それが良いにしろ悪いにしろ何かに引き寄せられたのは間違いなく、引き寄せたのは誰かという問題になると、二人を知っているものは口を揃えて言うだろう。真波だと。

 その日名前が日直だったのは偶然だったのかもしれない。同じく日直だったクラスメイトは部活に早く行きたいとばかりに教室の窓から外を眺めていたので、名前は今日の一言を書くばかりになっていた日誌を引き受けた。
 新しい学年にも馴染みはじめ、堅苦しく名字で呼んでいた生徒たちが名前を呼びあうようになる、青々とした草木が生える季節。ようやく顔と名前が一致したクラスメイトを見送り、名前は高校に入って理解することが困難になりつつある数学について記して席を立った。

 名前は美術部だ。この学校の美術部は週に二度しかないためにゆっくり日誌を書く時間があったのだが、実際は外に出て自分の好きな絵を描けという顧問の方針だった。
 風景画が好きな名前としてはありがたく、今日も寄り道をして好きな場所を探す予定だった。描きたいと思う景色を見つけて満足する出来になれば参加したいと思っているコンクールもある。

 のんびりと職員室に日誌を出しに行った名前は、五分後にプリントを持って不服な顔で廊下を歩いていた。補習の代わりとなるプリントをクラスメイトに渡す役を担任に押し付けられたのである。
 目的地の自転車競技部が練習している場所につくと、名前はいくつも散らばる部室やトレーニング室、手入れされているロードバイクが次々と帰ってきてはまた出て行くカラフルな光景に目をみはった。インターハイで常勝し部員が大勢いるとは聞いていたが、目的がないとここまで来ることはないためこんなに大規模だとは知らなかった。
 この中からひとりの生徒を探し出すのは困難だと判断した名前は、そばを通った部員に真波の居場所を尋ねた。数分たち、その部員から巡り巡って出てきたのは、クライマーをまとめている副主将の東堂だった。思わず逃げたくなるのをこらえる。
 地味で運動部でもない名前は、東堂のような端正な顔立ちの有名人とは接することがないだろうと思っていた。新開や真波も同じである。真波とは、クラスメイトという接点はあるものの話したことはなかった。
 東堂が近付いてきて、緊張した名前に安心させるように笑いかける。目が細められとたんに話しかけやすい雰囲気になったのを感じて、名前は肩の力を抜いた。


「わざわざこんなところまですまんな。あいにく真波は、練習の途中で勝手に好きなコースを走り出したらしくてどこにいるかわからんのだ。補習用のプリントを持ってきたんだろう、真波に渡しておく」
「ありがとうございます。あの、インターハイっていつですか?」
「今年は8月1日から三日間だ」
「大変言いにくいんですがこのプリントは夏休みの補習の代わりで、今までさんざん言われていたのに出さなかったらしくて、今日中に出さないと補習に行かなくちゃいけなくなります」
「……補習の日程は?」
「8月1日です」
「皆の者! 真波を探し出せ!」


 真波に電話をかけながら、東堂は急ぎつつ冷静に指示を出した。
 部員の目撃情報と今日の練習コース、時間などを考え真波が行った可能性の高い道を何本か絞込み、部員に探し出すよう言う。その際、これから練習するはずだったコースと同じような道に行くようにしたのは、練習時間を損なわないための東堂の判断だった。
 連絡をしあえるように携帯電話を持つよう部員に指示したとき、探されているなど思ってもいなかった真波が、思う存分好きな山を登り満足した顔で現れた。 出発しようとしていた部員は、怒りつつも真波が見つかった安堵のほうが大きく、真波のいつもの行動ということもあり、軽く注意をしただけで終えた。
 東堂も注意しようとしたが、先に名前へ会わせるべきだと口を噤む。東堂に言われてようやく名前に気付いた真波は、いつもの気の抜けるような笑顔で話しかけた。


「えーと……誰さんだっけ? 同じクラスだよね、なんの用?」
「これ、先生から。このプリントを今日中に出さないとインターハイの日に補習だって」
「それは困るなあ」


 口ではそう言いながらも困った様子はなく笑う真波は、委員長は帰っちゃっただろうし、とつぶやいた。解決策を探すように視線を泳がせて、まだプリントを差し出したままだった名前をとらえる。


「そうだ、きみ手伝ってよ! オレ全然わかんなくて、プリントも委員長が教えてくれてたんだ。教えてよ」


 名前の予定など気にせず、断られることすら考えていないような真波に、お腹の底から怒りが湧き上がってくるのを感じた。
 ここまで来たのは恩を売るためでも礼を言われるためでもなかったが、ここまで清々しく名前をプリントを運ぶためだけの人だと見られると、さすがに文句のひとつでも言いたくなる。


