「まさか、こうなるとは思わなかったなァ」

 荒北がぽつりとこぼした声に、名前が首をかしげる。荒北の言う「こうなる」の範囲が広すぎて、どれを指しているのかわからない。
 大学生になって、ほどほどの遠距離恋愛をしていることだろうか。お互いロードバイクに自由時間の大半を費やしていて、めったに会えないことかもしれない。
 高校に引き続き、それぞれ違う大学に進学したので、ロードバイクのこととなるとライバルなのは変わらない。たまに会えても、お互いの休みが一致することは滅多にないから、あまり一緒にいられなかった。
 荒北が練習を終えて、今日ばかりはと早く帰れば、名前がご飯を作って待っているのは、最高にモチベーションがあがることだった。

 お風呂に入ってさっぱりした荒北は、髪を乱暴にぬぐいながら、名前の後ろから手元を覗き込んだ。つけあわせのレタスが、日焼けして少し荒れた、荒北より小さな手でちぎられていく。
 名前の肩にあごを乗せると、わずかな動きでもよく伝わった。

「髪乾かさないと、風邪ひくよ」
「そんなヤワじゃねーよ」
「せめて服は着て」
「ズボンはいてる」
「最低限すぎるでしょ。服着て、髪かわかさないと、ご飯食べちゃだめだからね」

 名前の服に、髪から落ちたしずくが吸い込まれていくのを見て、荒北は素直に離れた。
 短い髪は、タオルでぬぐうだけで自然にかわく。一人暮らしのこの部屋にドライヤーがあるのは、たまに来る名前のためだった。
 名前と荒北の休みは、めったにかぶらない。たまの休みは、相手が部活に行っていることがほとんどで、一緒にいられる時間は少ない。
 今日だって、名前は前日の夜に、電車を乗り継いで荒北の家まで来た。久々のふたりきりの時間を、少しでも無駄にしてたまるものかと、荒北は自分のすべての意識を名前へ注いだ。
 朝になって部活へ行ってしまう荒北を、名前は笑顔で見送った。ほんのわずかな一瞬を見るために、荒北が通るコースの途中で、長い時間ずっと待っていたのを知っている。昼休憩の少しの時間をともに過ごし、恋人より優先するロードバイクにまたがった荒北を、名前がまぶしい笑顔で送り出したとき、胸がざわついたのを、まだ鮮明に覚えている。
 あまり一緒にいられないことを荒北が謝ると、気にしないようにわざと軽い調子で「他校の偵察ができてよかった」と言う名前の優しさを、荒北はよく知っていた。

 反対に、荒北が名前のもとへ行くときも、似たようなものだ。名前を待っているあいだ、荒北はロードバイクの練習をしているので、おそらく名前よりは充実した時間をすごしている。
 パジャマ代わりのくたびれかけたスウェットを着て、荒北は改めて名前の後ろを陣取った。すかさず名前に押しのけられる。

「いま揚げ物してて危ないから、近寄らないで」
「へーい」

 のそのそと戻り、手持ち無沙汰でテレビをつける。ニュースキャスターの声をBGMに、エプロンをしてせっせと動き回る名前を見るのは、悪くない。ぶっちゃけると、悪くないどころか最高だ。
 油と格闘し、勝利した名前が、おいしそうなにおいを振りまくご飯を持ってくる。じゅうじゅうと音を立て机に置かれるメインディッシュに、荒北のお腹はぐうぐうと鳴った。
 ふたりでご飯を運び、手を合わせていただきますと言う。荒北の箸がすさまじいスピードで伸ばされるのを見て、名前は目を丸くしてから笑った。

「今日の練習もハードだったから、お腹すくよね」
「おう」

 言葉少なに口におかずを詰め込み、すかさず白米をかきこんだ荒北は、咀嚼もそこそこに飲み込んだ。

「うまい」
「よかった」

 名前が、心底安心したように微笑む。荒北の言葉を待っていたように食事をはじめた名前は、口に含んだおかずをけわしい顔で飲み込み、これならと息を吐き出した。同時に体の力が抜け、荒北の前でしか見せない名前の顔になる。

「んな心配しなくても、毎回うめェだろ」
「いや、そうなんだけど」

 しばし視線を泳がせた名前は、照れながら口を開いた。これも、荒北の前でしか見せない顔だ。

「……いっぱい、料理の練習したから。だから、いままで荒北に作ったものしか、自信ないんだ」
「……いま言うのォ」
「だめだった?」
「抱きしめてェのに、飯食わなきゃ冷めるだろ」
「わたし、もうすぐ帰るしね」
「……イケる?」
「いけません」

 荒北の、こどものように拗ねた顔に、名前の頬がゆるむ。こんなふうになると思わなかったというのは、名前のせりふだ。
 こんなふうに、お互いの家に行き来し、食卓を囲むだなんて思わなかった。荒北が、外では見せない顔を、態度を見せるたび、名前の胸はゆるやかに締め付けられる。
 諦めて食事を再開した荒北が、ふっと笑った。

「社会人になっても、名前とはライバル関係の会社に就職しそうだな」
「そうかも。そうなっても、今度はもうすこし近くに住みたいね」
「車でも買うかァ? 終電とか気にしなくていいだろ」
「でも、買うならロードバイクじゃない?」
「だな」

 自然と将来のことを語り合い、相手が自分の未来にいることを疑っていない会話は、お互いの気持ちが変わっていないことを確認できる。
 律儀に手を合わせてごちそうさまを言った荒北は、普段は見せない、やわらかい雰囲気で口の端を上げた。

「なんだか、いつも未来の話してんネ」
「そうかな? うん、そうかも」

 "いま"の話は、いつもメールや電話でしている。今日あったこと、いまからやらなくちゃいけないこと。
 会えば自然と、これから歩む道の話をしていた。インターハイが終わったら。受験が終わったら。大学生になると、今度のレースや就職先の話。
 荒北の手が、名前へと伸びる。

「イケんだろ」
「……いけるかなぁ?」
「全速力で送る」
「ロードバイク、一台しかないじゃない」
「ママチャリ借りて送る」

 反論をふさぐように、名前のくちびるにくちびるが重なった。視界が変わる。
 荒北の、自分で未来を掴んでいくことができる手は、名前を掴んで離さない。


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