その日、名前は緊張しきっていた。手嶋と結ばれ、誰に聞かれても恋人だと口にしていい関係になったのは、つい先週のことだ。まだ夢のようで、もし手嶋に恋人になったのは気の迷いだったと告げられても、受け入れる覚悟だけは心に沈めていた。
 だが週が変わってもその気配はなく、青八木の様子をうかがっても、短いけれど熱のこもった言葉をかけられただけだった。もしかすると、この自分にとって都合のいい展開はしばらく続くのかもしれない。
 いつも差し入れする木曜に、おそるおそるいつもより豪華なものを作って持っていくと、名前を待っていた手嶋は顔をほころばせて差し入れを受け取った。

「名字、今日の昼、なにか予定はあるか」
「ないですけど、あの、差し入れいりませんでしたか?」
「いる。木曜はこれのために来てるんだから」

 手嶋のなかば本気の言葉に気付かず、名前はお世辞だと思って微笑む。そんな名前を見て頭をかいた手嶋は、ポケットから鍵をとりだして人差し指にひっかけ、器用に回した。

「じゃあさ、一緒に飯食おうぜ」

 手嶋の言葉を飲み込めず、何度もまばたきをする名前の顔をのぞきこんで、手嶋は軽やかに笑った。

「木曜の五時間目って、選択科目なんだよ。オレは音楽とってんだけど、よく先生に準備を頼まれるんだ。だから先生に、そんなに頼んでくるならこれからもオレが準備しときますよって言って、職員室から堂々と取ってきた」

 手嶋と鍵を何往復かして、名前はようやく視線を動かすのをやめた。すこしばかり緊張していたのを隠すために動かしていた手嶋の口が閉じられると、緊張が空気に溶けて名前によく伝わった。

「……わたしと食べていいんですか? 青八木さんとか友達とか、もっと一緒に食べたい人がいるんじゃ」
「いねェよ」

 熱のこもった声で即答されると、名前の顔に熱が集まった。心臓がうるさく跳ねる。手嶋の顔を見られず、落ち着くため意味もなく視線を廊下にさまよわせた。

「わ、たしでよければ」
「よし、決まりだ。弁当持ってきたか?」
「いえ、教室に戻るついでに、友達に言ってきます」
「あー……悪いな。そっちも予定があるよな」
「いえ。友達も喜んでくれると思います」

 名前が心底嬉しそうに微笑むと、つられて手嶋にも笑みが浮かぶ。

「いい友達だな」

 名前が頷いて軽やかに駆け出す。揺れるスカートを心配する手嶋には気付かず、名前はいつもより浮かれて階段に脚をかける。苦笑してそれを追う手嶋の顔には、確かな愛が刻まれていた。

 すこしばかり遠い音楽室にたどり着いたふたりは、わずかだがエアコンが稼働していることを感じ、近くの椅子に座った。

「悪いな、わざわざ遠いとこに来ちまって」

 名前が首をふる。もう寒いこの時期、ほとんどの生徒は教室で昼食をとる。ほかのクラスの生徒が来ただけでも注目されるというのに、下級生の名前が手嶋とお弁当を食べるなど、到底できそうになかった。
 それに、ふたりきりだ。正真正銘のふたりきり。緊張するが、こんな機会を逃すはずもない。
 ぎこちなくお弁当を開ける名前を見て、手嶋がちいさく吹き出した。

「わり、名字が緊張しまくってるから、なんだか可愛くて」
「そ、そういうことは気軽に言わないほうがいいと思います」

 耳まで赤く染め上げて、恥ずかしさから抗議する名前を、手嶋が愛しげに見つめる。

「オレ、思ったんだ。言葉は力になる。伝わる。ひとりきりのときでも背中を押してくれる。だけど、その逆もあるんだよな。自分の気持ちを認めたくなくてひどいこと言って、名字を傷つけた。だからオレ、名字にだけは、積極的に本心を言うことにしたんだ」

 名前の動きが止まる。恥ずかしさでじんじんとうるさかった心臓の音がすっと消え、手嶋の目を覗き込んだ。永遠のような一瞬の、胸がつまるような静けさ。

「じゃあ、手嶋さんの言葉はぜんぶ、大切に覚えておきます」

 名前がはにかむと、冬のしんしんと降り積もる静謐が、春の息吹へと変わる。音楽室が、名字らしいやわらかなパステルカラーで彩られたように息づいた。
 手嶋は、知らず止めていた息を吸い込んだ。自分で思っていた以上に名前に惚れている事実を受け止めるのは気恥ずかしかったが、いつだって手嶋の努力は、自分の立ち位置の確認から始まるのだ。