「……先生、真波くんのこと待ってるって言ってたよ。今日は娘さんの誕生日で、はやく帰っていつも一緒にいられないぶんまでたくさん遊びたいけど、真波くんがインターハイに出たいだろうからって」


 名前のまわりが静まり返る。いつも身近にある、タイヤが地面をこする音や部員同士の声のかけあいが、名前を中心とした静かな円の外から聞こえてくるようだった。
 先程まで笑って真波を小突いていた部員まで黙り込んだところでようやく名前は自分の言ったことに気付いたが、ここまで言うともうやけくそだった。普段はこんなことを言わずに飲み込んでしまうのだが、先生が減っていく職員室のなか、時計とにらめっこしてはため息をつく担任の姿がいまも忘れられなかった。


「部員さんだって、練習メニューを変更して探しに行こうとしてたんだよ。真波くん、プリントを見てもいないよね。──インターハイ、出たくないの?」


 真波ははじめて名前という人物を認識したかのように、緊張しきった、けれど真剣な顔をしてプリントを持つ少女を見つめた。先程までの笑顔をしまいこみ、真面目な顔をしてプリントを受け取る。


「出たい」


 いつもの軽い調子とは違う、重みのある言葉だった。
 常勝箱根学園自転車競技部の、史上初の一年生メンバーという重みは、真波にとってはあるようでないものだった。
 生きていると実感できる走りがしたいだけで、インターハイに出たいと思うのもそれが大きな理由だった。伝統ある箱根学園のメンバーになれた誇りや重責というものは背負っておらず、それが軽やかな走りにつながっている。
 しかし、真波がどう思っているかにかかわらず、責任というものは生ずる。授業に出なかったがためにインターハイに出れないというのは真波の責任でもあり、部の責任にもなる。
 東堂はあえてそれを言わなかったが、もしかしたら間違っていたかもしれないと思った。目の前の少女は、真波が嫌う言葉を使わずにインターハイメンバーである自覚をさせた。
 子供のような素直さで、真波が頭を下げる。


「ごめんなさい。オレ、先生のこととか全然考えてなかった」
「わ、わたしこそごめんなさい、言いすぎちゃったし、言う権利なんかないのに言っちゃって、本当にすみません」
「構わんよ。オレが言わなくちゃいけないことを言わせたんだ、むしろ礼を言わねばならん」
「東堂さんすみません。オレ、プリントやってきます。全然わかんないから部活に帰ってこれないかもしれないけど」


 誰にも頼らずひとりでやり遂げようとする真波を見て、最初に感じた怒りや呆れというものが名前のなかから消え去った。真波のやる気を削がないよう、注意しながら口を開く。


「わからないんだったら、先生に聞いてみたら? 先生、真波くんが見つかったかどうかもわからないまま、プリントが終わるまで待ってるだろうから」
「そうしてみるよ! ありがとう!」


 プリントを持って走っていった真波を見て、名前は慌てて部員に頭を下げた。出すぎた真似をしてすみませんと何度も謝る名前の頭を上げさせた東堂は、あとは任せておくようにと言って、まだ申し訳ない顔をしている少女を送り出した。
 そうしてまだ呆気にとられている部員に声をかけ、予定通りの練習をはじめたのだった。

・・・

 翌日、名前はまた押し付けられたプリントを持って、ふてくされた顔で自転車競技部までの道を歩いていた。あの真波が真面目にプリントをしたという話を担任がしたらしく、今度は違う先生にプリントを渡してくれるよう頼まれたのだ。
 断ろうとしたものの、ふざけながらもどこか真剣に「今日デートに遅れたら恋人に振られてしまう」と頼まれるとノーとは言えなかった。いっそのことプリントを渡さずに帰ってしまおうかと思ったが、これをしなかったら夏休みに補習があると言われては行くしかない。
 自分の顔を覚えられていませんようにと祈りながら名前が目的の部室につくと、部活がはじまったばかりのようでノックをしても部員たちの雑談にまぎれて誰も反応してくれなかった。強めにもう一度ノックする。
 ようやく開けられたドアの向こうにいたのは東堂だった。自分の運のなさに名前がなげく暇もなく、東堂のうしろにいた部員がささやく。


「昨日の真波のやつだ」
「え? 真波の?」


 途端にざわめきが広がっていくのを、名前は顔を真っ赤にして聞いていた。まさか自分のことがこんなに広まっているとは予想すらしないまま来てしまった。
 東堂が素早く出てきてドアを閉め、名前に謝る。首を振った名前は、プリントを差し出して真波に渡してくれるよう頼んだ。これで終わりだと安心する直前、部室のドアが開く。
 出てきたのは、いま一番会いたくない真波だった。


