彼のするどい観察眼や細やかな気配りはあらゆる人に対して注がれていて、同じクラスというつながりしかない自分もその恩恵を受けていると名前は思っていた。
 それを実感したのは、震える手で本命だとひと目でわかるチョコレートを差し出したときだった。気まずくなってもいいという覚悟で作ってきたチョコレートを受け取り、東堂は礼まで言った。興奮と嬉しさで、そのあとのことを名前はよく覚えていない。

 内気な名前がチョコレートを渡せたのは、その前から東堂の優しさを感じていたからだった。
 たとえば授業でつい眠ってしまい、ノートが途中から宇宙語を書いたようになっていると、友達にノートを貸してという前に美しい文字で満ちたノートが差し出される。習字を習っていたという東堂の字は、流れるように、それでいて気負わず清涼な川のような文字を書き連ねるものだから、名前はいつも自分の丸くて安っぽい字が恥ずかしくなってしまう。
 東堂も眠りと現実のあいだをさまようように頭を落とすことはあったが、寝ている姿は滅多に見ることはなかった。勉学は学生の本分だと言い、いつも姿勢を正して授業を受けていた。自分で美形だというだけある整った顔をすこし冷たく見せる切れ長の目は、黒板と教科書とノートを順番にめぐっている。
 いつも眠ってしまう自分を恥ずかしく思うが、昼休みが終わって午後のあたたかな日差しが教室を照らし出すなか、もう数年で退職する教師の声を聞いていると、どうしても眠気に勝つことができなくなる。東堂からノートを貸してもらうという、恋する乙女にとっては重要なつながりが絶たれるのも嫌で眠たくなくても寝たふりをしていると気付けば眠ってしまっているのだ。

 名前と東堂がとなりの席になるのは二度目だった。二度目とはいっても、一度目は名前しか覚えていないかもしれない。
 三年になり、どこかよそよそしく感じるクラスに足を踏み入れたのが遠い昔のことに思える。先生がくるまで自由な席に座っているようにと言われた名前は、迷ったすえ中央よりの窓際の席に座った。新しいクラスにも知っている人や友人は何人かいたが、まだ来ていないようだった。だんだんと席が埋まっていく。

 自分から知らない人に声をかけることなんて出来なくて、座って時間をつぶしているしかなかった名前の隣に座ったのが東堂だった。一年たってようやくクラスメイトの名前を覚える名前でも、東堂のことは知っていた。自転車競技部に入っていてファンクラブがあり、口を閉じていると美形だがしゃべりだすと止まらない有名人。
 そんな人がとなりに座りさらに緊張した名前を見て、東堂は指先でカチューシャの位置を確認して話しかけてきた。なんとなく白くて細いというイメージがあったが、間近で気をつけて見てみると、女子ほど気をつけて切られているわけではない爪とすこし荒れてかさついた指先が目に入った。こんな些細なことで、有名人で関わることのない人間と決め付けていた東堂が、完璧ではない男子らしいところのあるクラスメイトだと認識が塗り替えられる。


「きみもこのクラスなんだな。名前はなんという? この美形を見ればわかるだろうが、オレは東堂尽八だ」


 その瞬間、名前の頭に「東堂くんは顔はいいんだけど、性格がねえ……」と友人が言っていたことを思い出した。
 面食いな友人に軽い気持ちで東堂はどうなのか聞いたところ、乗り気ではない言葉が返ってきたのだ。イケメンだからいいじゃないかと思っていたあの日の名前がこの言葉を聞けば、すぐに友人に同意していただろう。


「あ……名字名前です」
「クラスメイトだろう、敬語はいらん。同じクラスになったのも何かの縁だ、仲良くしようではないか!」


 それから名前は、東堂の止まることのないおしゃべりに付き合った。ときおり同じクラスだと判明した友人に挨拶をするものの、東堂はここが自分の席だと決めたように動かない。
 すぐにどこかに行ってしまうと思っていた名前は驚いたものの、おしゃべりを拒否する理由はなかった。つい数週間前までいた生徒しか受け入れないというような教室の雰囲気に、お互いのことをさぐり合いながら仲良くなっていこうという空気が漂う空間でひとりでいることはつらかった。

