それは突然だった。なんの前触れもなく、名前の思考が恋に染まる。
幼馴染であるふたりにとって、教科書を貸し借りしたり、物を運ぶのを手伝ったりするのは、さほど珍しいことではなかった。女扱いされない名前を泉田はよく手伝っていたし、雑用を頼まれた泉田に手を貸す名前の姿も日常だった。
だからこそ、泉田はわからなかった。ノートを職員室に持っていく名前の姿を見かけ、手伝う。それは何度も繰り返された光景で、並んだ近さも変わらない。
名前も、うねる自分の感情を把握しきれなかった。ただ、ふと気づいてしまったのだ。
となりを歩く泉田は、もうずいぶんと前から見上げないと顔が見れない。下から見た泉田の顎の輪郭が、窓から入った初夏のあわい眩しさで霞んで見えた。鍛えられた体。声変わりして低くなったけれど変わらず好きな声。耳の形はちいさな頃から変わらない。
泉田は男だった。際立ってくる性別の違いに気づかなかっただけで、泉田は立派な青年へと成長していた。
弟のようだが家族ではなく、友達だが男同士の友情というものには割り込めない。名前にとって家族であり友人である泉田への、様々な愛を含んだ形が急速にかたまっていく。いつからか、そういった意味で好意をよせていたことに気付き、名前は顔を真っ赤に染め上げた。
「……え」
名前を見て動揺した泉田を、誰が責められよう。
長年ずっとそばにいた泉田でさえ見たことのない、恋する女の顔を、名前はしていた。
「で、逃げてきたわけか」
黒田の声に、名前は力なく頷いた。女らしさに欠ける名前がこんなに静かなのは、授業中か体調が悪いときくらいだ。
顔をあげない名前をいぶかしんで黒田が覗き込んでみると、真っ赤な頬が目に入った。黒田が驚き、はじかれたように元の位置へ戻る。見てはいけないものを見たような気がした。
小さいころから一緒にいるからこそ、名前はいろんな好意をごちゃまぜにした気持ちを、泉田に抱いていた。友愛に少しばかりの家族愛がまじっている中心に、恋慕が小さくかたくうずくまって、芽吹くときを待っている。
名前が自覚したとたん、いままで貯めていたものを解き放って名前の心を支配したそれは、突然すぎてとうてい受け入れられるものではなかった。
「塔一郎、ぜったい変に思った。もう塔一郎の後ろ姿しか見れない」
「見るのはやめないんだな」
「うん」
あいかわらず深く顔を沈めた名前は、いつもの歯切れのいい声とは違い、もそもそと喋った。声だけ聞くと、とても名前とは思えない、途方に暮れた声だった。
「大丈夫だって。そんなんで、塔一郎が名前を嫌いになるかよ。いまの気持ち、そのまま伝えたら、絶対うまくいくから」
そりゃあもう、間違いなく。泉田がどれほどのあいだ、名前に愛を注いできたか、知らないのは本人だけだ。
泉田と名前は紛れもない親友で、それが泉田をどれほど助け、どれほど苦しめたか。見ていることしかできなかった黒田にできるのは、名前の背中を押すことくらいだ。
「……うまくいかないかも」
「うまくいく。もしだめだったら、ロードバイク降りてやるよ」
名前の目が見開かれる。いまの黒田にとって、ロードバイクがどれほど重要か、名前にもわかっている。
腕を持って立たされる。ほら、と背中を押され、名前はその勢いで一歩踏み出し、止まった。いつもの名前らしくないとまどいに、黒田はつとめて明るい声をかけた。
「塔一郎、中庭にいるってさ。もう10分で昼休み終わるぞ」
名前は、自分の意思で、足を踏み出した。もう一歩、もう一歩。
気がつくと、スカートのことなんか気にせず走り出していた。はやく、はやく、幼馴染に会わなくては。
息をきらした名前は、すぐに泉田を見つけた。ずっと避けられていた泉田は、突然やってきた名前に、声をかけていいものかためらう。もし、声をかけて拒絶されたら。
そんな泉田に駆け寄った名前は、ベンチに座る泉田の前に、汚れるのも気にせず座り込んだ。
「塔一郎、わたしの気持ち聞いてくれる?」
「あ、ああ」
「塔一郎が、いきなり男の子になったから、驚いたんだ。びっくりして、顔も見れなくて。これからも、仲良くしてくれる?」
「もちろんだよ」
名前の話は、自身の感情を説明しているようでしておらず、泉田にはよくわからなかった。けれど泉田は、ためらいなく頷いた。名前がそばにいるのはもはや日常で、名前の願いは、むしろ泉田から懇願したいくらいのものだった。
晴れやかな顔になった名前は、勢いよく立ち上がって、太陽のような笑顔を向けた。泉田が、名前のスカートの汚れを払う。そのまま立ち上がって、ふたりで教室へ歩きはじめる。
泉田は、ずっと名前の隣りにいた。ずっと名前を見てきた。だから、名前が突拍子もないことを言っても理解するのが一番はやいし、言葉がたりないときも、その感情をかなり正確に読み取ることができた。
上機嫌な名前を見下ろす。泉田の心も、浮き立っていた。
「ねえ名前。ボクの気持ちも聞いてくれるかい?」
「なに?」
「ボクは、名前ともう一歩先へ進みたいんだ。どうかな」
「んー、よくわからないけど、塔一郎とだったら、いいよ」
「ありがとう」
その言葉は、泉田がなにより望んだものだった。
泉田はそっと手を伸ばし、名前の手を握った。名前が驚いて泉田を見上げ、この恋に気づいたときのように、顔を赤く染める。
ぎこちなく止まったふたりは、おずおずと歩き出す。ふたりの未来は、きっとここから。
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