「やっぱり名字さんだ。どうしたの?」
「プリントを渡しに来たの。これ、提出しないと7月31日に補習だって。それじゃあ」


 そそくさと去ろうとした名前の腕が掴まれ、引き止められる。
 驚きながら振り返った名前の目に映ったのは、想像以上に近い位置にいる真波の顔だった。昨日のように神妙な顔をした真波は、ここが入口で外に出られない部員の邪魔になっていることも構わずに話し出す。


「名字さん、オレ、今朝すごく調子が良かったんだ。昨日は部活に間に合って山を登ったけど、東堂さんにギリギリで勝てそうだった。だから、来週のレース見に来てよ」
「……え、んん、どうして?」
「オレ、名字さんがいると調子がいいみたいなんだ。オレになんでも言っていいから、見に来てよ」
「ごめん、行けないや」
「どうして? 用事あるの?」
「今月のお小遣いもう使っちゃって電車賃がないの」


 東堂がずっこけた。


「えー、誰かに借りたりできないの? 見に来てよ」
「お金の貸し借りって好きじゃないんだ。ごめんね」
「あっ、自転車で来たらどう? お金かからないよ!」
「持ってるのママチャリだけだから」
「行きは自転車、帰りは電車ならどう?」
「自転車を持って電車には乗れないよ」
「ロードバイクなら解体できるよ!」
「ママチャリしか持ってないんだってば」


 ずっこけたあと、ふたりの会話をイライラしながら聞いていた東堂が声を張り上げた。


「ええい真波! そういうときは自分が出すと言うものだろう!」
「あっそっか! オレもお金無いから考えなかったや」
「今回はオレが貸してやろう! いいか、真波に貸すんだぞ! 名字さんは返さなくていい!」
「えっそこまでしてもらうわけには」
「申し訳ないがレースを見に行ってもらえないか。オレのサイン入り生写真もつけよう!」


 押し切られた名前は結局レースを見に行くこととなり、東堂の写真をもらった。この日ほど、ノーと言えない自分を恨めしく思ったことはなかった。

・・・

 真波に誘われたレースの日、名前はロードバイクやレースのことにまったく知らない状態でレースを見ていた。
 だから、自転車が一瞬で目の前を通り過ぎるのも、柵などなく観客のすぐそばを走るのも、観客の熱気も、なにもかもが予想外ではじめての経験だった。真波が目の前を通り過ぎたのは一秒にも満たなかったのに、その一瞬で世界を鮮やかに塗り替えて風のように去っていった。
 名前が声を張り上げたのは真波の姿が見えなくなってからで、もう遅いと思いつつも叫ぶのを止められなかった。


「真波くん! 頑張って!」


 頑張ってなどというありきたりで他力本願な応援しか出来ない自分が歯がゆかったが、それ以上にいまの光景に心を奪われていた。ゴール付近は人が多いと聞いて行かなかったことを後悔しながら、名前は駆け足で頂上を目指した。
 名前が長距離を走ったのは去年のマラソン以来で、真波を見つけたころには足が上がらなくなっていた。乱れた髪を整え、気道や肺がきりきりと痛むなか、優勝した喜びを感じられない真波に声をかける。


「ま、なみくん」
「うわっ名字さんどうしたの? ひどい顔」
「走ってきたから……ひどい顔なのは放っておいて。それより優勝おめでとう。レースすごかった! 自転車のレースって見たことなかったんだけど、すごいんだね。一瞬で通り過ぎて、あの瞬間を絵に残せたらすごく素敵だと思ったよ」


 興奮する名前とは反対に、真波は落ち着いていた。まじまじと名前を見つめ、汗がひいて寒くなる前にとジャージのジッパーをあげる。


「オレ、名字さんがいたらもっと楽しくて生きてるって実感すると思ったんだけど、そうでもなかった」
「んー、そっか」
「でも、ゴールしたときに名字さんがいるって思ったら、いつもより寂しくなかった。だけど名字さんがいるからって速くなるわけでも遅くなるわけでもなかったし、うーん……よくわかんなかったから、次も見に来てくれる?」
「お小遣いが余ってたらね」


 失礼なことを言われていると思ったが、名前は怒りはしなかった。いつも人の顔色をうかがって言いたい言葉を飲み込んできた名前だったが、真波の前では不思議と思ったことを口に出せた。名前の言葉を気にしていないとわかったからだ。
 名前がどう言おうとも、真波はそれを受け流す。そして次の日には忘れてしまう。人によっては怒りを覚えたり呆れたりする真波の性格が、名前にとっては心地よかった。

 真波は空を写し取ったような青く澄んだ目で名前を見つめ、微笑んだ。


「約束だよ。次も見に来てね」


 次の日から、真波はひよこの刷り込みのように名前のあとをついてまわった。驚くクラスメイトや名前をよそに、真波はいつものマイペースを崩さず笑うだけだった。
 名前がプリントをするように言えば正解が少ないながらも素直にやり、授業もサボらず、遅刻もしない。あまりの変わりっぷりに高熱や頭を打ったことが心配されたが、真波は首を振って笑った。