 東堂は滑舌がよく、聞く人を不快にさせないトーンでしゃべり続けた。名前が視線を外にやれば天気の話をし、緊張した様子を見せればリラックスさせるよう軽口をたたく。
 お互いのことをよく知らないうちから、東堂は気配りができて人の機微を感じ取り、打ち込んでいる自転車では優勝するほど強くくわえて美形なのだということがよくわかった。心から感心した。同じ年齢の男の子だとは、とても思えなかった。


「そこでオレは、もったいぶってなかなか教えようとしない巻ちゃんと連絡先を交換したんだ。ヒルクライムのレースがあれば当然巻ちゃんも出ているから確認することはないが、レース以外で走りたいと思ったときには連絡する必要があるからな。オレは山神だ。心が熱く叫び、力を出し切ってなおペダルを踏み込むようなレースは巻ちゃんとしか出来ない。巻ちゃんには本当に感謝している。巻ちゃんに出会えなければ、オレはここまで強くなれなかっただろう」
「巻ちゃんっていうのは、とても大切な……えーと、切磋琢磨する」
「そう、ライバル!」
「ライバル! それだ、ライバルなんだね」
「そうだとも! オレのダンシングとは正反対で、だからこそ燃える。熱くたぎる」


 話を聞くうちに、会ったこともない、向こうは名前の存在すら知らないだろう巻島裕介という男について詳しくなった。
 同時に東堂についても知ることとなった。得意な教科、新しい学年になることへの気持ち。はっきり言葉にしたわけではない自転車にかける情熱が一番伝わってきたのは、東堂が自転車を好いているからだろう。それが不思議で、引き込まれるように東堂の話を聞く。東堂は、朝から何度も様々な角度で確認してきた髪をなでつけ、いままでで一番やわらかな顔で微笑んだ。


「正直にいうと、新しいクラスに来るのは少し不安でもあった。未知の世界に飛び込むときはいつも期待に胸をふくらませているが、その影には不安がつきまとう。このクラスでよかった。ありがとう名字さん」


 お礼を言われるだなんて思っていなかった名前は、いままで東堂を直視するのを避けていたことも忘れ、優しく細められた目を見つめた。どこかでまだ自分とは関わることのない人間だと思っていた東堂を見てはいけないような気がしていたが、失礼なことを考えていたと思い知らされた。
 東堂は、名前のことを地味で話す価値のない人間だと思っていなかった。同じクラスの、ひとりの対等な人間として話してくれていた。
 顔が熱くてたまらなかった。穴があったら入りたかった。恥じ入ってろくに返事もできない名前を見て、気分を害したかもしれないと思われたことがわかって、急いで口を開く。


「わたしも。わたしも、東堂くんと同じクラスでよかった。話せてよかった。ありがとう」


 東堂は目を丸くして、いままでの大人びた雰囲気を崩して笑った。笑うと、細く綺麗に整えられた眉と切れ長の目がすこし下がり親しみやすくなる。
 人間関係を築くうえでどうしても必要な気遣いや遠慮といったものを取り払った、本来の東堂尽八に一番近い表情に見えた。いつまでもその表情を見ていたかった。けれどすぐに笑みは消え、いままで見てきた顔に戻る。
 残念に思いながら、教師が来るまでの残りわずかな時間を、名前と東堂はおしゃべりに費やした。そうして、名前の高校生活最後の一年は幕を開けた。

・・・

 バレンタインから一週間経っても、名前と東堂はなにも変わらなかった。幸福にもとなりの席で接する機会が多いなかチョコレートを渡して気まずくなったらと考えていたが、拍子抜けするほど変わらない。
 名前とて、望みはないとわかっていて渡しても、受け取ってもらえた以上なんらかのアクションを期待していた。しかし翌朝、東堂はいつもと同じように挨拶してきて、休み時間になると授業のことや部活のことを話した。受け取ってもらえただけでも喜ぶべきなのに、どこまで欲深いのかと自分を戒める。
 東堂は、チョコレートをもらうことに慣れているだろう。告白されることにも、チョコレートを渡されることも毎年恒例となっているはずだ。名前も、そのなかの一人にすぎない。いつか思い出されるかもしれない、忘れられるかもしれない、曖昧なところを漂っているチョコレート。
 気を遣っているのか、東堂はバレンタイン以前より、本人たちしか気付かない程度近くで話すようになった。ふった相手の心まで考えるのが東堂尽八という男だった。謝ると余計傷付けることを知っている。薄く透明な膜で包んではやく傷が癒えるようにと以前と変わりなく接してくるのが悲しくもあり、だからこそ東堂を好きになったのだという誇らしささえ感じた。


