さな下着をつけてつぶしていた胸を寄せてあげたおかげで、制服の上からでもわかるほど胸が大きくなった。マスカラをつけて睫毛をのばし、頬に乗せたピンク色のチークが色の白さを際立たせている。
部活に来た名前を見て、部員が驚いて目を見開く。あの可愛い子は誰だという空気が漂うなか、一目で名前だとわかった鳴子が手をあげた。
「おはようさん! ばっちりべっぴんさんになってきたんやな」
「おはよう、鳴子くん。それが、自分じゃよくわからないの……お風呂上がりに見る自分と大差ない気がして」
自信がなさそうに言う名前に、鳴子は可愛いから安心しろと太鼓判を押した。鳴子と名前の会話を聞いた部員が騒ぎはじめ、なぜか鳴子が威張って名前の背中を叩く。
「ほら、スカシはびっくりして飛び上がるって言うたろ。自信持ちや、世界で一番可愛いで!」
名前の視線がさまよって、伸びた睫毛のすきまから鳴子を見上げる。お世辞だったらという不安を吹き飛ばすような鳴子の笑顔に、名前はようやく笑った。
青春の恋をする少女特有の、世界が幸せで満ちていると信じきっている笑顔。見ている生徒の心臓をいっせいに動かしたのを知らず、名前は鳴子だけを見て照れつつ微笑む。
「ありがとう。鳴子くんがそう言ってくれたから、わたし、世界で一番可愛くしてくださいって言えたの。一番に鳴子くん見せることができてよかった」
ありがとう。
もう一度お礼を言ったときに風が吹き、名前の髪を揺らしていく。乱れそうになった髪を押さえ、風が吹いてきた方向に若葉と太陽があるのを見て、名前がやわらかに目を細めた。
鳴子の心臓が高鳴る。このとき鳴子は、名前に二度目の恋をした。
・・・
鳴子の機嫌は悪かった。名前が綺麗になった日から、いままで見向きもしなかった男子がいっせいに名前を意識するようになったからだ。
名前の可愛さを自分だけが知っている優越感と、それを知らず生徒が名前を馬鹿にしていることへの憤怒がせめぎ合い、結局はお兄ちゃんへの対抗心でイメチェンをすすめたのだが、こんなことになるとは思っていなかった。
名前が転べばすかさず手が差し伸べられるし、ドジをしてもこの間までの笑いだけのものと違い「可愛い」という言葉が必ず入るようになった。
名前はその違いに驚いてどうしていいかわからないでいるようで、鳴子が近くにいると助けを求めてくる。それが嬉しくつかの間の優越感に浸るのだが、自分がいないところで口説かれているかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。
自転車に集中したいのに出来ない、名前を独り占めしたいのに勇気がない。もんもんとする鳴子に、信頼しきったように名前が寄り添ってくるものだから、余計に手を出せなかった。
「あーもう! なんやねん!」
部活後の自主練が終わり、暗闇に向かって叫ぶ。鳴子の様子がおかしいと心配していた小野田や先輩も今泉も先に帰ってしまい、残っているのは鳴子だけだった。
頭が空になるまでペダルを回そうと思ったのに、頭の中は変わらず整理ができず先に体力が空っぽになった。これ以上走ると帰る体力まで失ってしまうことに気付き、しぶしぶ部室へと向かう。はやく着替えて帰ろうといつもより乱暴に開けたドアの向こうで声がした。
「きゃっ!」
ドアの向こうにはボトルを抱えた名前がいて、思わず口があく。全員帰ったと思っていたのに、なぜ名前だけ残っているのか。
かすれた声で尋ねる鳴子に、名前は眼鏡をあげる仕草をしてから、もうそこにはレンズがないことに気付いて、照れ隠しで咳払いをして答える。
「頑張り屋の鳴子くんは、水分補給もせずに練習してるんじゃないかと思って」
いつだか聞いた台詞に、もう我慢できなかった。名前のことを考えないように練習に励んでいたのに、最後の最後に待っていたのは、ボトルを渡すためだけに待ってくれていた名前だった。
練習のしすぎで力の入らない脚を動かすと、いつもと違う気配を感じたのか、名前がすこし下がった。鳴子が距離をつめる。
名前の背中が壁にふれ、驚いて振り返る顔の横に手を置く。逃げられないように、今だけは自分だけのものだと閉じ込めるように。痛いほど握りしめた手は名前の顔のすぐ横にあって、ふたりの距離は近い。
「……あんま信用せんほうがええで。ワイがしょっちゅう話しかけてたんも、可愛くなってこいって言うたのも、ぜんぶぜんぶ下心があるからなんや」
「──それって、恋人にしたいの、下心?」
「当たり前やろ」
どんな答えが返ってくるかと心臓が爆発しそうになりながら待っていた鳴子の耳に届いたのは、予想していた怒りでも怯えでも軽蔑でもなかった。
「──嬉しい」
「……は?」
「わ、わたしも下心があったの。すこしでも可愛くなれば、鳴子くんに好きになってもらえるんじゃないかって……」
そんな可愛いものは下心とは言わないと思ったが、いまは口にする余裕がなかった。嬉しさに目を潤ませて頬をバラ色に染める想い人にふれたくて仕方がない。
グローブを乱暴にとって、細く長い名前の髪にふれる。そのまま頬をなで、緊張しきった瞳で見つめてくる名前に我慢できずにくちびるをよせた。
数秒たってくちびるが離れ、10センチしか離れていないような距離でふたりの目が開く。
「……これ、壁ドンっちゅうらしいで」
「ドン?」
「こんなんしながらチューとか、ほんまベタやなあ」
名前が顔をしかめる。それなりに思い入れがあったファーストキスのあとの会話がこれだなんて、納得いかなかった。
「じゃあ、これもベタ?」
名前の手が鳴子の首に回される。重なるくちびると体に、練習しすぎた体が耐え切れずに傾き、ふたりぶんの体重がかかった鳴子のお尻が痛そうな音をたてたのだった。
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