「オレ、次のレースも名字さんに見に来てほしいんだ。東堂さんに言ったら、サボったり補習代わりのプリントをしなかったら来ないかもしれないって言われて。女子って、そういうの嫌いらしいから。だから、次のレースまでサボらないよ」


 サボらないのが普通だとツッコまれて、教室に笑いが満ちる。教室中が真波の行動をいいことだと捉えるなか、名前だけはなんとも言えない顔で黙り込んでいた。
 真波の言動をどう受け取ればいいかわからなかった。

 そうして真波について回られ、一緒に昼ごはんを食べたり休み時間中に話すのが日常となったころ、次のレースが始まった。真波は優勝し、名前はレースの勝敗に関係ないものの、ゴールで待っていてもらえると嬉しくなると前回と同じことを言った。
 それを聞いた名前は、素直に喜べないまま頷いた。真波は良くも悪くも無邪気だ。好意は感じるが、それが恋なのか友情なのかもしくは姉弟のような親愛なのかまったくわからなかった。これほど言動で示しておきながら何のにおいもしないことが何だか恐ろしく、名前は真波という人物を捉えきれないでいた。
 真波が名前の腕をとる。


「名字さん、絵を描く道具持ってきた?」
「うん」


 真波に言われて絵を描く道具一式を持ってきた名前は、優勝したシーンを描くのかと問う前に腕を引っ張られた。優勝のインタビューもそこそこに、真波が愛車を押して走り出す。


「すぐそこなんだ! 行こう!」
「なにが!?」


 質問には答えず人のあいだをすり抜ける真波は、自転車をおりてもなお羽が生えたように走る。走るのが得意ではない名前はついていくのに必死で、質問したり考えたりする余裕はなかった。
 5分ほど走ってさすがの真波も疲れを見せ、それからは並んで歩くこととなった。20分ほど登った先にある、平らで切り株がひとつあるだけの狭いスペースについて、真波は得意げに両手を広げた。


「これ、名字さんに見せたかったんだ」


 青々とした木々のあいだから青空と夕暮れが混じったような空が見えて、名前は息を飲んだ。真波を中心として、綺麗で澄んだ空気と景色が広がっているように感じる。すべての始まりは真波なのだ。


「コンクールに出るって言ってたでしょ? この景色、オレも好きなんだ」
「……描いていい?」
「うん。オレ見とくから」


 イーゼルを立たせてキャンバスを固定した名前は、いまの景色を忘れないうちに、変わらないうちにとパレットを開き、絵の具を絞り出して油を混ぜた。
 名前は下書きをしない。鉛筆などは使わず、いきなり絵の具を塗る。大胆に塗っていきながら細部を整え、書き込み、完成させる。
 名前のことをおとなしく自己主張しないと思っている者は、この描き方を見て考えを変える。おとなしいのではなく、内に秘めている熱いものが漏れ出していないだけなのだ。

 一心不乱に書き続け、あたりが暗くなってキャンバスが見えづらくなったころ、名前はようやく筆を置いた。息を吐き出してキャンバスを眺めて首をまわす。ななめを向いたときに真波と目が合い、ようやく真波がいたことを思い出した。
 昼間は空を吸い込んだように見えていた目が、いまは夜空の星のまたたきを映し出しているように見える。


「ごっ、ごめん! 夢中になって真波くんがいること忘れてた!」
「いいよ、ずっと名字さん見てたから」
「絶対に変な顔してたから忘れて!」
「綺麗だったよ」


 真波が名前に近付く。
 筆を置いた名前の指先は冷たくなっていて、あたためるように手を包み込む。突然のことで驚いて抵抗もできない名前のもう片方の手も握り、真波はすこし下にある目を見つめた。


「東堂さんに聞いてみたんだ。名字さんに嫌われたくなくていい子にしてて、レースの応援には欠かさず来てオレだけを応援してほしくて、ほかの男子としゃべると嫌な気持ちになるのはどうしてなんだろうって。そしたら恋だって言われた」
「……コイ?」
「名字さんとキスしたり手を握ったりしたいの好き」
「……恋」
「だから名字さん、好きだよ」


 返事は期待していない、ただ自分の思いを告げるためだけの言葉が木々のざわめきのあいだに溶けた。名前は驚いて真波を見つめるばかりで、体を動かす余裕さえない。

 真波は引き寄せたのだ。自分にとってなくてはならない存在となる名前を。
 これからさき真波が名前を離すはずもなく、渦のように引きずり込まれることがわかっていないのは、真波にとらわれている名前だけだった。


return


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