「名前」


 こっそりと囁いてノートの切れ端を回してきたのは、となりの席の友人だった。右が東堂、左が友人というこの席は、名前にとっては大当たりだった。
 生徒を注意しないと評判の耳の遠い教師は、もごもごと喋りながらチョークを黒板にこすっている。念のため教科書で隠すようにして四つ折りにされた紙をひらくと、一番最初に東堂という文字が飛び込んできた。心臓が脈打って、急いで全文を読む。

「東堂くんがチョコレートが受け取ったらしいよ。誰が渡したか知ってる? よく東堂くんと話してるよね」

チョコレートを手渡したことを知られたと思った。カマをかけられたのだ。慎重に言葉を選んで、東堂にも先生にもバレないように書く。

「いろんな人に渡されてるんじゃないの? 東堂くんモテるし」
「好きな人からの本命からしかチョコは受け取らないって言ってたじゃない。一年の頃から受け取らないって有名で、全部断ってたって。でも今年は受け取ったらしいんだ」
「受け取らないなんて言ってた?」
「言ってたよ。HRで宣言までしてたでしょ」

 自分のしたことを思い出し、名前は目の前が真っ暗になって足元に底なしの穴があいて吸い込まれたように思えた。
 冬休みが終わってから、東堂がチョコレートやバレンタインという単語をよく口にしているのは聞いていたが、なにを言っているか聞いてしまえば傷つくことがわかっていたから聞かないようにしていたのだ。今までもらったチョコレートの数や、なにがほしいのか話しているのだと思っていた。


「名字さん、顔が真っ青ではないか」


 自分のしたことの大きさにめまいがして吐き気さえ感じていた名前の様子がおかしいことに気付いたのは、友人ではなく東堂だった。静かな教室に凛とした声がよく通る。
 教師がチョークの白い粉を指につけたまま振り返って、名前の顔色の悪さを目にし、保健室へ行くように促した。返事さえ満足にできず、頷くことで意思表示をして立ち上がる。ふらついたところを、そうなることがわかっていたように東堂に支えられた。
 名前は注目されたり目立つことは好きではなかったが、そんなことは気にしていられないほど気分が悪かった。支えてくれる東堂に合わせる顔がなく、大丈夫だと腕を押したが体重を預けるようになってしまった。指先に無駄な脂肪のない、ほどよく筋肉がついた腕を感じる。


「保健室へ行こう。歩けるか?」
「外……外の空気、吸いたい」
「わかった、では外に行こう。先生、すこし帰ってくるのが遅くなります。この状態の名字さんを放っておけません」


 先生の許可を得た東堂に支えられ、ふらつく脚でなんとか歩き出す。支えている東堂からわずかな緊張を感じ取り、名前はなんだかおかしくなった。体調の悪い自分を支えてくれているだけなのに、すこしでも不快な素振りを見せればすぐに手を離せるよう身構えている。

 東堂に支えられなんとか一階までたどり着いた名前は、階段のすぐそばにある小さなドアから外に出た。非常口のようになっているドアから出ると、グラウンドが見渡せる。校舎の端にあり授業中なこともあって、人のいない独特の静かさが流れていた。
 深呼吸をすると肺に新鮮な空気が満たされ、さきほどの気分の悪さが嘘のようにかき消えた。冬の突き刺さるように澄んだ空気を何度か吸い込み、名前は意を決して東堂と向き合った。気分がよくなるのを黙って静かに待ってくれていた東堂は、名前の顔色がよくなったことに安堵の表情を浮かべ、次いで深刻な顔に気付きくちびるを引き結んだ。


