ながいながい、高校最後の夏休みのように思えた。

 新開が連絡してくるのを辛抱強く待っていた名前は、前置きもそこそこに、一緒に夏祭りに行こうと書かれた飾り気のないメールに喜んで返信した。
 約束していた夏祭りは明後日で、もう一緒には行けないだろうと落ち込んでいた名前は、文字通り飛び上がって喜んだ。高校最後のインターハイで負けた新開の気持ちを思うとどうしても沈みこんでしまうが、自分まで暗いのはよくないと、素直に喜びを噛みしめることにした。
 しかし、そうはいっても心にひとしずくの薄闇が広がるのは阻止できない。悩んだすえ、用意してあった浴衣を着るのはやめることにした。もしかしたら新開は、夏祭りに行く気分ではないのに約束を守ろうとしているだけなのかもしれない。浮かれすぎるのはよくない。せめてという気持ちで、失敗しながらなんとかきれいにまとめた頭で、かんざしが揺れた。

 名前が待ち合わせ場所にいくと、そこにはもう新開が待っていた。慌てて駆け寄ると、新開の口の端から笑みが消える。

「あれ、浴衣着るって言ってなかったっけ?」
「え? いつ?」
「付き合う前、友達と行くって言ってたときに」
「え、着てもよかったの?」

 名前の顔から気遣いが透けて見え、新開は苦笑した。名前の前では負の感情をできるだけ隠して押し殺していたつもりだったが、漏れ出ていたらしい。
 彼女の前では、自分はいつも格好悪いところを見せる。

「じゃあ来年着てくれよ。約束」
「じゃあ新開くんも浴衣着てきてね。ちょっぴり楽しみにしてたから」

 名前が笑うと、ふっと空気がほどける。新開は頷いて、自然に名前の手を握った。包み込まれた手に、名前の心臓が痛いほど飛び跳ねる。
 屋台を見るふりをして新開の顔を見ると、熱気のせいだけではなく、ほんのりと赤かった。

 そういえばこのお祭りにはクラスの子たちも来てるけど、見られてもいいんだろうか。
 ふたりで並んで屋台を眺めながら、名前はいまさらのように思った。自分はいい。夏休み直前に付き合ったこともあり、仲のいい友達にしか話していないが、新開はどうだろう。
 学校にいると、新開の噂は嫌でも耳に入った。何気ない動作でさえ人の視線を集める新開は、いまは人ごみにまぎれてはいたが、ちらちらと振り返る視線があることは確かだ。

「新開くん、たぶん学校の子もこのお祭りに来てると思うんだけど」
「そうだな。寿一たちも来るって言ってたぞ」
「見られてもいいの?」

 そっと、まだ恋愛が続いているか確かめるように、舌先に本音をのせた名前の顔は、不安で陰っていた。
 新開の胸がつまる。名前のことを大事に思っていた。いまだって、手をつないだはいいものの、手のひらがじっとりと汗ばんできて、離したほうがいいのかみっともなく悩んでいたほどだ。
 だが、名前の立場からすれば自分は、付き合ってすぐ夏休みに入って満足に会えず、インターハイが終わったあとぷっつりと連絡が途絶えた男だ。もしかしたら、律儀に夏祭りに来るという約束を守っただけで、別れ話をされると思っているかもしれない。
 握った手に力をこめる。ずっと日の下で練習していた新開の手より白く、華奢な名前の手も、同じように汗ばんでいた。

「部活のやつらには、もう名字さんのことは言ってる。別に隠してるわけじゃない」

 すうっと息を吸う。夏独特の、湿気が多いなまぬるい空気。

「だって、ここに名字さんのクラスの友達も来るんだろ。……かっこ悪いけど、オレ、名字さんと仲いい男子に、嫉妬してるんだ。だから、見せびらかしたい。名字さんがオレの彼女だって」

 ゆっくりと瞬きをして、見開かれていく目に、新開はできるだけ余裕があるように笑ってみせた。ぎこちなくても何でも、名前が安心するように。

「知らないだろ、オレがどんだけ名字さんを好きか。言わないだけで、ずっといろんな人に嫉妬してた」

 止まりそうになった名前の体に、後ろから人がぶつかる。慌てて歩き出した名前は、考えがまとまらない頭で新開を見上げた。
 ずっと片思いをしていた。新開が自分のことを覚えていないどころか、知らないこともわかっていた。名前にとって鮮やかな恋に落ちた瞬間も、新開にとってみればすぐに忘れられる、ささいな一瞬だったことも。
 返事の代わりに、つないだままの手に力を込めた。指先が動いただけのそれを汲み取り、力強い手が握り返してくれる。
 なんだか泣きたくなった。いろんな感情がうずをまいて、竜巻のように名前を襲う。自分さえままならないのが恋だと、名前はようやく知った。

「来年、今度は浴衣を着て、またお祭りに行くから」

 名前のひとみがゆらゆらと揺れる。夜空も星も屋台の明かりも、熱気も涼やかさも、すべてを映していると言われても信じられるような、永遠の一瞬を切り取ったような一秒は、すぐに過ぎる。

「そのとき、また聞かせて」

 新開は、何かを吐き出そうとして、吐息しか出なかった口を閉じた。
 ずるい。そんな、なにもかも許すような顔をして、甘く束縛するなんて、完敗じゃないか。

 川原には、はやくから花火のために場所取りをしていた人であふれかえっていた。川沿いでも、ところ狭しと並んでいる屋台の列は途切れることはない。
 新開が、そっと名前を引き寄せる。アナウンスが入り、期待で見上げる人々の前で花火が夜空を駆け上がる。誰もがそれを追って顔を上げるなかで、新開はそっと、名前にくちづけた。
 猶予はあった。アナウンスが入ってから、打ち上がるまで。拒否しなかったんだから、嫌とは言わせない。
 名前の顔が、ぼふっと音がしそうなほど赤くなって、新開は笑った。愛しさだとか、未だ引きずる悔しさや後悔、愛着、甘く切ない想いがごちゃまぜになって、それでも笑った。
 ひゅるる、と花火があがる音がして、新開がくちびるを寄せる。ぎゅうっと目をつむった名前は、くしゃくしゃな顔になっていたけど、それすらも可愛かった。
 二発目の花火があがる。ふたりの思いをまとめて綺麗に咲かせているようなそれを忘れないだろうと、新開は思った。それが毎年上書きされていくことはちょっぴり寂しかったけれど、喜びが勝る。
 来年もまた名前に完敗するのだろうと、必死に顔の熱を冷まそうとしている彼女のかんざしをつついた。負けて嬉しいと感じるのは、不思議と心地よかった。


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