「オレも、名字の言葉を覚えておくよ」

 手嶋のまぎれもない本心に、名前はまた、嬉しげにはにかんだ。
 高校生らしい初々しさでお弁当を食べるあいだ、ふたりはお互いのことをもっと知ろうと口を動かし続けた。好きなもの、嫌いなもの、その理由。知りたいことはたくさんあって、とても昼休みだけではたりない。
 一週間のうち、たった一日の昼休みだけでも自分を一番にしてくれることが、名前にとっては幸福でたまらなかった。いくら望んでも叶わないと渇望していた時間を、いま体験しているのだ。
 お弁当を食べ終えると、名前はそっと睫毛を伏せてから、覚悟を決めて手嶋を見つめた。

「手嶋さん、今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「こちらこそ。名字を誘うのすげー緊張したけど、オッケーしてくれてよかった。名字さえよければ、毎週一緒に食べようぜ」

 すぐには答えない名前の顔を、手嶋が不安を隠さず覗き込む。なぜそんなに思いつめた表情をしているのか、名前と向き合いはじめたばかりの手嶋にはわからなかった。

「そう言ってくれるのは、すごく嬉しいです。本当に、泣きそうなくらい。でも、わたしのために手嶋さんの時間を削ってほしくないんです」
「削るって、なに言ってんだ」
「いつも昼休み、自転車の練習をしてるじゃないですか。前に、どうして手嶋さんを好きになったかって聞かれたことありましたよね。わたし、自転車に乗ってる手嶋さんが好きなんです。だから、インターハイのための時間を、わたしに使わないでください」

 名前の言葉は静かで、重みがあった。あれだけ渇望した、たった一度の昼休みですら、名前は受け取らなかった。自ら優先順位を下げ、それでよしと笑った。

「手嶋さんが練習しているところを、見せてください。わたしにとっては、それが一番なんです」

 手嶋が躊躇したのは、ほんの一瞬だった。激動する感情に逆らわず、本能が叫ぶまま名前を抱きすくめる。

「……そんなオレでいいのか」
「そんな手嶋さんがいいんです」
「オレ、一生名字に敵わねぇ気がする」

 心臓が壊れそうなほど激しく動く。血管が膨張するような錯覚を覚え、これが自分のものか相手のものかわからないまま、相手にすがるように抱きしめた。

「好きだ」

 耳元で、心をしぼるようにささやかれた言葉に、名前は目が熱くなった。まぶたを閉じると、手嶋の息遣いやにおい、緊張でゆれる肌が自分のことのように感じられた。
 手嶋が名前を離して、勢いよく立ち上がる。

「昼休みは……あと15分か。練習してここまで来るとなると、時間がないな。名字、寒いとこでよけりゃオレが練習するとこ見ててくれ」

 名前はためらいなく頷き、お弁当箱を持って立ち上がった。顔を見合わせ、まだ熱が引かないまま笑う。

「来週の木曜も、一緒に食べようぜ。んで、練習見ててくれよ」

 駆け出す手嶋が、自然に名前の手をとる。

「オレの教室来ても、嫌なことはねェから」

 今泉がひそかに手嶋に伝えた女生徒の件は、名前には内密に処理された。名前はおろか、手嶋さえも巻き込まれたといっても過言ではない女生徒の言い分に、滅多に怒らない手嶋が語気も荒く名前に近づかないよう誓わせたのは、つい先日のことだ。
 これをわざわざ名前に言うことはない。このまま記憶の底へ沈んでいって、忘れてしまうのが一番だ。振り返った手嶋は、首をかしげている名前に笑いかけた。

「なんかこれ、青春って感じだな」

 手をつないだまま、熱中しているものに向かって走る。数回まばたきした名前が、笑って手嶋の手を握り返した。
 名前は知らない。どれだけ自分が名前のことを好きか自覚してほしいと、手嶋が願っていることを。
 数年たってようやく受け入れるそれが、ふたりにとってどれだけ尊くきらめくものになるか、今はまだ当の本人たちですら知らない。やわらかに積み重ねた日々を花のように束ね、それぞれの日常を彩ることになるのは、そう遠くない未来である。


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