「……ごめんなさい。東堂くんが好きな人からのチョコしか受け取らないって知らなくて……渡してしまって、ごめんなさい」


 東堂がチョコレートを受け取ってくれたのは、となりの席同士で気まずくならないようにするための配慮としか考えてなかった名前が、泣きたくなるのをこらえて顔を上げる。息を飲んだ。
 東堂は真剣な顔をしていた。黙っていれば冷たい印象を与えるとわかっているため、女子とみればいつも笑みを絶やさずに話しかけやすいよう雰囲気をやわらげていた東堂が、あえてそれをしなかった。間近で見たこともない顔を見た名前がわずかに怯えるのを感じ取っても、いつものように目を細めてくれはしない。


「……なぜ、謝る」
「東堂くんが、チョコレート受け取らないって知らずに渡しちゃったから……」
「受け取ったぞ」
「それは」
「受け取った意味は考えたか?」


 こんな時だというのに、名前は東堂の美しさに魅入られていた。冬の淡い太陽の光を反射して黒く輝いているひとみには自分しか映っていない。


「どうして……?」


 名前の口から漏れたのは疑問だった。なぜ受け取ったかではなく、どうして自分を好きになったのかと問う微かな声に、東堂は迷いなく口を開いた。


「三年生になり、一番最初に話したのが名字さんだった。オレはいささか喋りすぎるきらいがあるようで、とくに女子は仲良くなる前に遠ざけられてしまうんだ。だが名字さんはオレの話を楽しそうに聞いてくれた。――嬉しかった。また話したいと思った。機会をうかがってもう一度話しかけても、まだ楽しそうにしていてくれた。いつまでこんな表情を向けてくれるかと思っていたが、となりの席になった今も変わらず笑顔でいてくれる。話すだけじゃ物足りなくなった。名字さんの話もきいて、休日はなにをしているか、趣味や見ているテレビのこと、好きな服装や本……そういったものをもっと知りたくなった。気付けば、好きになっていた」


 ようやく思いを告げることができたと言わんばかりに自身の恋を吐露する東堂は、しゃべりすぎたことを悟って一度口を閉じた。それから、心の奥底にある一番やわらかい感情をそっと差し出す。


「だから、チョコレートをもらったとき、嬉しかったんだ」


 まさかという思いで聞いていた名前に、真摯な言葉が染み込んでいく。それは自分が生み出した都合のいい幻ではなく真実で、とても甘い蜜を含んでいた。
 名前が頷く。何度も噛み締めるように頷いたあと、これでは伝わらないことに気付いて、幸福でふるえる声をなんとか絞り出した。


「わたしも、わたしも東堂くんが好き……」
「……よかった」


 いつもよくしゃべる口を動かしてどれだけ幸せか伝えるかと思いきや、東堂から漏れたのは幸福と安堵を噛みしめる一言だけだった。
 東堂の、冬でいつもより荒れた手が伸ばされる。どこにふれようか、ふれてもいいものか悩んで空中をさまよっている手。名前は勇気を振り絞って近くまできた手のひらに頬をすりよせた。ロードバイクのハンドルを握ってかたくなり、タコができている手のひらが、やわらかく恋に火照った頬を包み込む。

 衝動に任せてくちびるを寄せようとした東堂は、急ぎすぎたと自分を戒めた。キスという大きな壁は、付き合って最低一ヶ月はたたないと乗り越えてはいけないものだ。
 慌ててそらした目をおそるおそる愛しい恋人へと向けると、そこにはくちびるがこないことを不思議に思いゆっくりと目を開ける名前がいた。
 心臓が口から飛び出しそうになりながら、このキスが早いのか遅いのか考える余裕もなく東堂が好きだという一心で目を閉じていた名前は、てっきりキスをするものだと思い込んでいた自分に気付いて真っ赤になった。


「あ、や、今の忘れ」


 言葉は途中で途切れる。吐息が混じり合いゆっくりと離れたあとに鳴ったチャイムと、とたんに聞こえてくる生徒の声。
 その中でか細く聞こえた「……はじめてなの」という声に東堂がもう一度くちびるを寄せたのも、無理もないことだった。


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